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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.全聖徒主日とは?
本日はキリスト教会のカレンダーでは聖霊降臨後第21主日と定められていますが、同時に日本のルター派教会のカレンダーでは「全聖徒主日」という名称も付されています。
キリスト教会では古くから11月1日を、キリスト信仰の故に命を落とした殉教者を聖徒とか聖人と称して覚える日としてきました。加えて翌11月2日を、キリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。殉教者を覚える日はラテン語でFestum omnium sanctorum、亡くなったキリスト信仰者を覚える日はCommemoratio omnium fidelium defunctorumと呼ばれてきました。フィンランドのルター派教会では11月最初の主日の前日の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者両方を覚える日となっています。今年は昨日の11月5日でした。スウェーデンのルター派教会では、この同じ土曜日は「全聖徒の日」という同じ名称ですが、これは殉教者だけを覚える日です。翌日の日曜日、つまり今日ですが、これは「全ての魂の日」という名称で、亡くなった信仰者を覚える日とされています。フィンランドの方は、この日曜日には特別な名称はなく、通常の「聖霊降臨後第何々主日」です。このようにルター派と言っても、国によって扱い方が異なっています。他の国々はどうでしょうか?ひとつ付け加えると、スウェーデンとフィンランドでは「全聖徒の日」の土曜日は国の祝日になっています。この週末は両国では全国各地の教会の墓地の墓の前に一斉にロウソクの灯がともされます。白夜の季節の終わった暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に出て来る、天地創造の神の御許に迎え入れられる「白い衣を身に着けた大群衆」を思い起こさせます。
日本のルター派教会のカレンダーでは、11月1日が「全聖徒の日」、それに近い主日が「全聖徒主日」と定められています。今日のことです。11月1日が中心なのを見ると、先ほどのラテン語の伝統からすれば殉教者中心のようにみえます。それでも多くの教会では私たちのもとを旅立った教会関係者の兄弟姉妹の遺影を飾ることが行われていますので、フィンランドと同じように殉教者と信仰者両方を覚える日として定着しているのではないかと思います。
2.亡くなった人を覚えるとは?
本説教ではまず、亡くなった人を「覚える」とはどういうことかを見ていきます。いろいろ注意しなければならないことがあります。こうして遺影を飾っていると、さも亡くなった方が今見えない形で私たちと共にいて一緒に礼拝を守っているかのような感覚を持たれる方が出るかもしれません。しかし、ルターが教えているように、人は死ぬと、この世が終わりを告げて死者の復活と最後の審判が起こる日までは、神のみぞ知る場所にいて眠るのであります。この世を去る時にあった痛み苦しみから解放されて、全く安らかに心地よい眠りを眠るのであります。そして、終末と復活の日に目覚めさせられて、最後の審判で神の目に適うとされた者は、輝く復活の体を着せられて、天の御国の祝宴に迎え入れられるのであります。本日の使徒書の日課である第一コリント15章で言われている通りです。安らかに眠り続けているのではなく、復活の日が来ると、朽ちるものが朽ちないものを着せられ、死ぬものが死なないものを着せられて有様が一変するのであります(51~53節)。
復活の日まで安らかに眠っているのですから、亡くなった方が私たちを見守るとか、導くとか、助言するとかいうことはありません。私たちを見守り、導き、助言をするのは、私たちを造り、私たちに命と人生を与えて下さった造り主の神以外にはいません。今見えない形で、礼拝を守るために集まった私たちと一緒にいるのは、他でもないこの神なのです。
このように言うと、いろんな疑問が出てきます。まず、死んだ人はどこで眠っているのかという疑問が出るでしょう。これは、もう神のみぞ知る場所としかいいようがありません。聖書では死んだ者が安置される場所を陰府(シェオールשאול、ハーデスαδες)と言っています。他に見当たりません。言葉の意味やニュアンスからして、なんだか暗い不気味な世界に思えます。しかし、本人は安らかに眠っているだけなので暗かろうが明るかろうが問題はないでしょう。ルターは、この眠りの期間は、あらゆる労苦や痛みや苦しみから解放された心地よい時間であると同時に、眠っている本人からしたらほんの一瞬にしか感じられない時間であると言っています。この世の時間の概念では何百年経っていても、本人にしてみれば、あたかも全身麻酔の手術を受けた人のように、目を閉じて眠ったかなと思った瞬間に目の前で復活の壮大なドラマが始まっているというわけです。
次の疑問は、復活の日ないしは最後の審判の日に神の御国つまり天国に行けるかいけないかが決せられると言うのなら、今は天国には誰もいないのか?これも難しい問題です。実は聖書には、将来の復活の日を待たずして神の御許に迎え入れられた者がいることが述べられています。神のひとり子イエス様はもともとおられた所に戻ったので含めませんが、単なる人間のエノク(創世記5章24節)やエリア(列王記下2章11節)がそうです。モーセも神に葬られて誰もその場所を知らないという謎めいた最後を遂げています(申命記34章6節)。イエス様がヘルモン山の頂上で白く輝いた時、モーセとエリアが現れますが、本当に神の御許から遣わされたとしか言いようがありません(マルコ9章2~8節その他)。ヘブライ12章23節を見ると、天のみ神の御許には既に聖徒、聖人の群れがあることが窺われます。こういう将来の復活の日を待たないで天国に行けるのは誰なのか?カトリック教会では教会がそれを決めることができるようですが、私たちとしては神に任せるしかないと思います。ルターは天の聖人の群れの存在は認めましたが、カトリック教会のように崇拝の対象にはしませんでした。崇拝の対象はあくまで父、御子、御霊の三位一体の神だからです。
次の疑問は、聖人以外の人たちは復活の日までどこか神の知る場所で安らかに眠るとすると、その人たちのことを「天に召された」とか「召天した」と言っていいのか?キリスト信仰では復活というのは中心的な事柄の一つなので、それがある限りは、もう天国に行きましたというのは早急でしょう。でも、キリスト教会の最も重要な仕事は何かと言えば、それは人間を天国に送り出すことです。陰府に送り出すことではありません。それで、復活の日まで時差があるということを関係者みんながしっかりわきまえていれば、「天に召された」と言っても大丈夫でしょう。わきまえてなければ誤解を生まないためにも何か別の言い方を考えた方が良いと思います。
次の疑問は、亡くなった人は眠ってしまい、神だけが祈り、悩みを打ち明け、喜びや感謝を報告する相手だと言ったら、亡くなった方とは何も関係がなくなってしまうのか?それでは自分だけではなく、亡くなった方の霊も寂しくなってしまうのではないか?思いやりに欠けるのではないか?
聖書では神は、人間が死者の霊にお伺いをたてたり、霊媒のもとに行くことを固く禁止しています(レビ記19章31節、申命記18章11~12節)。死者の霊と関係を持ったり、コミュニケーションを持つことは神の意思に反するのです。イスラエル初代の王サウルはこれを行ったために(サムエル上28章)、神に見捨てられてしまいました。天地創造の神からすれば、人間が助けを求めたり、祈ったり、どんな選択肢を選んでいいのかお伺いを立てる相手は、あらゆるものの造り主である神だけです。二ケア信条で唱えられるように、父、御子、御霊の三位一体の神以外のものは全て、見えるものも見えないものも全て被造物です。被造物である人間が拝むべきものは被造物ではなく、造り主の神でなければならないというのが神の意思です。人間は自分の造り主である神を拝み、神に祈り求め感謝を捧げなければならないということです。
