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山上の説教の中の「あなた方は、幸いである」という形で語られる最後です。ここで一区切りにしたいと思っています。
11~12節を見ますと
11節「わたしのために、ののしられ、迫害され、身に覚えのないことで、あらゆる悪口をあびせさせられる時、あなた方は幸いである」
12節「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなた方より前の預言者たちも同じように迫害されたのである。」
今日の聖書の11~12節を読んで皆さんもお気づきの事と思いますが、12節では「義のために迫害される人々は幸いである。」短く簡潔な言葉です。そして迫害されて来た人と言っても第三者のことのように言っている表現です。それに対して11節ではあなた方と言っています。直接にこの人々に対して語っていることで言っています。ここで語られているのが主の弟子たちであったことはすぐ想像できます。10節までは一般の人について語っていたが、ここからは弟子たちに対して言っているということでしょう。これまでにも言ってきましたが祝福の説教は信仰のある人に与えられているのです。その中には弟子たちも入っているはずだと思います。
従って、ここでは一般の信者に対して語った後に特に弟子たちのことを思って語ったということでなくて、義のため、ということから、それの本当の意味であるキリストのため、ということを言っていますから、言い方が変わったのであります。11節のところで「わたしのために」と言っています、この私のため、はキリストのためです。次にすでに10節のところで義のためにと言っています、それは単に正しいということではなくて、信仰による正しさであります。それなら、ここではそれを更に一歩進めた話、ということになるのであります。あなた方、と言っていることから考えられることは面と向かって話していることであります。人ごとのように聞いたのでは主が言われたことが生きていないことは、わかり切ったことです。
ここで聞いていた人たちは、まさに自分に対して言われたこととして聞いたにちがいありません。義のため、と言われるところにはキリストとの直接の関係において受け取るのでなければ正しくないと言うことです。実はキリストのためと言うことに至るのでなければ本当には儀のためということさえならないということなのです。ただ義のためと言うことだけでなくキリストとの関係が正しくされて始めてそれができる、ということを忘れてはなりません。私たちは義のために生きることを願って来たのであります。それが人間のための生活であると言うことも知っています。しかしキリストに救われるまではなぜ義のために生きるのか、ということも分からなかった。また実際、義のために生きる力もなかったのであります。そういうことに自信がなかったでしょう、特にそう考えていなかったとしても、それは何となくそれが分からなかったのであります。ところが、キリストはそれを悟らせてくださいました。そして、それから救ってくださったのであります。従って、どのこともキリストのため、ということになるのであります。信仰生活というものはキリストとの関係で生きることです。
パウロは「キリストにあって」と言う言葉を口癖のようにたびたび用いました。自分の信仰生活はどんな意味でもキリストと結びついたものである、と確信しておりました。信仰生活というのはキリストに愛されキリストを愛する生活であります。一つの例として申しますと、クリスチャンの家庭でよく知られた壁掛けがあります。そこには、こういう言葉がかかれています。
キリストはこの家の主人
食卓ごとの見えざる客
どの会話をも黙って聞いておられる。
あるクリスチャンは食卓ごとに一つの席をもうけ、キリストがそこにおいでになることを信じようとしました。私のことを申しますと老人ホームの礼拝で中心席にはイエス様の席を用意します。信仰とは一つのものの考えではなく、キリストのよって生きることであります。イエス様を身近に感ずることでしょう。ですから「わたしのため」というのであります。
迫害されるものはキリストのためなのであります。キリストのために迫害されることを11節ではいろいろな具体的な様子が記されています。「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことで、あらゆる悪口を浴びせられる」というのであります。このように多くのことが言われるのはイエス様の生涯の始めにすでに多くの悪口や迫害があったということ、或いはイエス様は予測しておられたことでしょう。その後古代の教会に対してなされた非難や迫害は非常なものでありましあt。教会の歴史には迫害はつきものでありました。信仰生活もまた戦いを忘れることの出来ない、この世との対決がありました。この世がそれほど神にそむいている、ということであります。しかし主イエス様は祝福の最後の説教に繰り返すように「信仰者は迫害を受ける」と言われそれが「さいわい」である、と言われます。そればかりではなく、そのことを喜びなさい、と言われるのであります。
