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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が神の大いなる力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的のようです。イエス様が天の父なるみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから人として生まれたことを記念してお祝いするのはクリスマス・降誕祭でした。復活祭はクリスマスに劣らずキリスト教会では大事なお祝いです。一度死んだ者が復活させられて、死の悲しみが生の喜びにかわるということで、ちょうど暗い寒い冬が明るい暖かい春にかわる時期にぴったりのお祝いにみえます。
ところで、イエス様が復活されたことの何が私たちにとってそんなに喜ばしいことになるのでしょうか?復活祭の本当の意味がわかるために、このことを少し考えてみましょう。イエス様は沢山の苦しみを受けて十字架につけられて死なれたが、復活させられた、ということで、復活祭とはイエス様の不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と言ったらどうでしょうか?また、イエス様が死んだため悲しみにくれていた弟子たちが、復活させられたイエス様に出会って喜び勇気づけられた、ということで、弟子たちの不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と言ったら?復活祭とは、歴史ドラマでも観るように、昔の人物たちの運命の変転をハラハラしながら追って最後にめでたしめでたしの気分を味わえるお祝いでしょうか?いいえ、決してそうではありません。イエス様が死から復活させられたことは、当時の人物たちの時代という時間の壁を突き破って、今を生きている私たちの運命の変転そのものに関係することなのです。そのことがわかるために、イエス様の復活とはそもそも何かということを考える必要があります。
そこで、イエス様の復活とは何かをわかるためには、イエス様はなぜ死ななければならなかったのかを考えなければなりません。もちろん、それはイエス様が当時のユダヤ教社会の宗教エリートに楯突いて反感を買って、ローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された、ということなのですが、実はそれは見かけ上の出来事です。見かけの奥にある真実はこうです。旧約聖書に記された神の計画が、イエス様の十字架と復活という形を取って実現したということです。
それでは、旧約聖書に記された神の計画とは何でしょうか?それは、罪にまみれて神聖な神との結びつきを失い死ぬ存在になってしまった人間が、罪を洗い流されて神との結びつきを回復してこの世を生きられるようにするという計画です。この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるようにするという計画です。それでは、この神の計画とイエス様の十字架・復活はどう関係するでしょうか?それは次のように関係します。まず、イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を全部代わりに受けてくれて、神に対して罪の償いを全部してくれました。このように私たちの罪を請け負って神の罰を受けたので、罪はイエス様と一緒に神の罰を受けて破綻しました。こうしてイエス様が自分を犠牲にして罪の力を無力にしたので、私たちは罪の支配から解放されました。さらにイエス様が復活させられたことで、死を超える永遠の命への扉が私たち人間に開かれました。その扉は、罪に支配されたままの者は入れませんが、イエス様を救い主と信じて神から罪の赦しを得て罪の支配から解放された者は入れるようになりました。
このように罪と死の支配から人間を救おうとする神の計画が実現したことで、今度は私たち人間もイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしました。こうして人間は新しい希望をもってこの世を生きることができるようになりました。新しい希望とは、一つには、たとえこの世の人生が終わっても、命は復活の日を経て永遠の命という形をとって続いていく、だから死は終わりではないという希望です。もう一つには、死者の復活が一斉に起きる復活の日、神は御心に従って、懐かしい人同士が合いまみえるようにしてくれるという復活の日の再会の希望です。実に神は、私たちがこうした希望をもってこの世を生きられるようにしてくれたのです。
そういうわけで、復活祭とは、イエス様が復活させられたことで、実は私たちの将来の復活が可能になったことを喜び祝う日です。また、復活させられるという希望と復活の日に再会できるという希望を私たちに与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活させられた主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったのです。イエス様自身のためでもなく、弟子たちを喜ばせるためでもなく、イエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちにとって大きな喜びの日になるのです。
2.
