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(Ⅰ) 聖霊降臨後第5主日(詩30編)
聖書日課 王上17:17~24、ガラ1:11~24、ルカ7:11~17
1 今日の主題は「主はいのちを得させてくださる」である。
今日の詩編30編3節以降にこのように記されている。
「わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを、あなたは癒してくださいました。
主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせわたしに命を得させてくださいました。主の慈しみに生きる人々よ、主に賛美の歌をうたい、聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。」
=ここに今日の主日のメッセージの主題が歌われる。
2 旧約聖書の日課は、預言者エリヤが、ガリラヤの北方、地中海沿岸の町、サレプタに滞在していた時、やもめの一人息子が死んだが、神はエリヤの
祈りに応えて、その息子に新たないのちをお与えになった物語である。
これはサレプタの貧しいやもめにとって希望をつなぐ出来事であり、さらに、今日の福音書の物語(出来事)の〝前触れ(予表)“となる出来事であった。
3 今日の福音書の物語
旧約のシドンのサレプタの町と、ナインの町に起こった出来事からいくつかのことを対比しながら学びたい。
① 両方の物語の主人公は、夫を失った『やもめ』(寡婦)である。
やもめはいつの時代にも弱者である。とくに聖書の時代ではなおさらであった。
やもめは、惨めな境遇にいる者で、寄留者、孤児と共に、社会的に保護の対象であった。(レビ記19:9~10、申命記24:19~22)
「ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。」と律法で、繰り返し命じられている。
新約時代も、教会は同じ態度を継承している。(ヤコブ1:27)
「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、・・・」と記される。
これらのやもめは、いずれも一人息子を失ったのである。さらなる悲劇である。
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② 福音書の物語では、主イエスはナインの町に行かれたのである。
ナインとは、原語ではミドラッシュ(愛らしい、楽しい)との意味である。
そして人々をめぐる町の情景が、『二つの群れ』として生き生きと描かれる。
一つの群れは、イエスと弟子たち、そしてそれに従う大勢の群衆である。
これは言うまでもなく、喜びの福音を告げ知らせる神の国の群れである。
他の群れは、やもめと一人息子が死んだので、棺を担ぎさす群れである。
これは葬列の群れである。
神の国の群れは、町に入るところ、葬列の群れは町から出るところであった。
神の国は喜びと希望、永遠のいのちを告げ知らせる群れであり、他方
葬列は死と悲しみつつ死者を葬る群れである。この二つの群れが出会った!
③ そして主イエスはこの母親を見て、憐れに思い、
「もう、泣かなくてもよい!」と言われたのである。なんと力強い言葉!
これがまさに福音=喜びの告知である。
それは、「死という現実に嘆くき、悲しむ者への勝利の宣言である」
④ 主イエスの「若者よ、あなたに言う。起きなさい!」の言葉によって
やもめの一人息子は、再び、いのちを与えられたのである。
⑤ ここで今日の詩編30編の言葉は成就、実現したのである。
ここで、私たちは確認しておく必要がある。このやもめの一人息子は
死んでいたのに。主イエスによって再び命が与えられ、母親に返された。
しかし、その息子もやがて死をむかえることになるのである。
しかしながら、今日の喜びの奇跡は、一時のいのちのためではない!
それは永遠のいのちの約束であり、来るべき日の復活を意味している。
それゆえ「新たな命の約束が与えられる」出来事だったのである。
4 今日の主題は他人ごとではなく、自分の身の上にも起こった。
高校生の時、小学1年生の弟が死んだ。大きな悲しみであった。
しかし、主イエスの十字架の復活の出来事によって、希望を与えられた。
次のみ言葉がいつも私の心に響いている。
「わたしたちはいつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。
アーメン!