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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.イザヤの預言の成就
先週の福音書の箇所は、イエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事についてでした。イエス様という本来ならば洗礼など必要のない神聖な神のひとり子がなぜ洗礼を受けなければならなかったのか?それは、イザヤ書に記された預言に従って、創造主の神が人間救済計画を実現するために必要な手続きであった、ということを先週の説教でお教えしました。洗礼の後でイエス様に何が起きたかと言うと、ユダヤの荒野で40日間に渡って悪魔から誘惑の試練を受け、それに打ち克つという出来事がありました(4章1-11節)。そのことがテーマになる主日は、日本のルター派教会では、イースター前の四旬節の最初の主日に定められています。今年は3月5日です。イエス様が悪魔から受けた試練については、その時に譲りたく思います。
本日の福音書の箇所は、イエス様が悪魔の誘惑の試練に打ち克った後に起きた出来事についてです。イエス様がいよいよ神の人間救済計画を実現するための活動を公けに開始したというところです。まず、洗礼者ヨハネがガリラヤ地方の領主、ヘロデ・アンティパスに捕えられたという報が伝わります。捕えられた理由は、ヨハネがアンティパスの不倫を神の意思に反することだとはっきり言ったためでした。牢獄につながれたヨハネは後で首をはねられてしまいます(14章1-12節)。さて、イエス様は、ヨハネが捕えられたと聞いて、そのガリラヤ地方に乗り込んでいきます。(新共同訳では「ガリラヤに退かれた」とありますが、アンティパスの本拠地に行くわけなので、「退かれた」ではないでしょう。)ただし、育ち故郷の町ナザレに戻ってそこを活動拠点にはせずに、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムに落ち着くことにしました。なぜかと言うと、ナザレの人たちがイエス様を拒否したからでした。ナザレに戻ったイエス様に何が起こったかということについては、ルカ4章16-30節に記されています。
さて、カペルナウムを拠点として、イエス様のガリラヤ地方での活動が始まりました。そのことがイザヤ書にある預言の成就であったと記されています。「ゼブルンの地とナフタリの地」という文句で始まるところです。イエス様のガリラヤ地方での活動開始が、どうしてイザヤの預言の成就であると言えるのか、それは、この預言の全体を見てみるともっとよくわかります。少し見てみましょう。
イザヤ書の預言は、同書の8章23節から9章6節までのところです。この預言が語られた歴史的背景を見てみます。時は紀元前700年代、ダビデ王の王国が南北に分裂して二つの王国が互いに反目しあって200年近くが経った頃のことです。こともあろうに、北側のイスラエル王国が隣国と同盟して、兄弟国である筈の南側のユダ王国に攻撃をしかけようとしました。ユダ王国は、王様から国民までパニック状態に陥ります。そこで、預言者イザヤが現れて、「攻撃は絶対成功しない、なぜなら神の御心がそうだからだ、だから心配に及ばない」と宣べ伝えます。実際、北王国とその同盟国は、東方の大帝国アッシリアに滅ぼされてしまうので、ユダ王国に対する攻撃計画は実現しませんでした。しかし、神の民であるユダヤ民族の北半分が滅びてしまいました。本日の福音書の箇所に引用されているイザヤの預言の出だしの部分は、このことについて述べています。引用元のイザヤ書8章23節に次のように記されています。「先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」
ゼブルン、ナフタリというのは、ヤコブの12士族のうちの2つで、ガリラヤ地方に移住した士族です。場所的には北王国にあたります。それで、同国が滅びたことが「ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けた」ことを指します。しかし、預言は一つの国の滅亡に終わりません。まだ続きがあります。同じ8章23節の後半で、「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける」と言われます。異民族に蹂躙されてしまったこのガリラヤ地方が神の栄光を受ける場所になるというのです。どういうふうに神の栄光を受けるかということについては、イザヤ書の続く9章1節からの預言に記されています。聖書の中で有名な箇所の一つです。「闇の中を歩く民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。これが本日の福音書の箇所に引用されています。預言はさらに続きます。9章5-6節には次のように記されています。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」ここで預言されている人物は、まぎれもなくイエス様です。
この預言が示されてから700年の後、イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃して、神の人間救済計画が実現したとわかった人たちが最初のキリスト信仰者になりました。彼らは、イエス様こそ「人間を闇の中、死の陰の地から導き出す光である」とわかったのです。そして、ああ、そう言えば、イエス様の公けの活動はまさにガリレア地方で始まったではないか!と思い当たり、そうか、あれは全てイザヤ書8章23節から9章6節までの預言の成就だったのだ、とわかったのであります。それで、その預言が、短縮された形ですが、本日の福音書の箇所に引用されるに至ったのです。
本日の旧約の日課であるアモス書3章の7節には、「まことに、主なる神はその定められたことを僕なる預言者に示さずには何事もなされない」と述べられていますが、まことにその通りです。このように創造主である神は、人間救済計画がどのように実現されるかということを、何百年前だろうが前もって預言者に告げ、約束されたことを全て果たされた忠実、誠実な方なのです。