主は喜び喜べ!と言われます。12節です。喜ぶだろう、と言うのでなく「喜びなさい」と言う命令であります。主からの命令ですョ、しかもただ喜ぶのでなく、おどり上がって喜べ、と言うことであります。皆さんどうですか迫害の苦しみに会っているキリスト者に喜べと言うすすめであります。迫害に会って嬉しい人は誰もいません。それは自然なことであります。それならば、このように喜べというのは余程の理由があるはずであります。信仰は喜びの生活である、と言われますがそれは救われて信仰を得た者が自然に喜ぶことであります。しかし、また信仰生活の困難に耐えて主の励ましを受け喜ぶことなのであります。
ヨハネ黙示録19章5~7節には。また玉座から声がしてこう言った。「すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者もわたしたちの神を讃えよ。」わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものがこう言うのを聞いた。「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び大いに喜び神の栄光をたたえよう」。さて、それならその喜びはどういう根拠があるのでしょう。信仰には迫害はつきものである、信仰を持つがゆえにいろいろな不都合や苦しみがある。それならば主の弟子たちや、その後の教会だけでなく、弟子たちよりも前にいた預言者たちも同じであった、ということであります。その預言者たちも同じように迫害を受けたのであります。預言者たちと主の弟子たちは同じ道を歩んでいる者であります。12節の終わりのところでちゃんと記されています。「あなた方より前の預言者たちも同じように迫害されたのである」しかも預言者たちは主の弟子たちが見ていることも見ることが出来なかったのであります。マタイ福音書10章41節には「預言者を預言者として受け入れる人は預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は正しい者と同じ報いを受ける。」ここにはっきりと主イエス様が言っておられるのです。同じように主のために苦しみを受けた者は主から報いを受けるのであります。
私たちはただ主の恵みによって救われたのであります。もしも迫害に耐えることが出来たとしたらその恵みに答えることが出来たにすぎないのではないでしょうか。そのことによって十分に喜ぶことができるはずではなかったでしょうか。それなのにマタイ10章41節で言われたように迫害のゆえに喜ぶことが出来たことに対して報酬が与えられる、というのはおかしなことではないでしょうか。ことに主が報酬があるから喜べ、と言われることは納得できないことだ、と言わねばならないに違いありません。しかし此処に使われている報いというのは私たちの努力によって与えられる報酬ということではなくて、何の努力もしないのに価なしに与えられるものということでります。しかも主が与えてくださるその報いというのは、ひたすらにそれを与える人の自由であり、その寛大さによることなのであります。それはただその仕事に見合う、ということではなく、ひたすら神の権威によるものであります。
それをよく説明しているのは、皆さんもご存知のマタイ20章1~16節に記されている「ぶどう園の労働者のたとえ話」であります。朝9時から働いた者と、夕方5時頃から来て働いた者が同じ1デナリの報酬を受けるのです。それに対して不平を言う者があらわれ、ぶどう園の主人はその者たちに言うのであります。「自分のものを自分のしたいようにするのは当たりまえではないか」このことが
神の報いの本当の意味であります。神は報いを与えるとしても、それは全くご自分で正しいと思われるようになさるのであります。それが「神の恵み」を表すものであります。それゆえに、それは報酬でありながら「神の恵み」を表すものであります。そして、やがてこの報いが天において与えられる、ということです。この地上ではなく天において、あのヨハネ黙示録19章で見ましたように天の玉座の前で示されているのであります。私たちは天のみ国において約束されている喜びに希望を持って信仰生活を共にしてまいりましょう。アーメン・ハレルヤ!