亡くなった人を自分の運命を左右するもののように祈ったり拝んだりしてはいけない、眠っているのを起こしてコミュニケーションを持ってはいけない、と言うと、亡くなった人と無関係になれと言うのか?キリスト教は亡くなった方に思いやりがないのではないか?それは違うと思います。まず、亡くなった人の霊を拝まないからと言って、亡くなった人の思い出を抹消するということではありません。その方と共に過ごした日々とその方そのものを与えて下さったのは神ですから、そのことを神に感謝しなければなりません。神に感謝する位にその方やその方との思い出は大事なのです。加えて、キリスト信仰には復活信仰があります。それで、復活の日に再会できるという希望を持つことになります。再会させてくれるのは他ならぬ神なのだから、その神への信仰をしっかり守ってこの世を生きよう、ということになります。このように天地創造の神を介して、亡くなった方との思い出を宝物のように大切にし、復活の日にその方と再会できるという希望を持って生きる、ということです。亡くなった人を思いやらないとかないがしろにしている、ということはないと思います。生きている時と同じくらいに愛していると思います。
ところで、もし万が一、眠っているはずの方が目の前に現れるようなことが起きたらどうしたらよいか?その場合は天のみ神の方を向いて、その方が安らかに眠れるようにして下さい、眠れない原因があれば、あなたが解決して下さい、と神にお願いするだけです。天地創造の神をしらないと、亡くなった方とコミュニケーションを始めてしまう危険があります。それは、その方を眠らせないことにもなってしまい、双方にとってよくないと思います。
もっと難しい疑問も出て来ます。亡くなった人がイエス様を救い主と信じないで亡くなってしまったら?その方と復活の日に再会したいと思っても、イエス様を信じなかったので再会できないのか?ここで一つ思い出してよいことは、イエス様と一緒に十字架にかけられた強盗が最後の一瞬にイエス様に信仰を告白して天国に入れたということです(ルカ23章40~43節)。私たちは、亡くなった方が生前イエス様をどう思っていたか、何も聞いていなくても、神が聞いたことがあるかもしれないからです。だから、周りの人にイエス様のことを伝えることは大事です。いずれにしても、この問題はもう全知全能の神に全てを委ねて、全てをご存知である神が下される決定は正しいものとして受け入れるしかないと思います。再会できなかったら、それも受け入れなければならないのか、と不満になる向きもあるかもしれません。しかし、今の段階ではどうなるかわからないのですから、ぐずぐず言っても始まらないと思います。「御心に適いましたら再会できるようにして下さい」と父なるみ神に毎日お祈りします。
他にも難しい疑問がいろいろあるのですが、今回はここまでにします。ただ他の疑問と言っても、基本は同じです。キリスト信仰では亡くなった方を覚えるというのは、天地創造の神を介して行うということ。神を介して覚えると、一方では亡くなった方との思い出を宝物のように大切にし、他方では復活の日の再会の希望を神に祈り願いながらこの世を生きることになるということ。亡くなった方とコミュニケーションは取らないということ。つらい寂しい日々になるかもしれませんが、父なるみ神と向き合って、神とコミュニケーションを取りながらこの世を生きていくということです。本日の聖書の日課は、神と向き合うことと、神とのコミュニケーションについて教えています。それを見ていきましょう。
3.死に対する勝利
本日の福音書の日課にあるイエス様の言葉は、彼が十字架にかけられる前日に弟子たちに対して述べた長い教えの一部です。これから十字架の受難を受けるが、三日後に死から復活させられるということを間接的に話します。直接的に言っても出来事の意味は理解されないだろうから、イエス様はそういう話し方をしました。イエス様が死に引き渡されて皆が悲しむ時が来るが、それは母親が赤ちゃんを産む時の最初の不安や痛みと同じである。しかし、赤ちゃんが生まれたら全てが喜びに変わる。それと同じことが起こると言って、受難の後に必ず復活の喜びが来るということを述べます。しかも、その日からは弟子たちはもう、イエス様の名前を引き合いに出して神に直接お願いしてもいいことになる(ヨハネ16章26節)。これらを聞いた弟子たちは、何か大きなことが起こることだけはわかり、イエス様が父なるみ神から送られた方であるのは間違いない、それを信じます、というところまで来る。しかし、なぜイエス様が父なるみ神のもとからこの世に送られてきたか、その目的まではまだわかりませんでした。
このことがわかるようになるのは、十字架と復活の出来事が起きた後でした。弟子たちは、イエス様が人間の罪を全部十字架に背負って運び上げ、そこで罪の罰を受けて身代わりの死を遂げたことを理解しました。それだけではありません。本日の旧約の日課にあるヨナの祈りで言われるように、イエス様は死んでから3日後に陰府の中から引き上げられて、死から復活させられます。ここで死を超える永遠の命があることが示され、その扉が人間のために開かれました。人間は、これらのことは全て自分が罪の呪いから救い出されるために神がひとり子を用いて行ったのだと分かって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の犠牲に免じて罪の罰を受けなくてすむようになったのです。万が一罪を犯すことがあっても、その時はイエス様の十字架のもとに立ち返って、父なるみ神よ、イエス様の犠牲に免じて罪を赦して下さい、と祈れば、神の方で、我が子イエスの犠牲に免じて赦す、もう罪を犯してはいけない、と言って赦して下さるのです。このように人間は、イエス様を介して天地創造の神に向き合うことができるようになったのです。
イエス様を救い主と信じる信仰にとどまり、罪の赦しの恵みにとどまる限り、人間を復活の命に入らせないようにしようとする罪の力は力を失っています。本日の使徒書の日課である第一コリント15章55節で、死はその勝利ととげを失ったことが言われています。死の勝利とは、人間を復活の命に入らせないことです。死のとげですが、とげというのは原語のギリシャ語(κεντρον)では剣先も意味します。死の剣先とは、死が勝利を収めるために必要な武器です。つまり、死は勝利を得させる剣先も失っているのですが、その剣先とは罪であると言われています(56節)。罪とは、死が人間に対して勝利して人間を復活の命に入らせないようにするための武器なのです。そして、その罪は律法の掟があるゆえに罪として明るみに出て力を発揮します。使徒パウロがローマ7章で述べるように、「律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかった」のですが、「罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こし」た、ということが起こります。これが、律法は罪の力と言われる所以です(56節)。
ところが、律法を通して明らかにされる罪は全部、イエス様の十字架と復活のゆえに神の赦しの対象となってしまいました。それで罪は、イエス様を救い主と信じる者に対してはもう人間を復活の命に入らせないようにする力を失っているのです。本当にイエス様の十字架と復活は、罪と死に対する大勝利を人間にもたらして下さったのです。イエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、私たちはイエス様のもたらした勝利に与ることができ、また父なるみ神に向き合うことができ、イエス様の名前を通して祈り願うことを全て神に聞いてもらえるのです。
4.死を踏み越える祈り
旧約聖書の日課はヨナの祈りです。海に放り投げられたヨナは、三日三晩、大魚の腹の中に閉じ込められます。そこでのヨナの祈りは、死を目前にした者が最後まで神を信頼して助けを求める祈りです。まさに極限的な状況の中での神とのコミュニケーションです。どんなコミュニケーションかみていきましょう。
祈りの冒頭をみると、「苦難の中で、わたしが叫ぶと主は答えて下さった」と過去形になっています。まだ助かる前の段階なのに、もう「答えて下さった」と言うのは少し変な気がします。大魚の腹から吐き出された後に言えば、すっきりするのに。これは、原文のヘブライ語の動詞が完了形をとっているからですが、文法書によりますと、こういう散文体の文章では完了形は現在の意味や習慣的な意味に訳してもよく、ここは「主は答えて下さる」とか「答えて下さる方」というふうに、神は普段からそういう方なのだ、と神に対する不断の信頼を表明していると理解してよいです。フィンランド語の聖書もここは現在の意味で訳しています。
この後も現在の意味で訳していいのか過去の意味で訳していいのか、やっかいなのですが、ここでは訳し方の基準として、この祈りがどんな構成で出来ているか、それをもとにして決めていこうと思います。どんな構成かというと、出だしで、神は答えて下さる方、声を聞いて下さる方です、と信頼を表明する。その後は、刻々と死が迫ってくる絶望的な状況が描かれて行きますが、途中それを遮るように神への信頼が何度も表明され、絶体絶命の描写と神への信頼の表明が交互に繰り返されて、最後に「救いは、主にこそある」と信頼の表明で結ばれる、そういう構成です。