2.「悔い改めよ」
少し前置きが長くなりましたが、本日の福音書の箇所の大事なところをみていきましょう。それは、イエス様が公けに活動をした時に冒頭で述べられた言葉「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。二つの短い文ですが、大切な事柄が沢山凝縮されています。それを見ていきましょう。
まず、「悔い改めよ」について。「悔い改める」というと、何か「悔いる」とか「後悔する」とか「反省する」というような意味があるように感じられます。「悔い改める」のギリシャ語原文の言葉は、メタノエオ―μετανοεωという動詞で、もともとの意味は、「考えを改める」とか「考え直す」です。ところが、新約聖書の中でメタノエオ―と言ったら、それは「神のもとに立ち返る」という意味を持ちます。どうしてもともとの意味が神に向けられるように限定されたのかと言うと、ヘブライ語の旧約聖書の中にシューブשובという、「神のもとに立ち返る」という意味で使われる動詞があって、それに対応するギリシャ語は何か?ということで、メタノエオ―μετανοεωが使われるようになったという事情がありました。こうして、「考えを改める」、「考え直す」が「神との関係で考えを改める」「神との関係で考え直す」というふうになり、今まで神に対して背を向けていた生き方を改めて、これからは神に向き直して考える、行動する、生きるという意味になりました。そういうわけで、メタノエオ―μετανοεωは新約聖書の中では「神のもとに立ち返る」という意味です。(もちろん、エピストレフォ―επιστρεφω「立ち返る」も同じ意味を持ちますが、μετανοεωの場合は、語源的にみて「立ち返り」の内面的作用に注目するものと言うことができます。)
それでは、このメタノエオ―μετανοεω、「神のもとに立ち返る」とは、一体どのようなことをすることでしょうか?それがわかるために、まず、人間は自分の造り主である創造主の神とどんな関係にあるかということを考えてみる必要があります。神との関係はいいのか?悪いのか?うまくいっているのか?いっていないのか?
人間と神との関係について、イエス様の教えはとても厳しいものでした。マタイ5章でイエス様は、兄弟を憎んだり罵ったりすることは人を殺すのも同然、行為に及ばなくても神が与えた十戒の第5の掟を破ったことになる、また異性を欲望の眼差しで見ただけで姦淫を犯すのも同然で第6の掟を破ったことになる、と教えました。つまり、十戒を外面的だけでなく内面的にまで守れないと、神の意思に反することになると言うのです。そうなると、神の意思を凝縮した十戒の掟を全てそのように完璧に守れる人間、神の意思を完全に体現できる人間は存在しなくなります。
マルコ7章の初めにはイエス様とユダヤ教社会の宗教エリートとの論争があります。何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争です。イエス様の論点は、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものと言えば、それは律法のような戒律や様々な宗教的な儀式でした。しかし、戒律を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、それは神の意思の実現・体現には程遠く、神の裁きを免れて永遠の命を得る保証にはならないとイエス様は教えたのです。
人間には、神の意思に反しようとする神への不従順や罪が内在している。しかも、それらは人間が自分の力では除去できない。とすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世の人生では神との結びつきがないままで、この世から死んだ後も、自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることはできない。何をもって「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神の解決策はこうでした。自分のひとり子をこの世に送り、全ての人間の全ての罪の罰を彼に請け負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦す、というものでした。人間は誰でも、このイエス様を犠牲に用いた神の解決策はまさに自分のために行われたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主であると信じて洗礼を受けることで、この神が整えて下さった「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようになりました。こうして人間は、自分の造り主である神との結びつきを回復できてこの世の人生を歩み始めることとなり、順境の時にも逆境の時にも常に神から守りと良い導きを得られるようになり、万が一この世から死んだ後も永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのです。
以上のように、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事を経て、神との結びつきや永遠の命を保証するメタノエオ―μετανοεω、「神のもとへ立ち返る」手がかりを得ることができました。それは、戒律を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、そういったものに拠り頼んでも自分からは罪の汚れは消え去らないと観念して、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けて、まずイエス様の神聖な純白な衣を頭から被せられること。もちろん自分の内に残る罪は必ずや、その衣を脱ぎ捨てるようにそそのかすけれども、ひたすらそれにしがみつくように着ていること。罪は純白な衣にそぐわないことをしろとそそのかし、私たちが弱さや油断からそうしてしまうことがあったとしても、その度、「父なるみ神よ、私の罪を赦して下さい。イエス様以外に拠り頼む方はいません!」と祈れば、神は「わかった、私のイエスの身代わりの死に免じてお前を赦そう、もう罪は犯さないように」と言って下さり、私たちがイエス様の白い衣をしっかり纏っていられるようにして下さるのです。本当にイエス様こそが「神のもとへの立ち返り」の手がかりであり、それ以外にはないのです。