イエス様の復活は、まさに私たちの復活に先だって起きました。イエス様の復活が起きなければ、後に復活は続きません。イエス様の復活が将来の私たちの復活の先駆けになっていることは、先ほど読んでいただいた本日の使徒書である第一コリント15章からも明らかです。23-24節で復活には順序があると言われています。「最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち」、つまりイエス様の復活は今から約2000年前に起きましたが、その他全ての者の復活はイエス様の再臨の日に起きるということです。
第一コリント15章20節には「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言われています。「初穂」とは、ギリシャ語のアパルケーαπαρχηの日本語訳ですが、「最初の者」とか「第一子」というのがもともとの意味です。興味深いことに、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語訳の聖書では素直に「眠りについた人たちの中で第一子となられました」となっています。英語訳(NIV)では「最初の果実」firstfruitsで、植物になぞらえることで日本語訳に近いです。「初穂」の意味ですが、単純に「年の一番最初に実った穂」という意味の他に、宗教的な意味もあるので注意が必要です。日本の宗教的な伝統では、年一番最初に収穫して神仏に捧げる穀物を意味します。穀物ではないですが、似たようなことがユダヤ教の伝統にもあり、人間であれ家畜であれ第一子は神に捧げられるものとして聖別せよという律法の規定がそれです(出エジプト13章1-2節、12-13節、22章28節、34章19節、民数記3章13節)。ルカ2章に赤ちゃんのイエス様が両親に連れられてエルサレムの神殿に行く場面がありますが、その目的の一つが第一子の聖別でした(23節)。
日本語訳で「初穂」としたのは、何か神に捧げられるものという意味をもたせる意図があったのかどうかはわかりませんが、一つ注意しなければならないことがあります。それは、復活して復活の体を持つイエス様はもう捧げものではない、ということです。イエス様は既に十字架の上で全ての人間を罪の支配から贖い出すために御自身を神聖な生け贄として神に捧げたのです。十字架の出来事の後で、もう神に捧げる犠牲などありません。そうは言っても、十字架の出来事の後にも人間には罪がまとわりつきます。それでは、罪がまとわりつく時、人間が罪の支配から贖われた状態を保てるにはどうしたらいいのか?それはもう、イエス様が成し遂げた全てのことのゆえに、彼こそが自分の救い主だと信じて洗礼を受けてイエス様と結びつくこと、そして聖餐式でイエス様の血と肉を受けてその結びつきをしっかり保っていくこと、それしかありません。
そういうわけで、イエス様は復活の「初穂」と言う時、それは単純に眠りについた者たちの中で一番最初に復活させられた者ということです。私たちに先だって復活した、イエス様の復活が起きたので続いて私たちの復活も起きるということです。皆さん、ここで広々とした田んぼ、または麦畑を思い浮かべてみて下さい。秋の収穫の時が近づきました。どの穂か、最初に実った穂があったかと思うと次々と他の穂も実っていって、田んぼや麦畑は黄金色に輝きます。稲や麦のように私たちもイエス様という初穂に続いて行きます。イエス様の再臨の日、それは復活の日であり、また天地が新しく創造される日ですが、私たちは眠りから覚まされて、復活の体を着せられて天の御国に迎え入れられます。実をならせた穂として。
先ほどみた第一コリント15章20節で「眠りについた人たちの初穂」と言われていますが、聖書ではこの世から死んだ後は、復活の日、イエス様の再臨の日までは「眠り」の期間です。ルターによれば、この「眠り」は、この世の痛みや苦しみから解放された心地よい眠りである反面、眠っている本人にすれば目を閉じてから復活の日までの長い眠りは、本人にはほんの一瞬にしか感じられないという眠りです。眠っているだけなので、飢えも渇きも感じないし、また、この世で生きている人を見守ったり、影響力を及ぼすこともありません。この間ずっと起きて目を覚ましていて、この世の人を見守ったり影響力を及ぼすのは、天地創造の神だけです。死んだ人の霊や魂などではありません。
3. 本日の福音書の箇所で、復活の主イエス様とマグダラのマリアの再会が記されていますが、これは想像を絶する出来事です。というのは、この地上の体を持つマリアが復活の体を持つイエス様にすがりついているからです。復活したイエス様が持っている復活の体とはどんな体なのか?それについては、使徒パウロが第一コリント15章の中で詳しく記しています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42-43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52-54節)。イエス様は、ずばり「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言われます(マルコ12章25節)。
復活というのは、ただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば、遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起きません。復活とは、肉体が消滅しても、復活の日に新しい復活の体を着せられて復活することです。その体は、もう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる体です。この地上は、そのような体を持つ者のいる場所ではありません。イエス様は本当なら復活の後、吸い取られるよう天に昇らなければならなかった。なのに、なぜ40日間も地上にとどまったのか?その期間があったおかげで、弟子たちをはじめ大勢の人に自分が復活したことを目撃させることが出来ました。きっと、それが目的だったのでしょう。
復活したイエス様が、私たちがこの地上で有する体と異なる体を持っていたことは、福音書のいろいろな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事が記されています。弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。