ここで一つ注釈しなければならないことがあります。それは、5節「わたしは思った あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと」とありますが、最後の文「生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと」というのは、絶望状態を表わしています。ところが、ヘブライ語の原文の権威ある読み方をみると、ここは全く逆の意味で「しかし、私は聖なる神殿を再び見ることになる」と未来の確信を表わしています。どうしてこんな正反対の訳が出て来るかと言うと、ヘブライ語のテキストの欄外に「このような読み方もできる」とあって、日本語訳はそちらを採用したからです。スウェーデン語の聖書もそうでした。私は欄外の文ではなく、本文のテキストに基づこうと思います。フィンランド語と英語の聖書も本文のテキストに基づいて未来の確信を表わす訳です。
そこで、この祈りを概観すると、次のようになります。
- (神への信頼の表明、3節)神は、私が苦難の中にある時、私の叫びに答え、私の声を聞いて下さる方である。
- (絶望的状況、4~5節前半)神は私を海に投げ込まれた。私は沈んでいく。私は神の御前から追放されたのだ。
- (希望の表明、5節後半)しかし、私は再び聖なる神殿を見ることになろう。
- (絶望的状況、6~7節前半)大水が喉に達しようとする。深淵に飲み込まれ、水草が頭に絡みついた。私は地の底まで沈んでしまった。
- (信頼の表明、7節後半)しかし、あなたは私を陰府から引き上げて下さる。- (絶体絶命の状況の中での信頼の表明、8節)息絶えようとする時、私は主の御名を唱えた(זכר主のことを考えた、思い出した)。私の祈りはあなたに届く。
- (信頼の表明、9~10節)偶像崇拝する者たちが神への忠誠を捨て去ろうとも、自分は神に誓ったことを果たし忠誠を貫くことに何の変更もない。この絶体絶命の状況にいてもそうである。なぜなら、救いは、主にこそあるからだ!
この後、神は大魚に命じてヨナを陸地に吐き出し、ヨナは助かります。私たちも、危機的な状況、絶体絶命の状況に陥ったら、このように祈りましょう。神に対して、自分がどんな苦しい状況に置かれているか報告すると同時に、神を信頼していることも表明します。ところで、ヨナの場合は奇跡的に助かりましたが、もし奇跡が起きず助からなかったら、祈りは無駄になるのでしょうか?そうではありません。実はこの祈りは、死からの復活の祈りでもあることに注意しましょう。7節で神は滅びの穴から引き上げて下さる、と言われますが、「滅びの穴」(שחת)は陰府と同義語です。ヨナは死ななかったので陰府には行きませんでしたが、イエス様は十字架の死の後、復活されるまで陰府に下りました。本当に死なれたのです。そして本当に死から復活されたのです。イエス様はこのことを「ヨナの印」と言っていました(マタイ16章4節)。
このように、ヨナの祈りは、生きて助かる場合もあれば、この世から死んでも復活して助かる場合もあります。だから、ヨナのように祈ること、つまり苦しい状況を神に報告しつつ信頼も表明する祈り、これをすれば、場合によってはヨナのように生還するかもしれないし、場合によっては死から復活して神の御許に引き上げてもらえるかもしれないが、どちらかが必ず起こるのです。
最後に、ヨナのような祈りをする時、「救いは、主にこそある」と言ったら、「イエス様の御名を通して祈ります。アーメン」で結ぶべきと考えます。ヨナの時は、まだイエス様が来られる前の時代なので御名に依拠することはないですが、十字架と復活の出来事の後は、人間はイエス様を通して天地創造の神と向き合えるようになったのですから、御名を付け加えるべきでしょう。このような祈りは、祈る人が死を踏み越えて行ける祈りになるでしょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
主日礼拝説教 2016年11月6日(全聖徒主日)
ヨナ2章1~10節、第一コリント15章50~58節、ヨハネ16章25~33節