イエス様がガリラヤ地方で公けに活動を開始した当時は、まだ十字架と復活の出来事はありませんでした。そのため、「神のもとへ立ち返れ」と言われても、人々は、何をどうしたらいいのか、戒律や宗教的儀式を積めと言うのならともかく、そうでなければ一体何なんだ、と途方にくれたでしょう。イエス様は、厳しい教えを突きつけて、人々をいったん途方にくれさせて、最後に自らを十字架の死に委ね、死から復活させられたことをもって全てを明らかにしたのです。
3.「天の国は近づいた」
次に本日の福音書の箇所でもうひとつ大事なこと、「天の国は近づいた」を見ていきましょう。「天の国」は、他の福音書では「神の国」と呼ばれています。マタイは、「神」という言葉を畏れ多くて避ける傾向があり、それで「天の国」と言います。
実は、洗礼者ヨハネも同じ言葉「悔い改めよ。天/神の国は近づいた」を述べていました(マタイ3章2節)。しかし、イエス様とヨハネの言葉の意味には決定的な違いがありました。イエス様が「天/神の国は近づいた」と宣べて活動した時、ヨハネと違って様々な奇跡の業が伴っていました。皆様もご存知のように、イエス様は数多くの難病や不治の病を癒し、悪霊を退治し、群衆の空腹を僅かな食糧で満たしたり、自然の猛威を静めたりするという無数の奇跡の業を行いました。これらを通してイエス様は、神の国が自分と一体となって来たことを示したのです。ヨハネの場合、「神の国が近づいた」というのは、それがもうすぐイエス様と共に来る、ということですが、イエス様の場合は、自分と一緒にもう来ている、ということだったのです。
イエス様が行った奇跡の業は神の国がどんなものであるか、その一端を明らかにするものでした。それでは、神の国の全貌はというと、例えば黙示録20章から21章にかけて描かれています。それは、大きな結婚式の祝宴にたとえられ、そこに迎え入れられた人は、目の涙を神からことごとく拭い取ってもらい、もはや死も、悲しみも嘆きも労苦もない、というところです。ここで注意しなければならないことは、この神の国とは、今ある天と地が新しい天と地にとってかわるという、今の世が終わる時に現れるものということです。「ヘブライ人への手紙」12章には、今の世が終わりを告げ、全てのものが揺り動かされて取り除かれるとき、ただ一つ揺り動かされないものとして神の国が現れることが預言されています。神の国が結婚式の祝宴にたとえられるということも、この世での信仰の戦いや人生の労苦が全て労われることを意味しています。さらに、神の国で涙が全て拭われるというのは、この世の人生で被ったり、解決に至らなかった不正義が最終的に全て償われるということです。そうであるからこそ、キリスト信仰者は、この世の人生では、神の意思に反することに手を染めない、不正や不正義には対抗する、という努力をとにかくする、たとえ実を結ばなくても、最終的には神の国で実を結ぶので、無駄や無意味に終わることはないと知っているのです。
ところで、神の国はまだ世の終わりなどとは無関係に、2000年前に一度、イエス様と共にやって来ました。その時、人々はイエス様の奇跡の業を目のあたりにして、将来到来する神の国とはこのようなことが当たり前になっているところなのだと体でわかったのであります。ところが、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来の神への不従順と罪を受け継いできた人間は、まだ神聖な神の国に入ることはできません。人間は神聖なものとあまりにも対極なところにいる存在だからです。罪と不従順の汚れが消えなければ神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。それを入れるようにして下さったのがイエス様なのでした。イエス様の十字架の死と死からの復活が全てを可能にしたのです。父なるみ神がひとり子を用いて私たち人間のために「罪の赦しの救い」を実現した、これはまさにこの自分のために行われたのだとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時、私たちはこの救いの所有者になります。こうして、私たちは神の目に適う者、義なる者とものと見なされて、神の国の立派な一員として迎えられるのです。
4.おわりに
さて、復活されたイエス様が天に上げられて、その再臨を待つ今の時というのは、神の国がその日に顕現するのに備えて待機状態にある時と言ってよいでしょう。だからと言って神の国は今、私たちと無関係にあるのではなく、キリスト信仰者にあっては、しっかり信仰に留まる限り、そこへの入国許可証を手にしているのです。「我らの国籍は天にあり」(文語訳フィリピ3章20節)というのは、まことにその通りです。キリスト信仰者は二重国籍者です。もちろん現実の世界で二重国籍を認める国は多いので、そういう人たちも多くいます。しかし、死んでしまえばゼロです。天の御国に国籍がある二重国籍者は、どこにいようが、死のうが生きようが失われず、有効であり続ける国籍を持っています。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちは天国に永住権を有しているのです。この永住権の「永」は文字通り死を超える永遠のものです。キリスト信仰にあっては、たとえ他の全てのものが失われても、これだけは失われないという、そういうものがある、天の御国の国籍はまさにそれなのです。このことを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン