説教「すべては御言葉を聴くことから始まる」田中良浩 牧師

(Ⅲ) 7月24日(日)聖霊降臨後第10主日(詩15編)

日課 創18:1~14、コロ1:21~29、ルカ10:38~42

説教「すべては御言葉を聴くことから始まる」

 

1 詩編:「どのような人が、聖なる山に住むことができるでしょうか?」

“聖なる山”それは“神の家”である。言い換えれば神と共なる生活である。

神の家での生活、神と共なる生活で大切なことは何か?

 

ダビデは、神をほめたたえながら告白する(2節):

「それは完全な道を歩き、あなたの幕屋に宿り、心には真実な言葉がある人」

つまりここでは「心には真実な言葉がある人」が、最も大切な聖句である。

“真実は言葉”とは何か?

原文では「心から真実を語る人」。口語訳聖書も同様に訳されている。

しかも、「神の恵みの言葉に基礎づけられた」言葉ということができる。

人間の言葉は極めて、自己中心的であり、時には自己欺瞞でさえある。

私たちは日常生活に言葉を使う以上、常に神のみ言葉に聴き、神の恵みの

言葉に塩漬けられた言葉を用いたいと思う。

 

 

2 旧約の日課は、「イサク誕生の予告」である。

神はアブラハムに約束された。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」

アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15章)

再び、主は約束の子が与えられると言われたが、アブラハムは「この百歳の男に、そして90才の妻サラに子が産めるだろうか?」と言って、笑った。

創世記17章35節~17節参照。

 

こうした経過があって約束が実現する出来事が起こった。

アブラハムが、3人の天使を迎え、心からの“もてなし”(接待)をした。

3人の天使は、アブラハムの妻サラに「男の子が生まれる」と語った。

アブラハムと共に高齢になっていたサラも、「ひそかに笑った」。

 

<その数か月後、サラは身ごもり、やがて男の子を産んだ>21章参照。

「サラは言った『サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」と。

「そんなことがある筈はない」と3人の天使によって語られた神の祝福の

言葉を嘲笑したサラは、今や約束のイサクが与えられ神よって人生の真実の笑い(イサク)を得たのである。

神の救いの約束は、不可能を可能にするのである!(創世記18:14)。

結果的に信仰者の父、アブラハムは自らの思いを超えて、神との約束を信じざるを得なかったのである。つまり恵みの信仰である!

同様に、そのように信じる信仰こそ、私たちの生き方、恵みの生活である。

 

有名な画家マルク・シャガールはロシア生れ、東欧系ユダヤ人である。

アメリカに亡命し制作活動を続け、最後にはフランスに定住した。

絵画の制作にも、神との触れ合い、そこに喜びを見出すことを大切にした。

聖書に精通し、聖書をテーマにした様々な絵画やステンドグラスがある。

フランスのニースには有名な「聖書のメッセージ美術館」がある。

 

その一つに、シャガールの「アブラハムと3人の天使」という絵がある。

ある解説者は、「シャガールは、この3人の天使に羽を描いているが、それは主の復活を連想させるものである。」と言っている。

旧約聖書の“信仰の父と呼ばれたアブラハム”の物語が、単に旧約聖書、つまり律法の世界の物語で終わるのではなく、イエス・キリストの福音(復活)へと繋がる、神による救済史の物語としてシャガールは理解していた。

マルク・シャガール(人物、また絵画やステンドグラス等の作品)についてご存知のかたがあれば、どんなことでもご教示いただければ幸いである。

 

 

3 福音書の日課は、美しい物語である。

先ず、主イエスと弟子たちの一行はある村にお入りになった。それは

ベタニア村であり、マルタ、マリアそしてラザロの三兄弟の家庭がある。

四福音書は、主イエスと弟子達がベタニアをしばしば訪ねたと記している。

エルサレム近郊のオリーブ山添いにある美しい村である。

 

ラザロの蘇えらされた場所(ヨハネ⒒章)であり、主イエスのエルサレムへの最後の入城の日の夕べお泊りになった村(マタイ21章)であり、ライ病の

人シモンの家で、ある女が主イエスの足に高価な油を塗った村(マタイ26章)

であり、最後に主イエスの昇天の場所でもある。主イエスの愛された人々や家庭のある、主の愛された村である。

姉のマルタは接待のことで心せわしく働いていた。しかしマリアは主の足もとに座って、主イエスのみ言葉に心を傾けていた。

マルタは思い余って言った「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と。

私がその場にいたら、どうしたであろうか?多分マルタの手伝いであろう!

皆様は、どうでしょうか?あなただったら、どうしたでしょうか?

主イエスとその弟子たちの一行をもてなすことは重要な務めである。しかし

主イエス・キリストの教えは、180度異なるのである!

人間的な行動ではなく、御言葉を聴く黙想である!動ではなく静である!

聖書の語る判断基準も、そのことを繰り返し語っている!

例 マタイ4章4節 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と主は言われた。

またマタイ6章33節 「なによりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」

すべてに勝って神の言葉に聴くことが重要視されなければならない。

 

ヨハネ1章は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」

今日の福音書を理解するために、このヨハネの言葉は重視されねばならない。

 

 

4 ホスピスで、クリスチャンのご婦人、Sさん(86才)とお会いした:

出会った時にSさんは私に「前の病院で後3か月の命だと、言われました。でも私は“普通に生活したい”と思っています」と静かに語りました。

私が「普通とはどういうことですか?」と聞きますと、Sさんは「普通です。

朝起きて、普段着に着替えます。寝間着やパジャマでなくて普段着です。

そして身支度をして、病室ではなく、食堂でご飯をいただきます。

食事が終わると、いつものように聖書を読んでお祈りします。そして身体の調子が良ければ、やりたいことをやります。読書でも、散歩でも、何でも!

Sさんは、ホスピスのアートプログラムには殆ど、毎日淡々と参加しました。

押し花、絵や書、生け花、指網、皆で歌おう、折り紙等。

私が宿直の時はSさんの希望で夕食後、聖書の学びと祈りの会を続けました。

これがSさんにとっての“普通の生活”でした。最初、3か月の余命と宣告されたSさんは2年以上もホスピスで過ごしました。

亡くなった後から聞いたところでは、彼女は「愚痴や悩みを数人のNsから聞いていた」のです。神の言葉に聴く者は、隣人の言葉にも耳を傾けることができるのだ、ということを、Sさんから学びました。

 

<教会讃美歌240(聖書Ⅰコリント1:18=「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」

 

主なる神さまのお恵みが皆様の上に豊かにありますように。アーメン!

 

新規の投稿