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わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが皆さんの上に豊かにありますように、アーメン。
本日は使徒書の日課から御言葉を聞いていきたいと思います。ガラテヤ書5章2節以下の箇所であります。ガラテヤ書は使徒パウロがガラテヤの諸教会に宛てて書いた手紙ですが、執筆されたのは、第三回伝道旅行でガラテヤ地方を訪問した後、エフェソに滞在中か、マケドニア地方に赴いたときに書かれたと考えられています。ですから、紀元54年か55年頃ということになります。
文頭に書かれた短い挨拶の後に、パウロは、いきなり「キリストの恵みへ招いて下さった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」と書き出しています。更に、3章の冒頭では「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか」と苛立ちを隠していません。ガラテヤの諸教会が真の福音から、偽りの福音へと逸脱しようとしていたので、パウロの危機感は大きかったのです。パウロはこの手紙の中で、使徒たちの柱、ペトロとも、異邦人と一緒の食事をめぐって論争になり、ペトロを公然と非難していたことも記していました。
本日の箇所は、そのガラテヤ書の締め括りともいうべき部分にあたります。
パウロの直前の箇所で、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にして下さったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」と語っていました。パウロがここで「自由」と言っているとき、それはほとんど「救い」と同義語になっています。言い換えれば、パウロはキリストの救いに与ることを「自由への解放」として言い表しているのです。新共同訳聖書もきょうの箇所に「キリスト者の自由」という小見出しを掲げています。
今日の箇所は、「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」と始まっています。「割礼を受ける」というのは、「ユダヤ人になる」という意味を持っています。教会の中に、キリストの救いに与るためには、ユダヤ人になる必要があるといって、割礼を強要していた人びとがいたのです。ユダヤ主義者と呼ばれた人々です。パウロにとっては、キリストに会っては「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つ」だったのです。
ガラテヤの諸教会は、ユダヤ主義者たちの影響を受けて、割礼を受けようとしていたのです。救いに与るためには、割礼を受ける必要があると思い始めていたのです。そのことを知ってパウロは、重大な危機感を感じたのです。パウロの使徒としての資格をあれこれ問題にする人も出たでしょう。パウロが教会を迫害していたという前歴があったからです。
パウロ自身、次のように書いています。「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」。このようにパウロは、教会を迫害したという前歴を持っていたのです。そこをつかれると、スネに傷のあるパウロは苦しい立場に追い込まれることになります。実際、パウロは論敵からそのように非難されること、一度や二度ではなかったのです。
しかし、パウロには確信がありました。そのような前歴にもかかわらず、自分が神の召しを受けているという確信です。それどころか、母親の胎内にいるときから、使徒として召されていたという思いさえもありました。ですから、次のように続けたのです。「しかし、(神は)わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった。この事実と確信とが、使徒としてのパウロを支え続けていたのです。
「わたしを母の胎内にあるときから選び分け」という言葉遣いは、明らかにエレミヤの証明を意識しています。エレミヤ書の1章4節以下ですが、「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた』」。パウロはエレミヤに対する神の言葉をほぼそのまま引用して、自分をエレミヤと重ね合わせているのです。エレミヤは預言者として立てられたがゆえに、苦しい立場に追い込まれ、投獄もされ、命に危険にも晒されました。パウロも同じでした。パウロはそのたびに、エレミヤのことを思い起こし、自分の支えともしていたのだと思います。
