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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
イエス様はヨルダン川にて洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。その時イザヤ書の預言通りに聖霊が彼に降って、いよいよ天地創造の神が定めていた人間救済計画の実現に乗り出すことになります。イエス様はまず、ユダヤの荒野で悪魔から誘惑の試練を受けて、最後にこれに打ち勝って、それからイザヤ書の預言通りにガリラヤ地方にて活動を開始しました。ただし、自分が育った町ナザレでは人々に受け入れられなかったため、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムに活動の拠点を移しました。以上がイエス様が洗礼を受けた出来事から本日の福音書の日課までのあらすじです。本日の福音書の箇所は、カペルナウムに移った後で何が起こったかということについてです。
イエス様がガリラヤ湖畔を進んで行くと、二人の漁師が投げ網漁をしていました。二人は兄弟で名前をペトロとアンデレと言いました。彼らに向かってイエス様が言います。「私に従って来なさい。お前たちを、人間をつかまえる漁師にしよう。」「人間をつかまえる漁師」とは、エレミア書16章16節にある預言の言葉です。この預言は、イエス様の時代から600年くらい前に遡った頃に与えられました。その意味ですが、預言が与えられた時代の文脈でみると、バビロン捕囚のために世界各地に散り散りになったイスラエルの民を将来、イスラエルの地に戻す、漁師が魚を捕るように集めて戻す、ということです。つまり、バビロンからの帰還を意味するという理解がされました。さて、イスラエルの民の祖国帰還はイエス様の時代から500年程前に実現しました。それでは、イエス様はどのような意味でこの古い預言の言葉を述べたのでしょうか?実は、このような預言は、イエス様の時代には、死者の復活とか最後の審判ということを考える人たちの間では、そういうこの世の終わりの時にメシア救世主を信じる者が世界中から集められて神の国に迎え入れられる、そういう理解がされていました。ただ、漁師のペトロとアンデレはそのような理解をしたでしょうか?そもそも二人はそのような預言があること自体を知っていたでしょうか?いずれにしても、二人は「すぐに網を捨てて」イエス様に従って行きました。こんなに簡単について行くというのはどういうことでしょうか?
ペトロとアンデレだけではありませんでした。さらに進んでいくと、舟の中で父親と一緒に網の手入れをしている二人の兄弟が見えました。名前はヤコブとヨハネ。イエス様が声をかけると、この二人の兄弟も「舟と父親を残して」イエス様に従って行きました。
4人の漁師たちは、ただ声をかけられただけで、そのまま「網を捨てて」、「舟と父親を残して」すっとイエス様に付き従って行ってしまいました。イエス様を一目見て、その一声を聞いて付き従って行ってしまうとは、何か不思議な力が働いているとしか言いようがありません。この段階ではイエス様は、まだ権威ある教えを大々的に述べて、奇跡の業を行うことはまだしていません。彼がガリラヤ全域の会堂で教えを宣べ始めて奇跡の業を行い出すのは、本日の福音書の日課で言われるように、4人の漁師を弟子にした後のことだったのです。この段階では、彼らにとってイエス様はまだ素性のわからない人物です。それなのに、一声かけられて生業も父親もほっぽり出して、そのまま付き従って行ってしまうとは、これはもう人間の内側の心理的なやり取りで説明できる話ではなく、人間の外側から働く力、まさに神の力によるものだったとしか言いようがありません。それはまさに、イエス様が、病気から治れと命じたら治ってしまうように、嵐よ、静まれと命じたら静まってしまうように、また、悪霊よ、この人から出て行けと命じたら出て行ってしまうように、イエス様がついて来なさいと言ったら、そうなってしまうのです。マタイ9章9節をみると、徴税人のマタイが座っていたところをイエス様に声をかけられるやいなや有無を言わずに立ち上がって従って行った、とありますが、これも同じことでしょう(マルコ2章14節とルカ5章27-28節では徴税人の名前はレビ)。
2.イエス様につき従った弟子たち
イエス様が呼び出したらもうついて行かざるを得ないということは、本日の旧約の日課イザヤ書の預言が実現したことを意味しています。そこでは、神が自分が成す業を目撃してその証人になる者を選ぶということが預言されています。イザヤ書43章13節をみると、「今よりも後も、わたしこそ主。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を起こせば、誰がもとに戻しえようか」とあります。「わたしの手から救い出せる者はない」というのは、少し注釈が必要です。「救い出す」と言っているのは、ヘブライ語の動詞נצלをそう訳しているからですが、「悪から救い出す」と言うのならわかりますが、「神から救い出す」というのは意味をなさないと思います。この動詞の基本的な意味は「取り去る」です。それで、「わたしの手から取り去る者はない」の方がよいでしょう。つまり、神が証人として選んだ者はもう神の手にしっかり握られているので、何をもってしても証人をやめさせることはできない、ということです。まさに、「わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか」ということです。このイザヤ書の預言に従えば、イエス様が4人の漁師をはじめ弟子たちを呼び集めたというのは、第一にイエス様の業と教え、そして彼に起きる出来事をつぶさに目撃させて、その証人になってもらうことがありました。第二には、この呼び集めは神の力で行うものなので、一度呼び出されたら個人的な事情は関係なく、ただやるしかないことがありました。神の力でイエス様の目撃者、証人にさせられるというのが、イエス様の弟子の呼び集めの趣旨であったと言えます。
そうすると、イエス様の教えや業や出来事の目撃者、証人になることはよいにしても、有無を言わさずにあたかも人形の駒のように呼び出しに従わせるのは、ちょっと強引すぎるのではないかと思われるかもしれません。しかしながら、天地創造の神は、人間救済計画を実現する時が来た、それを一気に実現してしまおうとしたのです。この、一気に実現してしまおう、という神の意気込みは、イエス様のこの世での活動の期間がとても短いものであったことからもうかがえます。聖書の読者には意外かもしれませんが、イエス様が神の計画の実現に携わった期間というのはとても短かいものでした。マタイ福音書を見ると、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けて活動を開始してから十字架と復活の出来事までページ数は58ページあります。ところが、誕生から洗礼までは2ページしかありません。そのためイエス様の活動期間は長かったような印象が持たれるのですが、この期間は普通、大体3年位と見なされています。短く見積もる研究者は大体1年ぐらいと言う人もいます。イエス様の地上での全生涯は大体30年少しというのが定説ですので、全部の福音書の大半を占める活動期間の出来事は、実に生涯の最後の期間、短くて1年、長くて3年位の期間に集中しているのです。神が計画されていたことを速やかに確実に成し遂げるという時に、弟子たちの呼び集めというものも完全に神主導になって有無を言わせない動員になったと言うことができます。
イエス様がこの地上での生涯のまさに最後の期間に行ったことというのは、まさに神の人間救済計画を実現することでした。神の人間救済計画とは、端的に言えば、人間を神の国に迎え入れられるようにするということです。イエス様は公けに活動を開始した時、「悔い改めよ。神の国が近づいた」と宣べました。先週の説教でもお教えしましたように、「神の国が近づいた」と言う時、それは本当に神の国がイエス様と一体となって来たことを意味していました。
神の国がイエス様と一体となって来たことは、彼の行った無数の奇跡に如実に示されています。イエス様の奇跡の業の恩恵に与った人々、そしてそれを目のあたりにした人々は、将来この世が終わりを告げる時に到来する神の国とは、この世で奇跡と捉えられることが普通の当たり前になっているところなのだ、と身をもって体験したのです。しかしながら、神の国がイエス様と共に到来したといっても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァ以来、神への不従順と罪を代々受け継いできた人間は、神聖な神の国に入ることはできないのです。罪と不従順の汚れを持つ人間は神聖なものとあまりにもかけ離れた存在になってしまったからです。この汚れが消えない限り、神聖な神の国に迎え入れられません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側にとどまっています。
この問題を最終的に解決したのが、イエス様の十字架の死と死からの復活だったのです。神は、本来なら人間が受けるべき罪の罰を全てひとり子のイエス様に請け負わせて、あたかも彼が全ての罪の責任者であるかのようにして十字架の上で死なせ、その身代わりの死に免じて人間の罪を赦すという解決策に打って出たのです。そこで人間の方が、「あの、2000年前の昔の彼の地で天地創造の神がひとり子イエス様を用いて人間のために罪の赦しの救いを実現したのは、現代を生きる自分のためにも行われたのだ」とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の身代わりの死に免じて確立した罪の赦しがその人に効力を持ち、罪が赦されるので神の目に適う者となり、神の国に迎え入れられる者に変えられるのです。その人は、そのように変えてもらった以上はそれを汚すようなことはしてはならない、と思うようになり、そのように生まれ変わって新しい命を生きるようになるのです。
さて、このようにしてイエス様は、私たちが神の国に迎え入れられるようにと、天の父なるみ神の意思に忠実に従って、十字架の死と死からの復活の業を成し遂げて、神の人間救済計画を実現しました。つまり、この地上での生涯の最後の1-3年ほどの短い期間に本当にとてつもないことを成し遂げられたのです。全ての人間の罪の罰を全部請け負って、人間が罪の赦しを受けられて神の国に迎え入れられる道を開いたのです。神の国に迎え入れられない絶望的な状況を希望ある状況に変えて下さったのです。
この大事業の完遂にあたってイエス様は弟子たちを呼び集めました。弟子たちに課せられた使命は、イエス様と共にいてその教えと業そして起きる出来事をつぶさに見聞きして目撃者になること、そしてイエス様から授かった教えと力をもって、神の国の実在を証しして罪の赦しを宣べ伝えることでした(マルコ3章13-15節)。彼らがイエス様と行動を共にしたことが、後に目撃者としての彼らの証言を生み出すことになりました。そして、彼らの迫害にも屈しない命がけの証言を聞いてイエス様を見なかった人たちが彼を救い主と信じるようになりました。そういうことが連鎖反応的に起こって、最終的に弟子たちの証言やそれに基づく教えや信仰の証しがまとめられて、聖書の新約の部分ができあがりました。弟子たちの証言や聖書がなければ、誰もイエス様を救い主と信じることはできません。イエス様が門を開いて下さった神の国にも入ることはできません。そういうわけで、イエス様は神の人間救済計画そのものを実現しましたが、弟子たちは実現した救いが国と時代を超えて多くの人たちに及ぶようにする役割を果たしたのです。
イエス様が使徒と呼ばれる弟子たちを選んで呼び出したのは、このような重要な役割を担わせるためでした。この呼び出しは、神のひとり子の十字架の死とその死からの復活という、まさに人類を闇から光に方向転換させる出来事を間近にして行われました。このような大きな出来事を間近にしたイエス様の呼び出しに個人的な事情を顧みない、有無を言わせない力があったというのは当然でしょう。本当に何か途方もない力が働いて、人間が次々に吸い取られていくような雰囲気がありました。福音書は、このように自動反応のごとくイエス様につき従い始めた弟子たちの内面的葛藤とか一切触れていません。きっと実際に自動反応のようなことが起きたのでしょう。それで、その雰囲気をそのまま伝えたいために、余計な説明を付け足すことをしなかったのでしょう。
イエス様自身、このような自動反応を期待していたことが、信心深い百人隊長の信仰がそのようなものであることを知って感心したことに伺えます(ルカ7章1-10節、マタイ8章5-13節)。ところが、呼び出されても自動反応が起きない場合は、イエス様はとても手厳しかったです。ある呼び出しを受けた人が死んだ父親を葬りに行ってもいいかと聞くと、「死者は死んだも同然の者たちに葬らせればよい」と答えます(ルカ9章59-60節、マタイ8章21-22節)。神の力が及んでも、人間の自由意思がそれを押しとどめた例と言えます。その人がそのままイエス様に従って行ったかどうかはわかりませんが、神の力が及んで付き従った筈の弟子たちにも、自由意思の葛藤はもちろん起きます。「私たちは全てを捨てて従って来ました、何をいただけるのでしょうか」という情けない質問も出ました。イエス様が逮捕された時、弟子たちは皆逃げてしまいました。しかし、そうした、神の力と人間の自由意思の葛藤に揉まれるというプロセスを経て、イエス様の復活を目撃した後は、迫害にも屈しない文字通りの「使徒」に変えられたのでした。
3.そして、私たちは
それでは、私たちも同じようにしなければならないのでしょうか?もし神の召し出しを受けたら、私たちもゲームのコマのように駆り出されて、4人の漁師のように、生業やさらには親や家族を置いて出て行かなければならないのでしょうか?それが私たちにとってイエス様の弟子になる、彼の後をつき従うということになるのでしょうか?
ここでひとつ注意しなければならないのは、私たちに関して言えば、神の人間救済計画は既に実現しているということです。実現の目撃者、証言者になって聖書を編み出すという役割は、既に使徒たちが果たしてくれました。私たちはイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通してイエス様の弟子になります。私たちがイエス様の弟子になるというのは、まず、実現済みの救いを受け取る者になるということを意味します。それから、「イエス様の十字架と復活の業は自分のためにもなされた、だからイエス様は私の救い主です」と言って、周りに証しできることも弟子であることの内容です。そして、周りの人もイエス様を救い主であることをわかって信じることが出来るように働きかけることも入ります。大きく言って、救済の実現に際して特別な役割を託された弟子たちとは状況と立場が少々異なっているので、弟子たちが受けたのと同じような、自動反応をもたらすような召し出しは恐らくないのではないかと思われます。ただ、もちろん、周りに証することは弟子たちと共通しているので、それを忘れてはならないと思います。
ところで、キリスト信仰者は、堕罪の時以来、人間を神から切り離して神の国に入れないようにしようとする力が今もずっと働いているということを忘れてはいけません。そのため、その悪い力は手立てを尽くして、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者からその信仰を取り去ろうとします。究極的な場合、肉親を信仰の反対者に立てて、信仰を捨てるか肉親を捨てるかどちらかを選べという苦しい選択に追い込むこともします。そのような時は、どうしたら良いでしょうか?
昔フィンランドで聖書を学んでいた時、私はこの問題について聖書の教師に尋ねたことがあります。「もしキリスト信仰者でない親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり、場合によっては信仰を捨てさせようとしたら、十戒の第四の掟『父母を敬え』はどうすべきか」と。彼が教えたことは次のことでした。「何を言われても騒ぎ立てたり取り乱したりせず自分の立場をはっきりさせておきなさい。たとえ意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てるとか、親から捨てられる、という事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち得られるかもしれないし、場合によっては親が信仰に至る可能性もあるのだから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に祈り打ち明けなさい。」
信仰に反対する者に対して敬意をもって自分の立場を明らかにするというのは、ダニエルがバビロン帝国のネブカドネツァル王に言った言葉を思い出します。ネブカドネツァルは、ダニエルに対して、王が作った金の像を拝むか火の炉に投げ入れられるか、どちらかを選べと言われて、次のように答えました。
「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ずや救ってくださいます。そうでなくとも、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」(ダニエル3章16-18節)
キリスト信仰者においては、捨てる、捨てない、と言っている信仰とは一体何なのかということをしっかり明らかにしておかなければなりません。それがはっきりしないのに、捨てるとか捨てないとか言っても、話になりません。信仰とは、本説教で申し上げてきたことに関連して言えば、大体次のようなことになります。イエス様が自分のために十字架と復活の業を成し遂げて下さったおかげで、私は神聖な神の前に立ってもやましいところがない、潔癖な者であると見なしてもらえるようになった、ということを本当にその通りだとしていることです。
本当ならば神聖な神の前でやましいところがない、潔癖だなどとは言えない身なのですが、イエス様が神聖な神のひとり子でありながら私の身代わりになって十字架の上で死なれた、それでイエス様こそ救い主です、と信じて告白すれば、神は彼の身代わりの犠牲の死に免じて私にはやましいところがない、潔癖な者として見なして下さるのです。このことは、人間がこの世の人生を終えて、次の未知なる大いなる世界に足を踏み入れる時にとても大事なことになります。なぜなら、この全く未知の恐るべき世界に足を踏み入れる時、自分には手を取って御許に引き上げて下さる方がおられるとわかることができるからです。私のことをやましいところがない、潔癖であると認めて下さる方がいらっしゃるので、それがわかるのです。本当に神がそのように認めてくれるというのは、あの2000年前の彼の地に打ち立てられた十字架という歴史上の出来事があるから、わかるのです。
そのように、大いなる安心と信頼をもって、自分の全てを大いなる意思に委ねて未知の世界に足を踏み出すことができる。このような安心と信頼を、どうして捨てなければならないのでしょうか?また、どうして奪い取ろうとするのでしょうか?奪い取ろうとするのは、何かもっと確かな安心と信頼を保証してくれるからなのでしょうか?奪い取ろうとする者がそれを示せると言うのなら、イエス様の十字架を超えるような出来事が歴史上あったのか示せると言うのでしょうか?もし示せないで奪い取ろうとするのならば、一体何のために奪い取ろうとするのでしょうか?自分ではその大いなる安心と信頼を求めたいと思わないのでしょうか?全く理解できないことです。
最後に「ペトロの第一の手紙」3章13-16節の聖句を引用して本説教の締めとしたく思います。
「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。」
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン。