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今日の聖書日課としては、20章9~19節までであります。ここには、イエス様が語られた「ぶどう園と農夫のたとえ」の話です。このたとえの話を、イエス様が、どんな状況の中で語られているか、そのことを、まず十分知ることで、たとえの話の意味を知る重要なことであります。それでは、そのたとえ話を語られた状況というのは、どういうところかといいますと、20章1~9節であります。1節を見ますと「イエスが神殿の境内で、民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが長老たちと一緒に近づいてきて、言った」とあります。今日の礼拝は、受難節であります。1~9節の出来事は、イエス様が十字架にかかられる3日前の出来事です。
イエス様は、エルサレムの神殿で、過越の祭に集まってきている民衆に福音を教えておられた。マタイの記事の方では、この部分は書いていません。しかしルカは「世界に向けた福音宣教」のことが、イエス様の使命であったことが重要なこととして、しっかりと書いているのです。 さて、そこへ、祭司長たち、律法学者、そして長老がイエス様の前に登場しました。ここに登場してきましたのは、サンへドリンと言われる、いわゆるユダヤの最高議会を構成しているメンバーの、幹部の連中であります。この世で政治的な権力を持っている、プライドの高い連中であります。 まず祭司長というのは、大祭司が選出される母体となる者たちです。普通、誰でもなれる者ではありません。先祖たちから受け継がれた、レビ族の伝統の中でつちかわれた、非常に宗教的プライドの高い人々です。この神殿のすべての管理と祭儀をとり行う任務を負っています。年に1度大切な祭りの最中であります。 律法学者たちは、旧約聖書の律法の研究や解釈では、高い学識とプライドがあり、会堂で律法を教え、守るようにとりしまっている学者たちです。 サンヘドリンの大部分の勢力を持っていたのは、サドカイ派といわれる党派でした。それに対抗して、パリサイ派といわれる派閥の長老たちです。 普段は、いろいろな利害関係で対立しているグループの幹部が、今、一同に集まって、イエス様に対抗して、議論をしかけて来たわけです。ですから、神殿において、ユダヤ今日の宗教の権威と議会と学者などの権威を総動員して、イエス様の宗教の権威と対立していると言ってもいいのであります。
イエス様の側には、教えを熱心に聴こうと集まっている群衆がいます。彼らは、エルサレム入城の時から、イエス様がろばに乗ってこられる、ホサナホサナと、民衆が、歓喜の叫びで迎えています。ものすごい、人気が上がっているのです。 サンヘドリンの議会や、ユダヤ教としては、この群衆が恐ろしいのであります。暴動によって、何が起こるかわからない。この者を、排除してしまわなければならい、ち、ひそかな計画がすすめられているわけです。
いつかは、正面と向き合って、対決することになるだろうということは、もうすでにあって、いよいよぶつかったのであります。 長老たちは、イエス様に問いかけたのです。「何の権威によって、これらの事をするのか」と。「そうする権威を与えたのは、誰か」というのです。 これらの事と彼らが言ったのは、前日に、イエス様が神殿で行われた宮清めのことを言っているのは、わかりきったことです。 イエス様は前日、神殿で商売をしているものたちの台をひっくり返し、いけにえのやぎや、子羊や、はとを、追い払い、ものすごい怒りを爆発させて、宮清をされました。「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と書いてあるのに、あなた方は、強盗の巣にした。商売をしている者たち、そして、宮の管理をまかされていた祭司長たちが、このイエス様のいかりに対して、だまっていなかったのは当然でしょう。
「誰の権威でやっているのか。」これに対して、イエス様は、すぐに直接に答え給わない。まず、ではたずねるが、「バプテスマのヨハネは、天からのものだったか、それとも人からのものだったか。」彼らは、答えられなかった。 そうして、イエス様は9節から19節にありますように「ブドウ園と農夫」のたとえ話を祭司長たち長老たち、そして群衆にも語られていったのであります。 この譬話は、聞く人々にすぐわかるものでした。イエス様の時代、たびたび実際に起こっていた事件であったと思われます。ぶどう園の主人は、農夫たちの反行に対して最後に、愛する息子を送ったのでありますが、その息子も、ぶどう園の外に、ほうり出して、殺してしまった。15節には、「さて、ぶどう園の主人は、農夫たちを、どうするだろうか。戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を、ほかの人たちに与えるにちがいない。」 つまり、ぶどう園の主人である神様は、農夫たちである祭司長たちを、皆、ほろぼし、異邦人の手に渡されて、神の御国の宣教は広げられていく、ということを予言しているわけであります。
ルカは、この御言葉がどんなに深くたとえ話の聴衆の良心に食いこんだかを、描いたのです。 彼らは自分たち自身に、神のさばきの判決が下されるのを知ったのです。 このたとえ話は、イエス様が父なる神より遣わされた神の子であることを示すためであったのです。イエス様が宮清めをされた、「これらの事をなす権威」は、だれによってだったか。それは神御自身であることを明らかにされたのであります。
17節以下~19節までをみますと「イエス様はさらに、旧約聖書詩篇118篇22節からの引用で建築家の話をされています。17節「それでは、こう書いてあるのは何の意味か。家を建てる者の捨てた石。これが隅の親石となった。」その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その意思がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。言い換えますと、イスラエルの指導者たちに捨てられた石、つまり、イエス・キリストが隅のかしら石となるのだ。神の民としての土台石となるのである。
ダニエル書2章34~35節の言い直しで、この石であるキリストは滅びる者にとっては恐るべき破壊者であることを語っています。 神様がキリストによって新しい神の民を起こすこと、そして古い民・イスラエルは、キリストにつまずき滅亡するのだ。とすでに予言で言われているということです。
イエス様こそ、全人類の罪を負って隅の頭石となられた。十字架の死を負って、復活し、今も生き給う、私たちの救い主であります。アーメン。
人知では、とうていはかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守るように。