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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の日課はヨハネ4章にある有名な「サマリアの女」の話です。イエス様とこの女性が交わす会話の中に、「生きた水」という言葉が出て来ます。イエス様がその水を与えると、それを飲んだ人は永遠に喉が渇くことがなくなる。そればかりか、その水は飲んだ人の中で泉となって、そこから湧き出る水が永遠の命に向かって流れていくということが言われています。永遠に喉が渇くことはない、とか、心の中に泉が出来てそこから溢れ出る水は永遠の命に向かって流れ出す、と言うのは、何かをたとえて言っているのですが、一体何がたとえられているのでしょうか?たとえの意味ははっきりわからなくとも、聞く人にとって何か心を奪うような美しい描写ではないかと思います。
本日の福音書の日課の後半にもたとえがあります。刈り入れ人と種まき人のたとえです。イエス様は弟子たちにこれを話す時、目を上げて、麦畑が黄金色なのを見なさい、と言われます。刈り入れ人である弟子たちは、別の者が労苦した結果を刈り入れするのであるが、別の者の労苦を分かち合うことにもなる、と言っています。もし、このたとえを家の中とかではなく、外の、まさに黄金色の麦畑の前で聞かされたら、別の者の労苦が具体的に何を意味するかわからなくても、なるほど、その通りだと言う気持ちになるのではないでしょうか?
これらのたとえは具体的に何かを指していています。それを「生きた水」とか「他の者の苦労」というものにたとえて言っているのですが、それではその具体的なものとは一体何なのでしょうか?美しい表現にうっとりして、それではそれは何を意味しているのですか、などと聞かれると、はた、と困ってしまいます。聞いた時は、わかったような気がするのですが、いざ自分の言葉で説明しようとすると、わかったようなことがどこかにいってしまう。真にもどかしいです。たとえというものにはそういうことがよくあります。たとえは、物事を直観的に分からせる効果的な手法だからです。本日の説教では、「生きた水」と「他の者の労苦」を具体的な言葉にしてみましょう。せっかく、うっとりしたのに何だか興ざめだと思われるかもしれませんが、具体的な言葉にして後で、もう一度この箇所を読むと味わいが一層深くなるのではないかと思います。
2.
まず、本日の福音書の箇所の中で起きた出来事の流れをざっと追ってみましょう。イエス様と弟子たちの一行は、ユダヤ地方からガリラヤ地方に引き返します。マタイ、マルコ、ルカの三福音書では、イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後はガリラヤ地方に行き、そこを中心にして活動し、最後にエルサレムに向かう、という展開になっています。ヨハネ福音書ではイエス様は最後のエルサレム行きの前にも何度か往復されていて、三福音書には取り上げられないユダヤ地方訪問の記録が収録されています。
さて、イエス様一行は途中で、ユダヤ地方とガリラヤ地方の間にあるサマリア地方を通過します。サマリア地方とは、遥か昔、ダビデとソロモンの王国が南北に分裂した後に出来た北王国にあたる部分でした。それが、イエス様の時代から700年以上前の昔、東の大帝国アッシリアに攻められて滅ぼされてしまいます。その時、国の主だった人たちは東の国に連れて行かれ、逆にサマリア地方には東から異民族が強制移住させられて来ました。それで、同地方は民族的にも宗教的にも混じり合う事態となってしまいます。旧約聖書の一部は用いていましたが、本日の福音書の箇所の中でも言われているように、エルサレムの神殿とは違う場所で礼拝を守っていました。これに対してユダヤ民族が自分たちこそ旧約聖書の伝統とエルサレムの神殿の礼拝を守ってきたと自負して、サマリア人を見下して、交流を避けてきたことは良くわかります。本日の箇所のサマリア人の女性の発言からも、そのことがよく伺えます。
イエス様一行は、サマリア地方にあるシカルという町まで来て、その近くの井戸のところで休むことにしました。旧約聖書の伝統に基づき(創世記48章22節、ヨシュア記24章32節)、付近の土地はかつてヤコブが息子のヨセフに与えた土地と言い伝えられていました。そのため、サマリア人はそこにある井戸をヤコブから受け継がれた井戸と考えていました。