さて、「キリスト者の自由」という言葉を聞くと、すぐに思い起こすのが、マルティン・ルターの『キリスト者の自由』という著作です。『キリスト者の自由』は、数多くあるルターの著作の中でも、日本で一番よく読まれた著作であることは間違いありません。早くから「岩波文庫」の一冊として出版され、何度も版を重ねてきたからです。それに、値段が安く、ポケットにも入るのがいいところです。実際、このルターの著作は、本日の箇所でパウロが語っていることの解説だと言うことができます。
冒頭には、次のように掲げられています。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服さない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する」。つまり、キリスト者は「すべてのものの上に立つ自由な主人であって、同時にすべてのものに仕える僕である」ということになります。
このように、「だれにも服さない主人」と「だれにでも服す僕」という相互排他的な事態が同時に成立しているのがキリスト者である、というのがルターの主張です。相互排他的な事態を「同時に」という言葉で連結した命題は、「義人にして同時に罪人」とか、「神はイエス・キリストの十字架の苦難と死の中に、啓示されていると同時に隠されている」(ハイデルベルク討論)とか、「健康にして同時に病気」(ローマ書講義)といった命題にも共通しています。ルターのこうした主張を一般化すれば、「白にして同時に黒」ということになるでしょう。
13世紀に頂点を迎えたスコラ神学は、アリストテレスの論理学を基礎構造にして成り立っていました。そこでは、「白とは明度の充満」のことであり、「黒とは明度の欠如」と定義されるでしょうし、「義人とは罪人ではない人」のことであり、「罪人とは義人ではない人」のことになります。ここでは、「白」と「黒」とは、徹底的に、そして最後まで、相互排他的です。スコラ神学の思考回路では、「義人にして同時に罪人」とか「啓示されていると同時に隠されている」といった主張は、明確に矛盾した命題であると判断されます。しかし、相互排他的な事態を「同時に」という連結詞で結び付けるルターの思考回路はどうなっているのでしょうか。
例えば、水面のことを考えましょう。水面は水の中の世界とその外の世界との境界面です。しかし、境界面はあくまでも「面」ですから、厚みはありません。つまり、距離はないのです。ですから、水の中の世界とその外の世界との間の距離は、端的に「ゼロ」ということになります。他方、水の中に棲む魚は水の外の世界では生きることができないし、水の外に住む人間は水の中では生きることができないという意味では、二つの世界には無限の隔たりがあります。すると、次のような相互排他的な命題が得られることになります。「水の中の世界とその外の世界を隔てる距離は、ゼロであると同時に無限大である」。
ここでは二つの視点が交差しています。距離がゼロというのは、「物理的視点」からの判断です。他方、距離が無限大というのは、「生息環境」という視点からの判断です。「水の中の世界とその外の世界との距離は、ゼロであると同時に無限大である」という命題では、物理的視点と生息環境的視点とが交差しています。
ルターは、哲学の領域(理性的判断領域)と神学の領域(神学的判断領域)を峻別したオッカムの伝統を受け継いで、「神の前で」と「人々の前で」という二つの判断領域を峻別しました。一方は「神の判断では」ということであり、他方は「社会倫理的判断では」という意味になります。ルターの発言を理解する際には、この区別が決定的に重要です。ルターの神学的発言では、この二つの判断領域が常に交差しているからです。
キリスト者は「義人にして同時に罪人」であるという発言にも、二つの視点の交差があります。一方は「神の前で」という視点であり、他方が「人々の前で」という視点です。「人々も前では」(社会倫理的判断)ではどんな立派の人も、「律法の基準に照らせば」(神の判断によれば)罪人です。ここでは律法が機能しています。
「信仰によって義とされた人は、義人であると同時に罪人である」という命題は、逆方向にも機能します。信仰のある人は当然ながら律法を真剣に受け止めます。すると、その人は自分が罪人であることを強く自覚します。「律法が入り込んできたのは、罪(の認識)が増し加わるためでありました」(ローマ5.20)というパウロの言葉は、そうした事態を正確に捉えています。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」というパウロの言葉が指し示している事態が起こります。ここでは、「キリスト・イエスの贖いの業を通して(つまり、十字架によって)、神に恵みにより」罪人が義とされるのです。ここでは、福音が機能しています。