復活したイエス様の体について、もう一つ不思議な現象は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったということです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事が記されています。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経った後のことでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初イエス様だとはわかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。
さて、天の御国の神聖な神のもとにいられる復活の体を持つイエス様と、それにすがりつく、地上の体を持つマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。「すがりつく」というのは、相手が崇拝や尊敬の対象である場合は、ひれ伏して相手の両足を抱き締めるということだったでしょう。イエス様に気づく前、マリアはずっと泣いていました。イエス様が死んでしまった上にその遺体までなくなってしまって、その喪失感と言ったらありません。では、イエス様に気づいてすがりついた時のマリアはまた泣いたでしょうか?次のように考えて見たらどうでしょうか?最愛の人が何か事故に巻き込まれたとします。もう死んでしまったとあきらめていたか、またはまだあきらめきらないというような時、その人が無事に戻ってきて目の前に現れるとする。その場合、たいていの人は感極まって泣き出して抱きしめたりするでしょう。イエス様にしがみつくマリアもおそらく同じだったでしょう。
イエス様が「すがりつくな」と言ったということですが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」μη μου απτουです。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」Do not hold on to meです。聖書の訳にも日米同盟があるみたいですが(もっとも、ドイツ語ルター訳でないEinheitsübersetzung訳をみると、「私にすがりつくな」Halte mich nicht festでした)、イエス様はマリアに対して、「触れるな」と言っているのか「すがりつくな」と言っているのか?
私は、イエス様が復活した体、まさに天の御国の神のもとにいることができる体を持っているということを考えると、ここは原文通りに「私に触れてはならない」の方がよいと思います。イエス様は、この言葉の後にすぐ理由を述べます。「私はまだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は、自分に触れるな、と言われる。その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが有している肉体の体とは異なる、神の栄光を体現する霊的な体を持つ者となった。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で天の父なるみ神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間はこの地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上のものなので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。
このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じていることです。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(ψηλαφησατε、βαλε両方ともアオリスト命令形)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は、「今の自分は本来は神聖な神のもとにいるべき存在なのだ。だから触れてはいけないのだ」と言っているのです(απτου現在の命令形)。そういうわけで、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止なのです。確認のためとかイエス様が許可するのでなければ、むやみに触れてはならない、ということなのです。
神聖な復活の体を持って立っているイエス様。それを地上の体のまますがりつくマリア。本当は相いれない二つのものが抱きしめ、抱きしめられている、とても奇妙な光景です。そこには、かつて旧約の時代にモーセやイザヤが神聖な神を目前にして感じた危険はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだ、と言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。感動的な場面です。イエス様は、今マリアは地上の体ではいるが、自分を救い主として信じている以上、復活の日に復活の体を持つ者になるとわかっていたのでしょう。イエス様の次の言葉から、そのことが窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。イエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられる道が開かれたのである。」
4.
兄弟姉妹の皆さん、今日は復活祭です。イエス様の復活を通して、私たちにも復活の道が開かれました。イエス様が復活の初穂ならば、私たちはそれに続いて実を実らせる穂です。イエス様は有名な種まき人のたとえの中で、良い土地に蒔かれた種はしっかり成長して、30倍、60倍、100倍の実を実らせると教えました。
十字架の贖いの業のゆえにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様と結びつく者は、
神の意思に照らせばまだ自分に罪が宿ることを思い知らされつつも、
その度に十字架の主に心の目を向けて、罪の赦しが揺るがないことを繰り返し覚え、
神に対する感謝の念を新たにし、本当に神の意思に沿うように生きようと志向する。
この時、私たちは良い土地に蒔かれた種であり、「罪の赦しの救い」から絶えず栄養を受けて成長していて、やがて30倍、60倍、100倍と実を結び、初穂のイエス様に続いて、復活の日に復活するのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
主日礼拝説教 復活祭2016年3月27日 聖書日課 出エジプト15章1節-11節、第一コリント15章21節-28節、ヨハネ20章1-18節