さて、イエス様の弟子たちは町に食べ物を買いに出かけ、「旅に疲れた」イエス様は井戸のそばで座っていました。「疲れた」などと、イエス様が神と同質な方に似つかわしくない状態にあったのは、これは神のひとり子がこの世に送られた時、乙女マリアという人間の母から人間として生まれたことによります。神と同質ですから、罪を持つことも犯すこともない神聖な方です。しかし、人間として生まれたことで、疲れた時は疲れ、空腹な時は食べ、悲しい時は泣き、喉が渇けば渇き、痛み苦しい時は痛み苦しんだのです。こうしたことは全て福音書の中で言われています。まさに人間として生まれたことで、神が人間の痛みや苦しみを自分のものとして受けられたのです。「ヘブライ人への手紙」4章の中にイエス様について、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」と述べられていますが、これは真理です。
さて、イエス様が一人で休んでいると、サマリア人の女性が井戸に水を汲みにやって来ました。時刻は正午ごろ。中近東の日中の暑さでは、誰もこの時間に水汲みなどにやって来ません。まるで誰にも会わないようにするかのように、女性がやってきました。何かいわくがありそうです。イエス様がこの女性に水を求めると、女性は、なぜサマリア人と交流を避けるユダヤ人が自分に水を求めるのか、と驚きます。そこから二人の対話が始まります。そのやりとりの中でイエス様は、自分は「生きた水」を与えることが出来る者であると自分について証し始めます。女性は、それが何をたとえて言っているのかわからず、本当の飲み水のように考えるので話がかみ合いません。最後にイエス様が女性に「夫を呼んで来なさい」と命じると、女性は「夫はいません」と答えます。それに対してイエス様は、その通り、かつて5人夫がいたお前が今連れ添っているのは正式な婚姻関係にない男だ、だから「夫はいない」と言ったのは正解である、などと言い当ててしまいます。これで、なぜ女性が人目を避けるようにして井戸に来たかがわかります。
そこで、女性はイエス様のことを預言者と見なしますが、イエス様は、自分はメシア救世主であると証します。全てのことに驚いた女性は、シカルの町の人々にイエス様のことを知らせに走り去っていきました。もう人目を避ける境遇にあることなど眼中にありませんでした。それほど驚き、人々に知らせないではいられなかったのです。ただし、女性がメシアという言葉を、本当にイエス様が自分で理解していた意味と同じ意味で理解していたかは定かでありません。というのは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起きる前は、ユダヤ人の間でさえメシアという言葉は使う人によっていろいろな意味を持っていたからでした。その辺の事情は本説教では深入りしません。ただ、本日の箇所の最後のところで、町の人々が二日間イエス様の教えを集中的に聞いた後、彼のことを「この世の救い主」(42節)と信じたと言うのは、注目に値します。
女性が町に走り去ったのと入れ代わり立ち代わりに、食べ物を買ってきた弟子たちが戻ってきます。イエス様はサマリア人の女性と何を話していたのだろうかと訝しがりますが、それでも、食べるように勧めると、イエス様は突然、自分には食べる物があるなどと言いだします。弟子たちは、自分たちが買い物に行っている間に誰かが持ってきてくれたのだろうか、などと考えます。ここでも、イエス様は何かを食べ物にたとえて言っているのですが、弟子たちは具体的な食べ物を考えて話がかみ合いません。イエス様は、天の父なるみ神の御心を行い、その業を成し遂げることが自分の食べ物であると言います。これは弟子たちにとってちんぷんかんぷんの話だったでしょう。イエス様は構わずに話を続けて、刈り入れ人、種まき人、他の者の労苦について話していきます。
ここで、イエス様が「刈り入れまでまだ4カ月ある」ということについて述べていることを注釈しておきます。イエス様は、「お前たちは『刈り入れまでまだ4カ月ある』と言っているが、畑を見よ、もう色づいているではないか」と言われます。これは少し変ですね。というのは、刈り入れまで4カ月あるのに、畑は既に刈り入れ状態にあると言っているからです。これは一体どういうことでしょうか?これは、ギリシャ語の原文をどう理解するかによります。一つの訳仕方としては、新共同訳と異なり、「麦は種を蒔いてから刈り入れまで4カ月かかるものである」という意味にとることが可能です(フィンランド語訳の聖書はそうです。ただし、英語NIV、スウェーデン語、ドイツ語ルター版は新共同訳と同じ)。地中海地域でしたら春小麦はそれ位でできますので、イエス様は当たり前のことを述べていることになります。種は蒔いた後、一定期間したら刈り入れの時が来るものだ、ということです。
ところが、新共同訳ですと、刈り入れまでまだ4カ月あると言っているのに、なんとシカルの麦畑はもう実っている、ということになります。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?実は、イエス様が目を上げて見よ、と言っているのは、まだ茎も伸びていない畑ではないのです。イエス様は何かを現実にはない黄金色の畑にたとえていることになります。それは何でしょうか?イエス様は、目を上げて見なさい、と言います。井戸があるところよりも高い所にあるシカルの町の方を見上げると、大勢の人たちがこちらに下ってやって来るのが目に入ります。サマリア人の女性が、預言者かメシアかわからないが、すごい人がやってきた、と言うのを聞いて、すぐに会おうと出かけてきた人たちです。つまり、女性の証言を聞いて、それを信じてイエス様のもとにやって来たということで、将来起こるべきことを先取りしていることがある。つまり使徒たちの証言を聞いてイエス様を救い主と信じる人たちが出る、ということの先取りがここにあるのです。目撃者から直接イエス様のことを聞いて信じるようになる、後には聖書の御言葉を通して信じるようになる、このようにしてイエス様を救い主と信じる人が刈り入れを待つ豊かな実にたとえられているのです。
イエス様を救い主と信じる人を豊かな実と考えれば、実は最初の訳仕方でも問題ありません。というのは、目を上げて見なさい、と言われる時、視野に入ってくるのは、目の前の色づいた麦畑と町の方からやってくる大勢の人たちの両方になるからです。この方が、たとえで言われる直接的な描写と隠された意味の両方が一緒に揃うので、一層効果的と言えます。
いずれにしても、町の人たちは請うてイエス様に滞在してもらい、2日間に渡って教えを聞いて、彼のことを「この世の救い主」と信じるようになります。長くなりましたが、以上が本日の福音書の箇所の出来事の流れです。
3.
さて、イエス様が言われる「生きた水」について見ていきましょう。「生きた」水などと言うと、水が動植物のように呼吸して生きているように聞こえます。原語のギリシャ語を見ると「生きる」という動詞の動名詞形なので「生きている」という意味になり、文字通り「生きている水」です。私が使う辞書はギリシャ語スウェーデン語のものですが、それによれば「生きている」の他に「命を与える」という意味もあります。ヨハネ福音書でイエス様が「生きる」とか「命」という言葉を使う時はたいてい特別な意味が込められています。何かと言うと、「生きる」とか「命」は今の世にあるものの他に、今の次に来る世のものもあって、それらを全部ひっくるめた「生きる」、「命」になります。それで、「生きている水」とは飲む人を永遠の命に至らせる水ということで、まさに「永遠の命を与える水」ということになります。
この、イエス様が与える「永遠の命を与える水」を飲むと、それは飲んだ人の中で泉となって、そこから「永遠の命に至る」水が湧き出る。泉とは、地下水が地表に沁み出てくるところにできます。穴を掘って地下水が溜まって池のようになったりしますが、それは泉とは言えないでしょう。掘らないで自然のままで地下水が押し上げるように絶えず湧き出るのが泉で、水は溢れ出るしかなく小川となって外に向かって流れ出て行きます。イエス様が与える水を頂くと、そのような水が絶えず湧き出る泉が心の中に出来て、そこから溢れ出た水は永遠の命に向かって流れて行く。美しい描写です。命の根源にかかわるようなことを予感させます。でも、これは一体どういうことでしょうか? イエス様が与える水が死を超えた永遠の命に導いていく、つまり、私たちの命をこの世で生きるものだけに留めず、この世での命と次の世での命を合わせた両方にまたがるものにして、その間ずっと私たちの内にこんこんと湧き出て流れ続ける水。イエス様は何をそのような水にたとえているのでしょうか?
