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今日のテーマは「イエス様が悪魔から誘惑を受けられた」ということです。
4章1節を見ますと、「さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川からお帰りになった。そして、荒野の中を〝霊”によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた。」とあります。
イエス様は、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた。
3章21~22節を見ますと、洗礼を受けて、川から上がられると天が開けて聖霊が鳩のように、目に見える姿でイエスの上に降って来た。
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という声が天から聞こえた。」とあります。奇跡とも言える天からの声があった。
「イエス様、あなたは、神が愛される神の子である。」という宣言がなされた。
イエス様は聖霊に満ちて、ヨルダン川から帰られた。
ところが悪魔が黙っていなかった。
神の栄光がイエス様に下って、恵みに満ちた後、これに対して悪魔がイエス様を試練にあわせるのです。
ヨルダン川での、聖霊に満ちた祝福と、力を与えられた。それに対して、悪魔が戦いをいどんでくるのです。
この事を私たちは、心に充分にとめていなければならないと思います。
イエス様を救い主と信じる信仰者に人生の中でいろんな試練がある、ということです。
神様の恵みを受けた対照として、いろんな形で悪魔が誘惑をもって、試練をかけてくるのであります。
さて、次にイエス様は、荒れ野の中を霊によって引き回された。とルカは記しています。
イエス様は、荒れ野の中を引き回された、というのです。
マルコ福音書は1章12節で、「『霊』が、イエスを送り出した」と告げています。本当は、もっと激しい言い方が含まれている。
口語訳聖書の方では「追いやった」と訳しています。
ルカは、「霊によって引き回された」という表現です。どういうことでしょうか。
このことは、「イエス様がどうしても荒野へ追いやられ、サタンの誘惑を受けなければならなかった」ということを、強く言おうとしていることです。
実は、その事が父なる神様のお決めになった必然であった、ということです。
サタンが、イエス様を荒野へと引き回したことを、父なる神さまが許されているのです。想像もつかない、以外な思いです。
ヨルダン川での洗礼の後、天がさけて、そこへ聖霊があらわれ、天からの父なる神の声を、イエス様に聞けるように導いたあの聖霊が、今度は、父なる神のみ旨によって、イエス様を荒野へと追いやった。
ここに不思議な、聖霊の働きを見るような気がします。
父なる神は、御子イエス様を、この世に送り出されるにあたって、御子を力強く訓練されて、この世に送り出されている。
これから先の、イエス様の宣教の道は、並々ならぬものがある。何事もない平穏な道ではない。
究極的には、この肉にある御子イエス様は、十字架の死という、苦難のきわみにあわねばならない遠大な、神の定めがあったのです。
イエス様の、地上を歩まれる道は、そもそも初めから明るい輝きに満ちたものではありませんでした。
ベツレヘムでの誕生の時から、貧しく、きびしい環境の只中に、この世に生を受けられ、いよいよ宣教の道へと出発される。最初に、荒野へと向かわれたのです。荒野は、まさに水も草木もない、岩と砂漠のきびしい環境です。
いわば、それは無の世界、死の世界、神に敵対するもろもろの勢力が集まったところ、という意味が含まれているでしょう。
イエス様は、そういう荒野へと送り出され、サタンの誘惑を受けられたのです。先ず40日間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。
私たちでしたら、2~3日でも何も食べないなら空腹です。それが40日間です。これは命の極限に追い詰められた、ということです。
もし、このままでいくなら、イエス様は飢えて死ぬほかないであろう。そうなっては全てがおしまいになってしまう。
そういう極限状況の只中で悪魔の言葉があったのです。
本当に、イエス様は神の子なのかという点に集中して、誘惑が襲いかかるのであります。「神の子なら、この石にパンになうように命じたらどうだ」。
空腹の絶頂に、周囲にごろごろしている石を、パンに変えてみよ!。
そして、自分のいのちを救え、と言い寄ったのです。
これに対して、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある、とお答えになった。
これは、旧約聖書「申命記」8章3節の言葉をもって、返されたというのです。
人が生きる、ということは、どんなことかとなのか、という真に大きな重い真理の課題が含まれている。
「人は、この世に生まれてきて、どのように生きるのか」というテーマです。
「申命記」8章で示された言葉というのは、神はイスラエルの民をエジプトから脱出させ、40年の間、荒れ野を進み行くこの民に、試練を与えられた。
この民を真に生かすために、あらゆる必要を備えて下さった。
「人はパンだけで生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるのだ」。このことを、あなたに知らせるためである。
人は、パンという単なる物質によってだけで生きるのではない。人はいのちの主なる神の意志によって生かされるのである、ということです。
今の時代、私たちへの警告でもあります。
私は、有名な放送作家で演出家の、<倉本 聰>という人が、先日テレビで「100年先への人へのメッセージ」という番組で、心打つような大切なことを言っていました。一言でいいますと「戦後の日本は経済のことばかりで70年やって来た」。
イエス様は、いのちをかけて、神の御心に従うことを貫かれていった、と言っていいでしょう。
イエス様は、石ころをパンに変える力を持つ方でありました。しかし、それにも関わらず,神の御心に全てを委ね、従って生きるという道を貫徹されたのであります。
フィリピの信徒への手紙2章6~8節に、パウロは次のように書いています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現われ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。
イエス様の言葉は、父なる神に対する深い愛と信頼に基づくものでありました。
そこで今度は、悪魔は、まさにこのイエス様の、主への信頼をさか手に用いて、次の誘惑の言葉をかけてくるのでした。
5~6節「悪魔は、イエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、そして言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。もし、わたしを拝むなら、みんな、あなたのものにいなる』」。
これは、また、神の子であるイエス様の使命の核心に迫る試みでありました。
なぜなら、神の支配を地上に確立して、全人類を救いに導くことこそ、神の子としての命ぜられていることでしたから。
又、一人ひとりの魂を悔い改めに導き、信じる群れを新しい民として、神のみ前に献げることでありました。
悪魔はそのことを、うまく用いていきます。
この目的を達成するためには、この世の助けも必要ではないか、悪魔は誘惑します。イエスよ、あなたの聖なる使命のために、私がよい協力者になろう。
私には、この全世界を支配する権威と栄華すら与える事ができるのだ、と言う。
今日、この世には、悪の力がはびこり、人々を混乱させ、飢えに苦しむ人々があり、戦争によって生き場がなく、難民の人々が死線をさまよっています。
この世は、罪と死の支配にゆだねられているように見えるが、しかし、その聖なる支配は厳然として、神の御手に確立しているのです。
ある程度までは、悪魔の手にゆだねられているにしても、神様は決して、すべてを悪魔に渡さているのではない。そして、最後に悪魔は滅びるのです。
ヨハネ黙示録20章10節には、終わりの日に悪魔もまた、火と硫黄の燃える池に投げ込まれるであろう、とあります。
イエス様は、悪魔のこの誘惑に対して、申命記6章13節の御言葉をもって答えられた。「あなたの神である主を拝み、ただ主イエスに仕えよ」。
さて最後に、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。あなたの足が石に打ち当たる前に、天使たちの手であなたを支えるであろう」。
悪魔はイエス様をエルサレムの神殿へと連れて行ったのです。ここは宗教上の最も聖なる場所です。
そういう場で、父なる神とその御子との密接な結びつきである、愛と信頼を試そうとしたのです。
もし、本当に神の子なら、神は天使を送り、神殿の屋根から飛び下りても、天使の手であなたを支えるであろう。
実はこの背景には、旧約聖書「詩篇91篇」があるのです。
この詩人が神様への信頼をたたえています。
彼の求めに対して、神への応答が歌われ、ここに神と詩人との間の深い愛と信頼が結ばれている、そういう詩篇です。詩篇91篇14~15節を見ますと、「いと高き全能者こそわが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と、神に対する無条件の信頼を告白しています。
それに対する神の応答です。「彼は、わたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえ、わたしは彼を守る。彼がわたしを呼ぶ時、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みの時、共にいて彼を救い、彼に栄光を与えよう」。
悪魔は、この詩篇91篇のことを知っているでしょう。
この詩篇の作者のように、神の深い信頼があるなら、ひとつ試してはどうかと誘うのです。
イエス様は悪魔に対して、きっぱり反対された。
「主なるあなたの神を、試してはならない」という言葉があるのだ、と言われるのでありました。
イエス様は、以上の三つの悪魔の言葉をしりぞけられました。
イエス様の生涯は、律法学者、ローマ帝国、そして悪魔との戦いの連続であった、ということであります。
悪魔の誘惑にあわれたイエス様のメッセージから、私たちは何を考えられるでしょうか。
最後に、ペテロ第一の手紙4章12~14節の御言葉を聞いて終わります。
「愛する人たち、あなた方を試みるために身にふりかかるような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。・・・神の霊があなた方の上にとどまって下さるからです」 アーメン ハレルヤ
主日礼拝説教 四旬節第一主日2016年2月14日の聖書日課 ルカ4章1~13節