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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
キリスト教会やキリスト教そのものにとって使徒パウロが重要な人物であることは誰もが認めるところでしょう。もちろん、神の神聖な犠牲の生け贄になって十字架の上で死なれて人間を罪と死の支配から解放してくれたのは、言うまでもなく神のひとり子のイエス様です。パウロではありません。十字架の死と死からの復活の主人公はイエス様です。パウロが重要だというのは、このイエス様の十字架の死と死からの復活は一体何だったのか、そしてそれがどれだけ全ての人間にとって大事なことであるのか、こうしたことをはっきり理解して、それを福音と呼んで教え広めたことにあります。
皆さんのお手元にある聖書の新約聖書の部分をみてみましょう。全部で480ページあります。そのうち、212ページが福音書と呼ばれる、イエス様の言行録が4つあります。その後に「使徒言行録」と呼ばれる、イエス様の後に福音伝道に携わった使徒たちの言行録が続きます。60ページあります。この福音書と使徒言行録は起きた出来事についての歴史を扱った書物です。新約聖書の終りには有名な「黙示録」があり、29ページあります。これは今のこの世が新しい世にとってかわる終末の時の出来事についての比喩に満ちた預言書です。そして、これらの歴史書と預言書に挟まれるようにして、179ページわたる使徒書簡と呼ばれる21通の手紙があります。これは使徒が自分自身ないしは、恐らく使徒の直近の弟子が先生の名を使って、各地のキリスト教徒に書き送った手紙で、実はこれらの手紙の中に福音の教えが沢山含まれているのです。パウロの名が冠された手紙は全部で14通、合計128ページあり、使徒書簡の大きな部分を占めていることがわかります。もしパウロがいなかったら、またいても、本日の聖書の箇所にあるような出来事が起きなかったら、イエス様の十字架と復活の意味も解明されず、福音の内容もはっきりしなかったでしょう。そうしたら本当のキリスト教もキリスト教会も生まれなかったでしょう。
2.
そのように言いますと、じゃ、パウロと違ってイエス様の十字架と復活を直に目撃したペトロや他の使徒たちは何もわかっていなかったのか?それはちょっと言い過ぎではないか、という疑問が起きるかもしれません。イエス様の十字架と復活というのは、人間を罪と死の支配から救い出すために神がひとり子をメシア救世主としてこの世に送って成し遂げさせた業であり、これは旧約聖書に預言されたことの実現であるということ。そして人間はこのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、神から罪の赦しを得られて救われて永遠の命を持てるということ。こうしたことをペトロたちもしっかりわかっていたということは、聖霊降臨の時にペトロが群衆の前で行った大説教(使徒言行録2章)をはじめ、使徒言行録に記録されている多くの教えの言葉からも、またペトロの手紙からも明らかです。
パウロもペトロも同じ福音を宣べ伝えるのですが、ただパウロの場合は私たちのような非ユダヤ人、つまり異邦人にとって大きな意味を持っています。ユダヤ人以外の民族のことを言い表す時、ヘブライ語でゴーィגוי、ギリシャ語でエトゥノスεθνοςという言葉がよく使われますが、日本語で異邦人と訳されます。ところでペトロたちは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者はユダヤ人であるべきということにこだわりました。これは理解できます。というのも、イエス様も使徒たちも聖母マリアも皆、ユダヤ人として、旧約聖書の律法や預言を受け継ぐ民族の一員としてこの世に生まれました。男の人は皆、律法の戒律に従って割礼を受けています。そういうわけで、イエス様を旧約聖書に約束された救世主メシアだと信じる者は旧約を受け継ぐ者でなければならない、そう考えられても不思議ではありません。そこで、もし、ユダヤ人でない異邦人がキリスト信仰者になろうとするなら、まず割礼を受けてユダヤ人にならなければならない。もちろん天地創造の神は、そうではないということをペトロにかなり具体的に教えて、それがもとでローマ帝国軍の将校コルネリウスに洗礼を授けたこともありました(使徒言行録10章)。それにもかかわらず、エルサレムの使徒たちがユダヤ人のこだわりを長く持ち続けたことは、パウロの「ガラテアの信徒への手紙」からも伺えます。
パウロの明確な立場は、人がイエス様を救い主と信じて福音を受け取る際には割礼を受けてユダヤ人になる必要はないということです。私どものような異邦人は異邦人として、つまり日本人は日本人として、欧米人は欧米人として、アフリカ人はアフリカ人として、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けられて天地創造の神の子とされる資格があるということです。イエス様もペトロもマリアもユダヤ人だったからと言って、わざわざ割礼を受けてユダヤ教に改宗してからキリスト信仰者になる必要は全くなくなったのです。実にありがたいことです。
3.