ここで一つ注意したいことは、この水はイエス様が与えるもので、一度心に泉が出来たら、あとは水が勝手に溢れ出て行くということです。人間はただ、与えられたものを受け取るだけ、後は溢れ出て流れ出ていくにまかせるだけという受け身な存在です。永遠の命に与れるために人間はただ受け取るだけでいいというのは、キリスト信仰そのものを言い表しています。信仰というものが、与えられるものを受け取るだけでいいというのは、違和感が持たれるかもしれません。一般には宗教というのは、何か定められた掟や規定をしっかり守ることをしたり、何か奇跡を行ったりしたら強い信仰、出来なければ弱い信仰ということになると思いますが、その場合、信仰とは人間の方で頑張らないと理想の状態に到達できないということでしょう。それなのに、キリスト信仰では、まず受け取ることに専念せよ、というのはなんだか物足りない感じがするかも知れません。
キリスト信仰の場合は、人間が永遠の命に与れるために何かをしなければならないのは人間の方ではなく、イエス様が既にして下さったのです。そこが全ての出発点になります。イエス様が人間をこの出発点に立たせてくれたのは、それは人間には不可能だったからです。それでは、どのようにして出発点に立たせて下さったかと言うと、それは、人間が永遠の命に与れない障害となっていた罪の問題を解決してくれたことでした。人間は、自分の造り主である神に対して不従順になって罪を宿すようになってしまった堕罪の時に神との結びつきを失い、永遠の命から切り離されて、死ぬ存在となってしまいました。天地と人間の造り主である神は、この状態を直そうと、ひとり子のイエス様をこの世に送られ、人間の罪を全てイエス様に背負わせ、罪の罰を全て彼に請け負わせて十字架の上で死なせました。つまり、イエス様の犠牲の死に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。人間は、これらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、神の目に適う者とされ、神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩めるようになりました。万が一この世から死んでも、その時は神が御手を差し出して御許に引き戻してくれて、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのです。
このように、神がひとり子イエス様を用いて成し遂げたことが自分に対して行われたとわかってそう信じ、イエス様こそ救い主とわかってそう信じれば、永遠の命に与れるのです。まさに、信じることが永遠の命に至らせることになるのです。それで、イエス様が与える「永遠の命を与える水」というのは、こうしたことを信じる信仰ということになります。キリスト信仰にとって信仰とは何かと問われたら、それは、父なるみ神がひとり子イエス様と一緒に人間の救いを成し遂げたということだ、というのが答えになります。父とみ子は、全てのことは整えたので、どうぞ受け取りなさい、と言って差し出してくれている。それを、はい、ありがとうございます、と言って受け取れば、それが私たちの信仰になって、私たちの内に永遠の命に向かって溢れ流れ出る水の源が生まれるのです。
イエス様は、自分にとって食べ物とは神の御心を行い、神の御業を成し遂げることだと言っていますが、これも「水」の場合と同じように、「食べ物」が何か永遠の命に導くものを意味しています。神の御心を行い、神の御業を成し遂げるというのは、神のひとり子が十字架の死をもって人間に代わって罪を償い、復活させられることで死と死をもたらす罪を滅ぼして、人間を罪の支配下から贖いだすことです。まさに、人間を永遠の命に与らせる御業です。
刈り入れ人と種まき人のところで、「別の者たちの労苦」と言われます。「別の者たち」と複数形になっていますが、これは、み子イエス様と父なるみ神が人間の罪の償いと罪の支配からの贖いの業を成し遂げたことを指しています。弟子たちは、自分たちが見聞きしたことを命をかけて証言し、記録に残し伝えることをし、その結果、多くの人たちが、神がイエス様を用いて成し遂げた救いを受け取ることが出来るようになりました。受け取った人は豊かに実る実となりました。
4.
兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しの救いを受け取った私たちの内にはこんこんと水が湧き出る泉があることを忘れないようにしましょう。日々聖書の御言葉を繙き、自問し、神に祈り全てを打ち明けることは大事です。そうしないと、泉は見失われ、小川のせせらぎは聞こえなくなります。この世には、泉のあることを忘れさせたり、そんなものはないと思わせるものに満ちています。特に試練や苦難や誘惑に遭う時などはそうです。しかし、そんなのは単なる思わせにしかすぎません。本当のことではありません。せせらぎの音は雑音にかき消されることはあっても、せせらぎの音自体は消えたことにはなりません。いつもゴルゴタの十字架の主に思いを馳せ、心の目をそこに向けましょう。そうすれば、泉は相変わらず水を湧き出させていることに気づくでしょう。心の耳にせせらぎの音が響いて来るでしょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン