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今日の聖書は、エマオで復活のイエス様が二人の弟子に現れた、有名な出来事です。
ルカはこの出来事を、かなり詳しく、多くの行数を用いて書いています。
マルコの方は、ほんの数行で書いています。
まず、マルコの方の記事を見ますと、16章12~13節「その後、彼らのうちの二人が、田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿でご自身を現された。この二人も行って、残りの人たちに知らせたが、彼等は二人のいうことも信じなかった。」
マルコの方は、復活されたイエス様のことを信じなかった、信じなかったとそればかり書いているんですよ。
安息日が終わって、マグダラのマリアたち婦人たちが墓に行ってみると、墓の中は、空っぽだった。そこへ、天使がきて告げたのです。16章6~8節を見ますと、「驚くことはない。あなた方は、十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って弟子たちと、ペトロに告げなさい。『あの方はあなた方より先に、ガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこで、お目にかかれる。』と。
婦人たちは、墓を出て、逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった、恐ろしかったからである。
ここでの婦人達は、白い衣を着た若者が恐ろしかったのではないんです。
イエス様なきがらがなくなってしまっている事に驚いた。震え上がって、正気を失っている人です。なぜでしょう。
婦人たちの本心をもっと言いますと、十字架で死なれたイエス様がよみがえらされている、もうここにはいない、ということ。
正確には、肉のイエス様は死んで、神によってよみがえらされた。
婦人たちは、自分のできる手でイエス様に精いっぱいつくそうとして来てみたが、もう、それどころではないことがわかった。
神の御手のうちに、人間の考えの領域を超えた大変な事が起こっていることを、感じとった婦人たちはもう正気を失って、逃げ去っています。
恐ろしかったからである。・・・こうマルコは書いているんです。
16章11節を見ても、イエスは生きておられる、と他の弟子たちはその知らせを聞いても信じなかった。とあります。
さて、ルカの方では、エマオに向かっている二人の弟子も、イエス様が十字架に死んでしまわれた事に失望、落胆して、復活されたイエスの知らせを聞いても、信じられないで、もう自分たちの故郷のエマオに歩いて帰っているのでした。
そこへ、復活のイエス様ご自身の方から近づいて、一緒に歩いていかれたのであります。
ルカ24章13~16節を見ますと、「ちょうどこの日、二人の弟子がエルサレムから60スタディオン離れた、エマオという村へ向かってあるきながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い、論じ合っていると、イエス様自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
この中に私たちへのメッセージは何かといいますと、人生の歩みに失望した、名もなき平凡な人々の中へ、復活したイエス様は、いつでも生きて働いていて下さる、ということです。そのことは、私たちの目には見えません。気づいてもいないことです。
16節に「二人の弟子の目にはさえぎられていて、イエスだとは分からなかった。」
マルコの方では、「イエスが別の姿でご自身を現された」とあります。
十字架の上で死をとげられたイエス様の体はもう、肉にあるのではありません。あえて言えば、霊の体、復活の体にあるイエス様で、二人の弟子は今、西に向かって夕陽に目がくらんでなお、いっそうイエス様であることに気づかなかったのであります。
マルコにあるように、あえて、別の姿で二人の者に近づいておられる。不思議な出合いであります。
イエスは、知らぬ顔して、二人に問われた。
「あなた方が、道を行く途中で議論して、やりとりしていた話は何のことですか。」
二人のうちのクレオパという人が答えていった。「エルサレムでの大変な出来事について、あなたは、御存知なかったのですか。」と、19節から24節にわたって、くわしく、ルカは書いています。
十字架にかかられたイエス様のことを、復活されたイエス様本人に向かって、話しているのです。
復活のイエス様は、それを、ずーっと聞いて、二人に語られるのです。「その方は、復活するはずではなかったのか。」と、そのことを旧約聖書の予言から説き明かし話されたのでした。
熱心な話が続くうちに、目指す村に近づいて来て、イエス様はそのまま進んで行かれる様子であったのですが、二人の弟子は、エマオに一緒にお泊り下さいと、無理矢理引き止めた、とあります。
さて、30節を見ますと、「一緒に食事の席にいたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えてパンを裂き、お渡しになった。すると、二人の目が開けてイエス様だと分かった。が次の瞬間にはその姿は見えなくなった。」
夕食の食卓でパンを裂いて祈られ、ここには食卓の主人となって、二人の弟子にパンを渡される手もとを見てその瞬間、二人の目が開いてわかった。何と、イエス様だ!何という驚くべき、劇的な展開ではありませんか。
なぜ、パンを裂いて渡される瞬間、目が開いたのであろうか。ある聖書学者は、恐らく5000人の多くの人に、パンと魚を与えられたあの奇跡の場に、この二人の弟子も参加していて、パンが裂かれ、ふえている奇跡のイエス様の手もとを、印象深く心にとめていたのではないか、と言います。
実に素朴な田舎の貧しき食卓で、うす暗い中に、復活された姿のイエス様の手もとと、1人の弟子に光が射しているこの光景を題材にして、カラバッジョという有名な画家が絵に描いています。その絵が、今、東京にきているのです。
名もなき二人の弟子は、復活のイエス様と出会えた、この瞬間の、祝福に満ちた空間は素晴らしい光景であります。
復活の体のイエス様がガリラヤに行き、そこで弟子たちに会いたもうた。と、マタイ28章に記されています。
ヨハネ20章にも、マルコ16章にもあります。
又、弟子たちと別れの昇天をされたのは、オリブ山のふもとのベタニヤでありました。(ルカ24:50)
このようにガリラヤは、イエス様の故郷であって、初期伝道が行われた地域でありました。
又、ベタニヤはイエス様の愛するマルタとマリヤ姉妹の家があったところで、ここを拠点として滞在され、エルサレムへ上られたのでした。
どちらも、イエス様にとって最もなつかしい土地でありますから、復活された後も、そこで弟子たちに再会されたことは極めて自然の事柄であります。
ところが、ここにエマオというこれまでにイエス様の生涯に一度も出て来たことのない村です。
イエス様と、縁もゆかりもない土地であります。
エルサレムから見ると、ガリラヤは北の方です。ベタニヤは東の方です。ところでエマオは西の方であります。復活のイエス様がまず、わざわざ二人の弟子のために、エマオへの道を共に歩まれたのはなぜでありましょうか。
さて、次にこの二人の弟子に現れたのは、なぜでしょうか。1人の名はクレオパという人で、もう1人については名もわからないのです。
この二人は、あの12使徒たちと比較されるような重要な人物ではなかったことは明らかです。
彼らの地位が重要でなかっただけでなく、聖書を理解するのにも愚かであって、信ずるには心にぶいものであったでしょう。
このような名もなき二人の愚かな弟子のために、復活されたイエス様がわざわざ現れて、聖書の真理を説き明かし、十字架のイエスは、復活するのではなかったかと、復活の御自身をまず示されたのです。
エマオという場所といい、二人の弟子の人物といい、たいして重要でない小さいものの為に、イエス様が復活の当日、何よりすぐに現れておられる。
共に道を歩いて下さっており、共に宿をとり、聖書を解き明かし、食事ではまず先にパンをさいて与えて下さった。
この福音書を書いているルカは、私たちに誘っているのです。
イエス様が、神の子として復活し、生きて働いて下さる。
しかも誰もが考えるような12の使徒ではない、名もなき二人の弟子に、しかもエマオという場所も地域を越えて、やがて福音書は広く、広く、全世界と広げられていくことをルカは、強く、強く、このエマオの物語で印象深く、感動を覚えるメッセージとして私たちに与えてくれているのであります。
ハレルヤ アーメン