このように、「キリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みにより」義とされるという事態が、義認が成り立つ客観的根拠であり、「イエス・キリストを信じることにより」が、その義認が人間のものとされる主体的成立根拠になっています。
「罪人であること」は、カール・バルトの言葉を使えば、「最後から一歩手前の神の言葉」、つまり律法による判決であり、「義人であること」は、「神の最後の言葉」、つまり福音による判決ということになります。言い換えれば、「罪人であること」は地方裁判所の判決ですが、「義人であること」は、最高裁判所の判決ということになります。
だから、「罪人にして同時に義人」という命題では、「律法によって」という判断基準と「福音によって」という判断基準とが交差しているのです。
律法に照らせば、自分が罪人であることは目に見える事実です。実際に罪人だからです。他方、義人であるという事実は、神の言葉(福音)が告知している事実ですが、罪人である自分には目に見えない事実です。しかし、パウロは「わたしたちは目に見えるものではなく、目に見えないものに目を注ぐ」と語ります。それが、信仰だからです。信仰とは、「わたしは義人である」という目に見えない事実を、「わたしは罪人である」という目に見える事実以上に確かな事実として承認するということです。
さて、キリスト者は「自由な主人にして、同時にすべてのものに仕える僕である」という『キリスト者の自由』の相互排他的な命題では、どのような判定基準が機能しているのでしょう。『キリスト者の自由』では、前半が「自由」を、つまり「主人であること」の根拠を論じ、後半では「奉仕」あるいは「愛」が論じられています。
「自由」という言葉は、中世のヨーロッパでは「教会の自由」という文脈で理解されることが多かったのです。つまり、常に教会の内情に干渉しようとする俗権からの自由のことです。修道院改革を目指したクリュニー修道院が、自らの財産を「ペトロとパウロに」寄託したのは、教区の司教や俗権からの支配や干渉を回避するためでした。しかし、ルターの場合には、ガラテヤ書の「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」(口語訳、5.1)というパウロの言葉遣いにならっていることは間違いありません。ガラテヤ書では、「自由」はほとんど「救い」の同義語になっています。
ルターが「自由」というとき、それは「……からの自由」(悪魔と罪からの自由、律法からの自由)であると同時に、「……への自由」も意図されています。端的に言って『キリスト者の自由』の後半は、「奉仕への自由」が意図されているのです。
僕は、主人の意志に従うことによって、主人の意図を達成していきます。それは、僕の義務であり、責任です。主人によってその強制力の度合いは様々でしょうが、僕はその義務と責任に強いられて、奉仕の業に励みます。他方、律法から自由にされたキリスト者は、一切の強制なしに自ら進んで隣人に仕えるために奉仕の業へと立ち上がっていきます。外から見た場合、両者の違いはすぐには目に見えません。同じことをやっているからです。しかし、「動機」は決定的に違っています。
この場合、「奉仕への自由」は、「律法からの自由」があって初めて成立します。ですから、「律法からの自由」が、「奉仕への自由」の成立根拠ということになります。『キリスト者の自由』では、「自由」と「奉仕」とが並立していますが、「自由」と「奉仕」は等価ではなく、「自由」が「奉仕」の前提であり、必要条件なのです。ルターが本書を『キリスト者の自由と奉仕』としないで、『キリスト者の自由』としたのは、おそらくそれが理由だったと思われます。
「律法からの自由」とは、「強制からの自由」のことです。パウロはときには割礼を容認したのに、ある場合には、今日の箇所にあるように、それに断固反対しました。その場合とは、それが強制されたときでした。
パウロが、「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」と語っているように、ここでは「自由」は「救い」と事実上同義です。言い換えれば、「自由」は……そして具体的にいえば、「律法からの自由」は、キリスト者であることの根本規定である、ということになります。そして、その場合にのみ、「奉仕への自由」が可能になるのです。
ですから、「すべてのものの上に立つ自由な主人であって、同時にすべてのものに仕える僕である」という命題は、一見対立しているように見えるし、矛盾しているようにも見えますが、そこには対立も矛盾もなく、「奉仕への自由」こそが、「キリスト者の自由」が持つ根本的特質なのです。なぜなら、「奉仕への自由」へと解放されていなければ、その人は未だに自由ではないからです。