では、自分自身ユダヤ人であるパウロはどうしてそんなことを言い出したのでしょうか?彼は、旧約聖書や律法や預言を放棄してしまったのでしょうか?実はそうではないのです。それどころが、ある意味でパウロの場合、十戒の掟が一層厳格になったとさえ言えるのです。どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?それを以下にみてみましょう。
パウロは、もともとはファリサイ派に属する律法に厳格なユダヤ教徒の一人でした。ファリサイ派というのは、イエス様の時代のユダヤ教社会内部にあった信徒運動で、旧約聖書に記述された律法だけではなく、口述で伝承された掟も同じくらい大事だと主張したグループです。特に、清めに関する掟は大事で、神が与えると約束した土地に住んでいる以上は、異邦人や罪びととへたに接触して汚れをうつされてはいけない。律法を全てしっかり守ることで神の目に相応しいものとなれるという考えでした。ファリサイ派とイエス様の考え方には類似点もあるのですが、決定的に違う点も多く、ファリサイ派はいつもイエス様に論争を吹っかけては撃退されていました。有名な論争の一つに、何が人間を不浄なものにして神聖な神から遠ざけられてしまったかというものがあります(マルコ7章)。イエス様は、人間を汚れたものにするのは外部から入ってくる汚れではなく、人間内部に宿っている様々な性向である、だからどんな清めの儀式や戒律を守っても人間は清くなれないと教えました。本当に神から罪を赦してもらうことから始めないと人間は清くなれないのであって、そのためにイエス様は十字架にかけられたのでした。
ファリサイ派のパウロ、当時はサウロという古代イスラエルの王サウルに因んだ名前を持っていましたが、彼はキリスト信仰者の迫害者として広く知られていました。(パウロの生涯と教えについて詳しくみることは興味深いのですが、ここは大学の講義ではなく教会の説教の場ですので御言葉の解き明かしに専念し、パウロのことは別の機会に譲りたいと思います。)あの、宗教指導者が異邦人の総督に引き渡して十字架にかけて殺してしまったナザレのイエスは実は、旧約聖書に約束されたメシア救世主だった、などというのは、指導者たちにとってとうてい受け入れられるものではありません。それでペトロたちに対して、イエスの名を言い広めたら命はないぞ、と何度も脅しをかけるのですが、相手側としてはイエス様の復活を目撃してしまった以上は引き下がることなど出来ません。対立はどんどんエスカレートして、ついに勇敢なステファノが殉教したのをきっかけにキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起こりました。
そこでパウロも一生懸命迫害に加担し、本日の箇所にあるように、エルサレムの神殿の大祭司から委任状をとって、ダマスコ周辺のキリスト信仰者をエルサレムに連行する権限を得ることまでしました。そして手下を従えて出発したところ、その途上で先ほど朗読していただいたように、文字通り想定外の出来事が起きました。天に上げられてこの地上にはいないはずの復活の主がそれこそワープしてきたかのように間近に来たのです。これはアナニアが「幻の中」(10節)でイエス様の声を聞いたのとは性質が異なります。アナニアは個人的に声を聞きましたが、パウロの場合は個人的ではなく、従者も皆、異常な現象を目撃し声を聞いたのです。つまり大勢の人が出来事を共有したと言ってよいのです。
パウロはこの出来事をきっかけに、キリスト信仰の迫害者からその擁護者、伝道者へと変貌しました。私たちの新共同訳聖書の9章の見出しに「パウロの回心」と付されています。本日の説教題に「かいしん」と送り仮名を付したのは、この漢字は「えしん」とも読めるとのことで、その場合は仏教の言葉となって、辞書によれば「心を改めて仏道に入ること、とか、小乗の心を改めて大乗を信じること」などと出ていました。「かいしん」の方は、「神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る個人的な信仰体験」とありました。パウロの回心ですが、注意すべきことは、それはただ単に、迫害者として悪いことをしてしまったなぁ、と後悔して、これからは心を改めて真人間になってキリスト信仰を擁護し伝道に努めよう、などという、そんな悪人が改心して善人になったという話では全くありません。律法を守ることに徹していたパウロは、それこそが神に相応しいと見なされる道である、と固く信じていたのです。それ自体が純粋な信仰だったのです。そのような信仰を持つ者からすれば、イエス・キリストを救い主と信じて神から罪の赦しを受けられて神の目に相応しい者とされるというのは、大切な律法をないがしろにする邪道にしかすぎませんでした。
ところが、それまでキリスト教徒たちの出まかせにすぎないと思っていた復活のイエスが突然、目を開けられない位の強い光を伴って間近に来た。もう、イエス様は単に権力者に楯突いて処刑された反乱者などではなくなりました。本当に信仰者たちが告白しているように神のひとり子であることが、一瞬のうちに明らかになったのです。パウロを覆い包む強い光は真に真理を照らし出す光でした。光の中から「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声がした時、地に倒れたままのパウロは「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねますが、「主」というのは、神の呼び名です。パウロは神の臨在がわかったのです。
イエス様は、声の主が自分であることを告げ、あわせてこれからパウロがすべきことを告げます。パウロがすべきことについて、イエス様はアナニアにも知らせました。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(15節、16節)。これで、パウロの運命は決まりました。迫害者は使徒にかえられたのです。後にパウロは「ガラテアの信徒への手紙」の中で、神は既に自分を母の胎内にあるときから福音伝道者に選んでいて、自分が召し出されたのは神の恵みによると告白しています(1章15節)。つまり、神はパウロにまず律法を厳格に守るファリサイ派の経歴を歩ませてから、その次に福音伝道者に召し出したのです。兄弟姉妹の皆さん、神はこのように私たちに深く真理をわからせるために、最初それと反対の世界を歩ませることもされるのです!
復活の主イエス様の臨在がわかった以上、パウロはもうイエス様が神のひとり子であること、旧約聖書に約束されたメシア救世主であることを否定できなくなりました。神がイエス様を用いて十字架と復活の業を成し遂げさせたのは、まさに人間を罪と死の支配から解放するためであった。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、人間は神から罪の赦しを得られて神から相応しい者と見なされて永遠の命を持つことが出来る。そうなりますと律法を守ることで神に相応しいと見なされるということはなくなってしまいます。律法は不要になってしまったのでしょうか?
4.
律法は不要にはなりませんでした。律法は新しい役割を持つようになったのです。どういうことかと言うと、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けても、自分の中にはまだ罪が残っていることは否定できない事実です。ということは、イエス様を救い主と信じる信仰のせいで律法が存在価値を失ってしまったということはなく、かえってそれは自分が罪深い者であることを思い知らせる鏡のようになったのです。律法は依然として効力を保っているのです。ただ、ゴルゴタの丘に立てられた十字架が否定できない歴史的事実である以上、いくら律法が罪を自覚させても神の赦しは厳然とあるのです。そうなると、キリスト信仰者というのは、内に罪を残したまま、イエス様の罪のない純白な衣を頭から被せられて神に相応しいとみなされているのであり、罪を残してはいるものの、この衣をしっかり纏っていよう、そういう生き方を志向する者なのです。
このようにパウロにとって、それまで神に相応しいと認めてもらおうと一生懸命に守ってきた律法の役割が変わってしまいました。神に相応しい者になれるのは、イエス様が自分に代わってそのようにしてくれたことを信じることでなれるのです。もし罪を犯して相応しさを失ってしまったら、すぐ十字架のもとに立ち返れば、イエス様の犠牲に免じてまた相応しい者と認めてもらえるのです。この時、律法は、私たちに罪を気づかせることで私たちを十字架のもとに追いやってくれる役割を持ちます。
そういうわけで、パウロからみれば、割礼を施してまずユダヤ人という神の目に相応しい者にしてから洗礼を授けるという手順は、それこそ律法を守って神の目に相応しくなろうとすることと同じになってしまうのでした。それで認められないのです。もちろん、パウロやペトロなどのように生まれた時から割礼を受けていて初めからユダヤ人であれば、そのままにするしかありません。新しくキリスト信仰者になる者に対しては、割礼は意味がないばかりか、施してしまうと、神の目に相応しくなることがイエス様を救い主と信じる信仰によらなくなってしまいます。
ところで、もともとユダヤ人で割礼を受けた状態でキリスト信仰者になる者はユダヤ・キリスト教徒、異邦人から信仰者になる者は異邦人キリスト教徒と呼ばれます(注)。私たち日本人のキリスト信仰者も、欧米人やアフリカ人のキリスト信仰者も皆異邦人キリスト教徒です。パウロの異邦人を中心とする熱心な伝道の結果、キリスト信仰はすぐ当時のローマ帝国の東半分に広がって行きました。キリスト信仰は、地中海世界の人々の倫理観、死生観、性モラルに新しい風を吹き込みました。特に、以前からユダヤ教の教えに接して多神教を捨てて天地創造の唯一神を信じるようになった多くの女性たちが、パウロの教えを支持しました。いつしか異邦人キリスト教徒とユダヤ・キリスト教徒の比率は逆転し、西暦70年のローマ帝国軍によるエルサレム破壊の後は、ユダヤ・キリスト教はほとんど歴史の舞台から姿を消していったのであります。
5.
以上、迫害者パウロが、復活の主の大接近を受けて、イエス様が神のひとり子、メシア救世主であることを受け入れざるを得なくなってしまったことをみました。そしてパウロは、神に相応しい者にされるのは律法の掟を守ることではなく、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに神から「罪の赦しの救い」を頂いて相応しい者にされることがわかったということもみました。特に、キリスト信仰者になるのに割礼を受けてユダヤ人になる必要はない、異邦人は異邦人のままイエス様を救い主として信じて「罪の赦しの救い」を受けられるというパウロの立場は、彼にとって律法の役割が大きく変わったことと結びついていたこともわかりました。
最後に、パウロに大接近したイエス様が述べた言葉の中で、私たちにとって励みになるものがありますので、それについて述べてみたく思います。それは、パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9章5節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が迫害される時、それはイエス様にとって自分が迫害される、迫害は自分に及んでいる、というのです。私たちキリスト信仰者が、何か害悪を被ったり、災難や困難に遭遇した時、イエス様はそれを自分のことのように受け取るのです。イエス様は私たちの境遇に無関心ではないのです。このことについてルターが次のように教えていますので、それを引用して本説教の締めにしたく思います。ルターが解き明かそうとしている聖句は、ヨハネ15章1節「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」です。
「見よ、主は苦しみと死に向かって進まれている時に、このように述べて悲しみを乗り越えられた。同時に主は、我々もこの御言葉をしっかり心に刻みつけるようにと教えられる。主が言わんとしていることは次のことである。『私はまことのぶどうの木、父なるみ神が御自分でお植えになった愛すべき木である。だから、お前たちは、私と父の両方にとって愛すべき枝なのである。これほど一生懸命に丁寧に肥料をまかれ、剪定され、きれいにされるぶどうの木は他にあるだろうか?このぶどうの木に害を加えようとするものがあるなら来るが良い。悪魔やこの世がお前たち枝に何か危害を与えようとするなら、させてみればよい。どうせ彼らは、愛する父が許可する以上のことは何も成しえないのだ。』
我々の天の父は、ぶどうの木であり枝である我々をしっかり守って下さるあまり、我々に降りかかる危害さえも自分自身に及ぶものと受け止めてくれる方なのである。これは、なんと我々を勇気づけてくれることであろうか!そもそも信頼できる農夫というのは、ブドウ園にとどまって一つ一つの枝を守り、簡単に他の者に渡したりしない。最後まで自分でぶどうの木を守り世話をする。
主のこのような御言葉を心に刻みつけるには、霊的な耳や目を必要とする。なぜならば、この世の目には、全てのことは全く正反対に見えてしまうからだ。主を信じながらも困難に陥ったり迫害を受けたりする我々のことを、この世は神のぶどうの木、枝などとは呼ばないだろう。彼らからすれば、悪魔の雑草か茨にしかみえないであろう。それは彼らが霊的な耳や目を持っていないからにすぎない。主の語られたこの美しいたとえを信じてこれを宝物のように携えている者は、どんな困難に遭遇しても勇気を失わないであろう。」
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
注 スウェーデン語やフィンランド語では、ユダヤ・キリスト教徒(judisk kristen/juutalaiskristitty)、異邦人キリスト教徒(hedna kristen/pakanakristitty)との呼び名がありますが、英語では、ユダヤ・キリスト教(Jewish Christianity)と「ヘレニズム・キリスト教」(Hellenistic Christianity)という区別のようで、地理的・歴史的に限定された言い方です。
主日礼拝説教 復活後第一主日2016年4月10日 聖書日課 使徒言行録9章1節-20節、黙示録5章11節-14節、ルカ24章36-43節
今日は木村長政牧師による聖餐式が執り行われました、夏の吉村先生の留守に備えて聖餐式助手の練習をしました、緊張の連続でした。