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(Ⅱ) 7月17日(日)聖霊降臨後第9主日(詩25編)
日課 申30:1~14、コロ1:1~14、ルカ10:25~37
1 今日の詩編の作者は表題に“ダビデ”とある。イスラエルの王である。
このダビデは、“苦悩のうちに”ある。
「身近に敵が迫っており(2節)」、「若い時の罪を思い起こしている(7節)」、
繰り返し、「自らの罪に言及している(⒒節)」。
そしてダビデは自らを「貧しく、孤独で、悩んでいる」と告白する(16~17)。
このような中で、ダビデは25編4節において、謙虚な祈りをささげる。
「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください」
それに対して、25編12節では、その答えが記されている。
「主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう」
<悩み、不安、罪、弱さにも関わらず、主は求める者に生きる道を示される>
2 旧約聖書の日課、申命記は大きく分けて3部から成り立っている。
第一は、ホレブ(シナイの山)での神の契約の言葉(1章~29章)
シナイ山は、神の民イスラエルの荒れ野での生活の新たな出発の地である。
そこで神は神の民として生きる掟、十戒を基本として律法を与えられた。
第二は、今日の日課から始まる部分で、モアブの地での神の契約の言葉。
モアブは40年に亘る流浪の生活の終わりの地。新しい生活への序章、心構え。
第三は、新しい指導者ヨシュアの選任である。(31章~34章)
さて、今日の申命記30章は第二の部分であり、その中心的なみ言葉は:
① 申命記30:6「心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を
得させるようにしてくださる。」=十戒、律法の中心的思想。
② さらに、(30:11~14)
「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」=信仰生活つまり神の民の生きる指針、倫理である。
◎私たちは神の言葉を、生活の中で、身近に、意識し、実践していくものとして、認識し、また自覚しなければならない!(今日の福音書に関連する)
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3 今日の福音書は有名な「善きサマリア人」の物語である。
ここで律法の専門家(律法学者)が登場する。そして主を試そうとして
質問した。「先生何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と。
「永遠の命」という言葉は旧約聖書にはただ2回だけ用いられている。
一つは、モーセの歌(申命記32:40)=ここでは信仰の父と呼ばれた、アブラハムが「永遠の神」(創世記21:33)と呼んだ神によって恵みと祝福、そして救いに与ることを意味している。
二つは、ダニエルの預言(12:2)である。ダニエルはここで永遠の命を復活と関連付けている、これは象徴的であり、重要な預言的言葉である。
これに対して主イエスは尋ねた、「律法には何と書いてあるか?」と。
律法学者は、答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」(これは律法の神髄である。(申命記6:5=神の民はこのシェマの祈りを、一日二回唱えることを習慣とした。レビ19;18)。
そしてイエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と。
続いて、この律法学者はなおも自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とは誰ですか?」と、主イエスに問い返した。
それに対して主イエスは「善きサマリア人の物語」を語られたのである。
◎ある旅人が強盗に襲われ、身ぐるみはがされ、半死半生の状態になった。
ここに同じ旅をしている三人の旅人が登場する。最初にある祭司が来た。神と人との仲介者、祭儀を司る聖職者であるが、「道の向こう側を通って」行ってしまったのである。次に来たのが、レビ人である。祭司であり、神殿の奉仕者、教育者であった。彼も同じように「道の向こう側を通って」行った。
神への愛を説き、教える祭司やレビ人には、隣人への愛はなかったのである!
マザーテレサは「愛の反対語は、憎しみではない。無関心である。」という。
まさに、演出された、悲劇的な、隣人愛の無関心さである。
それと反対に、隣人愛を実践したのは、旅人にとってはサマリア人であった。
サマリア人は、ヨハネによれば「ユダヤ人とは交際しない」国の人であった。
主イエスがサマリアの町で、ヤコブの井戸のほとりに座り、「水を飲ませてください」と頼んだ時に、サマリアの女は「ユダヤ人のあなたが、どうしてサマリアの女のわたしに水を飲ませてくださいと頼むのですか」と言った。
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さらに、ルカ9章51節以下によると、イエスを歓迎しなかったサマリアの村を、中心的な弟子のヤコブとヨハネが「主よ、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」とさえ、厳しい言葉を放っているのである!
ここに第三の旅人が登場する。
聖書の歴史では、宗教的にも、心情的にも関係性の悪いサマリア人であった。
この第三の旅人、サマリア人は、同じユダヤつまり神の民の指導者達とは、
全く違っていた!傷つき、半死半生の状態になっていた旅人の「そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』と言った。主イエス・キリストは、実に簡潔に物語を語られた。
主イエスは山上の説教において、「敵を愛しなさい」(マタイ5章)とお教えになった。実にこの主のご命令は、民族、文化、国境を超える命題である。
実に現代世界では宗教をさえ超える、重要な命題である。
「善きサマリア人の物語」もそれと同様、「無条件の愛」を教えている。
他にない!
今日詩編の示す、今日の主日の主題に戻ろう。
「主に従う者に、現代社会、各自の生活に生きる道を示される!」
福音書の示す道は、「神と隣人に対する無条件の愛に生きること」である!
(ルカ10:27、)(マタイ22:34以下、マルコ12:28以下も同じ・参照)
◎<PHでのAさんの場合>
Aさんは、入院して来た日からベッドで顔に覆いをかけたまま寝ていた。
Nsさえも、初めはその顔をなかなか見ることは出来なかった。
理由は、彼女の患っていた乳がんのためである。祖母も、母も乳がんで亡くなった。そのために、「あなたには悪霊(厄)がついている」との理由で家族と夫から離婚を迫られた。彼女には中学生の娘さんと小学生の男の子がいた。
そのために離婚届に印鑑をおすことが出来なかった。
そのような状態の中で入院してきた。私は聖書を読んだ。癌の末期の痛みと、離婚問題の苦しみを抱えながら・・・。Aさんは最後には、チャプレンで
ある私に、その夫と家族への赦しと子供たちへの祝福の祈りを求めた。