説教「解放なら安息日に」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書9章13~25節、イザヤ42章14~21節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所は、イエス様が生まれつき目の見えなかった人の目を見えるようにする奇跡の業を行った後で何が起きたか、ということについて述べています。当時のユダヤ教社会の宗教エリートであるファリサイ派の人たちが、この人を尋問しました。なぜかと言うと、この癒しがなされた日が安息日だったからでした。つまり、癒しを行ったイエスは、安息日に仕事をしてはならないという掟を破ったのではないか、つまり神の意思に反する人物ではないか、ということが問題になったのです。

 安息日を守るというのは、皆様もご存知のように、出エジプトの時に天地創造の父なるみ神がモーセに告げた十戒のうちの第三の掟です。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、なんであれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8~11節)。

なぜ、イエス様が安息日の掟を破ったと騒がれたかと言うと、彼がまず唾と土で何か粘土状のものを作って、それから、それを使って目を治してあげたことの二つが仕事をしたと見なされたからです。本日の箇所の前で、イエス様がどのようにして癒しを行ったかについて述べられています。イエス様は一言声をかけて癒すのではなく、わざわざ作業をするように何か粘土状のものを作って目に塗って、目を治してあげました。この作業が安息日に起きたために、群衆はこれが宗教的に許されるかどうか判断してもらおうと、この人をファリサイ派のもとに連れて行ったのでした。このような奇跡を行うイエスは、本当は神から来た者ではないだろうか?それとも十戒の掟を破る、神に反する者ではないだろうか?一体どちらだろうか?宗教エリートはなんと答えるだろうか?

ファリサイ派の間でも見解が割れました。ある者は、神が定めた安息日の掟を破ったのだからイエスが神由来とは到底言えないだろう、単なる罪びとだ、と主張します。別の者は、そうならば果たしてこのような奇跡の業を行うことができるだろうか、と疑問を呈します。実際、旧約聖書のイザヤ書を通して読むと、将来神の霊を注がれた神の僕が現れて目の見えない人たちの目を見えるようにする時が来ると預言されています(42章7節、加えてマタイ11章4~6節、ルカ7章22~23章も参照)。イエス様を罪びと考えない人たちは、きっとイザヤ書の預言が頭をよぎったのでしょう。

Distant Shores Media Sweet Publishing CC BY-SA 3.0 http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0
しかし、見解の一致は得られません。そこで、ファリサイ派の人たちは、目が見えるようになった人の見解を求めました。「お前は、お前の目を開けた者のことをどう思うのか?」 男の人は答えました。「預言者だと思います。」メシアとか救世主という答えではありませんでしたが、預言者というのは神から送られる人と考えられていたので、イエス様は神由来の者、神の意思に適う者であり、罪びとではありえない、と告白したことになります。

本日の福音書の箇所には、二つ考えなければならない大きなことがあります。一つは、目を見えるようにするイエス様の奇跡の業とイザヤ書の預言の関係です。もう一つは、イエス様はなぜ癒しの業を安息日に行ったのかということです。奇跡の業とイザヤ書の関係は、実はとても深くて大きい問題をはらんでいて、一回や二回の説教でお話しすることはできないと思います。そのため本説教では、安息日の問題を中心にお話ししようと思いますが、ほんの少しだけ、先にイザヤ書の預言について触れておきます。

 

2.目を見えるようにする奇跡の業とイザヤ書の預言の関係について

本日の旧約の日課であるイザヤ書42章の中で、目が見えない者、耳が聞こえない者について述べられていました。これは肉体的に目が見えない、耳が聞こえない、ということではなく、霊的に見えない、聞こえない、ということです。霊的に見えない、聞こえないというのは、天地創造の神のみ心がわからず、それに沿う生き方ができない状態を意味します。旧約新約聖書を通じて、そういう状態は「心が頑なになる」とも言われます。神はかつて、御自分の意思に反するだけになってしまったイスラエルの民に対して、その霊的な目と耳を塞いでしまうという罰を下しました。そのことはイザヤ書6章に記されています。時はユダ南王国のウジヤ王が死去した頃、イエス様の時代から700年くらい前の頃でした。そのためイスラエルの民は神のみ心が一層わからない状態となり、国内は混乱状態が一進一退で深まり、対外的には大国バビロン帝国の侵略を受けて滅亡してしまいます。紀元前600年近くの出来事です。イスラエルの民の主だった人たちは異国の地に連行されていきました。

それから50、60年経った後、今度はペルシャ帝国がバビロン帝国を滅ぼしてオリエント世界の覇者となると、イスラエルの民は祖国帰還が認められます。本日のイザヤ書42章の預言はその時期が近づいた頃に向けられています。神は、イスラエルの民がバビロン捕囚という苦難を背負ったことで、その罪を赦すと宣言します(43章25節、44章22節)。本日の日課のイザヤ書42章16節で神が霊的に見えない、聞こえない民を導いて知らない道を歩ませる、とあります。それは、民がもはや神の差し出す手をしっかり掴まらないと前に進めない、それくらいに神によりすがっている、信頼しきっている状態にあることを意味します。バビロン捕囚の苦難が驕り高ぶっていた民をこのようにへり下って神のみに信頼する民に変えたのです。つまり、霊的に見えなくなる、聞こえなくなるというのは、結局、天地創造の神しか信頼するものがなくなってその御手をしっかり掴まって前に進めるようになる、そういう状態をもたらす機能を果たすと言えます。そのような状態は、神のみ心を知って、それに沿う生き方をすることですので、霊的に見える、聞こえる状態になっているわけです。

ところで、イザヤ書42章19節に、「神の僕」が盲目であると言われていることに違和感を抱く方もいらっしゃると思います。というのは、イザヤ書53章をみると、「神の僕」とは将来到来する救世主メシアのイエス様を指しているので、そのイエス様が盲目というのはどういうことか理解できないからです。実はこれは、イザヤ書で言われる「神の僕」というのは二つの意味がだぶっていることによります。一方で「神の僕」は、バビロン捕囚の罰を受けたイスラエルの民全体を意味し、他方では将来到来する救世主メシアを意味し、イザヤ書ではこの二つの意味がたぶっているのです。42章では明らかにイスラエルの民を指しています。

19節の「わたしの僕ほど目の見えない者があろうか」という訳ですが、そういう質問ですと、「いいえ、他にはいません」という答えが返ってきてしまいます。ヘブライ語の原文はそういう修辞疑問文ではないと思います。素直に訳すと「わたしの僕以外には誰が目の見えない者か?」です。この神の問いを聞いた私たちは、「はい、私たちもそうです」と告白し、神に全面的な信頼を寄せて、その御手をしっかり掴まって暗闇の中を進みます。その時、神は、16節に言われるように、「行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐに」して下さいます。

19節ではまた、「わたしが信任を与えた者ほど目の見えない者があろうか」とありますが、「信任を与えた者」というのは辞書(HolladayのConcise Hebrew and Aramaic Lexicon of the OTですが)に出ている意味を素直に使えば「報いを受けた者」となり(שלמのpual分詞形)、罪のゆえにバビロン捕囚の苦難を受けることになったイスラエルの民を指します。そうするとここは、「罪の報いを受けたイスラエルの民と同じように目の見えない者は誰か?」という意味になります。この質問に対して、「はい、私です」と答える者は、神の御手をしっかり掴まって進むことになります。(19節は各国語訳も苦労しているようです。)

 

3.安息日の目的

  イエス様が目の見えない人の目を見えるようにした奇跡の業は、霊的というより肉体的な視力の回復でした。イザヤ書の預言は、字句通りに読めば、肉体的な視力回復としても霊的な視力回復としても理解できます。それで、イエス様が肉体的な視力回復の業を行えば、目撃した人たちは彼がイザヤ書の預言の実現と関係のある方だとわかったのです。イエス様が人間の霊的な目を見えるようにする奇跡の業は、十字架と復活の出来事を通して行いました。このことは後でまた述べます。

ところで、肉体的な視力回復の奇跡を目の当たりにしても、それがイザヤ書の預言の実現と関係があることを見えなくしてしまうことが起きてしまいました。それは、イエス様がこの奇跡の業を行ったのは安息日だったということでした。もし別の日に行っていれば、この方はイザヤ書の預言を実現する方だ!と拍手喝采になったかもしれないのに、わざわざ安息日に行ったがために、人々の注意は病気が治ったという奇跡には向けられなくなって、安息日を破ったということに向けられてしまいました。一体、イエス様はどういうつもりだったのでしょうか?

実は、安息日を選んで奇跡の業を行う時、イエス様にはちゃんと目的があったのです。どんな目的かと言うと、安息日の守り方について教えるということです。十戒の第三の掟は、先ほどみたように、「安息日を心に留め聖別せよ」です。「聖別する」というのは、神聖なものにするという意味です。安息日を神聖なものにするとはどういうことか?天地創造の神が天と地とそこにあるもの全てを造り上げた時、七日目は創造の業から離れて休まれ、その日を祝福して神聖なものとした。だから神に造られた人間も同じように七日目を神聖なものとせよ、ということです。これが、当時のユダヤ教社会の考え方では、仕事をしないことが安息日を神聖なものにすることの中心になりました。ところが、イエス様の場合は、仕事をしないのなら、じゃ何をするか、ということについて教えます。以下、安息日の守り方についてのイエス様の教えを見ていきます。イエス様の教えを理解することは取りも直さず、安息日の掟を与えた父なるみ神のみ心を知ることにもなります。

 ここで、安息日に絡んだイエス様の行動とそれに伴う教えについて見ていきましょう。

 マルコ2章に(マタイ12章、ルカ6章も)、安息日にイエス様と弟子の一行が麦畑を通りかかった時、空腹を覚えていた弟子たちは麦の穂を摘んで食べ始めた出来事があります。穂を生のまま食べるのですから、飢えに近い相当な空腹だったと思われます。そこで、麦の穂を摘んだことが仕事をしたと見なされて、イエス様がファリサイ派の人たちから批判を受けます。これに対してイエス様は、かつてダビデ王が空腹を満たすために神殿の供え物のパンを食べて家来に分け与えたことに言及して、次のように述べます。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」(27~28節)。つまり、安息日は人間の益になるように神が定めたものである。従って、飢えや激しい空腹からの解放は禁止されている仕事にはあたらない、ということになり、それを安息日の主であるイエス様が確定したということであります。

 マルコ3章に(マタイ12章、ルカ6章も)、イエス様が安息日にユダヤ教の会堂で手の萎えた人を癒す奇跡の出来事があります。そこに集まっていた人たちは自分を訴える口実を得られる瞬間を待っているのだな、とわかったイエス様は次のように尋ねます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(4節)。誰も答えることができません。イエス様は癒しの奇跡を行います。恐らく同じ出来事について述べているマタイ12章では、イエス様が次のように述べたことも記録されています。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」(12節)。安息日には仕事をしてはならないが、善を行うこと、命を救うことは、してはならない仕事にはあたらない、ということです。

 ルカ14章に、イエス様が安息日に水腫の人を癒す奇跡の出来事があります。ここでも律法学者やファリサイ派の人たちが様子を窺っている。イエス様は言います。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」(3節)。誰も答えられないのを見て、イエス様は癒しの奇跡を行います。そして、最後のダメ押しとして付け加えます。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(5節)。牛が井戸に落ちるというのは誇張が過ぎて、読んでいて思わず吹き出しそうになりますが、イエス様にしてみれば、それくらい当たり前すぎて馬鹿馬鹿しいという様子がうかがえます。

 ルカ13章には、イエス様が安息日に会堂にて、18年間病の霊に取りつかれている女性に癒しの奇跡を行う出来事があります。安息日が破られたと解した会堂長は怒って言います。「働くべき日は六日あるのだから、病気のある人はその間に治してもらうべきだ。安息日はやめるべきだと。これに対してイエス様が反論します。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛れていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(15~17節)。「安息日であっても」という言い方ですと、本当はいけないのだが、そこは目をつぶって認めなさい、というニュアンスになります。ギリシャ語原文を素直に読むとニュアンスは異なり、単純に「安息日に束縛から解いてやるべきではなかったのか」となります。つまり、安息日こそが、サタンの束縛からの解放に相応しい日であるというのです。(英語NIV訳、ドイツ語ルター訳、スウェーデン語訳、フィンランド語訳も、素直な訳です。)

 まさにここで、安息日にしてもいい善い行い、つまり、病気の人を癒すこと、命が危険な状態にある人を救うことが、なぜ、禁止された仕事にあたらないかが明らかになります。いずれの場合も、束縛された状態や危険な状態からの解放という意味があります。安息日にそういう束縛の下にある人を解放することは、してはいけない仕事とはみなされない。むしろ、しなければならないことになる。それ以外の活動は七日目には休止して、心と体と魂を自分の造り主に向けなければならない。そこまではイエス様もユダヤ教社会の通念も同じでした。違いは、イエス様の場合、病気であれ、差し迫った命の危険であれ、人間の命を縛りつけるものからの解放ということを安息日に結びつけたことにあります。

イエス様は安息日であるかないかに関係なく、多くの人々に癒しの奇跡の業を行いました。病気だけではなく、悪霊、飢えなどからも人間を解放しました。しかしながら、イエス様が行った解放の業の中で最大かつ最重要のものは、人間の命を束縛している罪と死から人間を解放することでした。それはどのようにして行われたでしょうか?

人間は、もともとは天地創造の神に似せて造られた良いものでした。それが、堕罪の出来事のゆえに全てが変わり果ててしまいました。その経緯は創世記の3章に記されている通りです。最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順となり罪を犯したことが原因で、人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが、死とは罪の報酬である、と教えている通りです(ローマ6章23節)。人間は代々死んできたように、代々罪を受け継いできました。キリスト教はいつも、人間は罪びとだと強調するので、訝しがられることがあります。人間には良い人もいれば悪い人もいる、悪い人もいつも悪いとは限らない、と。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのです。

以前の説教でも教えたところですが、北欧のルター派教会では、罪というものを、「遺伝的に継承する罪」(arvsynd[スウェーデン語]、perisynti[フィンランド語])と「行為に現れる罪」(gärningssynd[ス語]、tekosynti[フィ語])の二つに考えます。人間には良い人もいれば悪い人もいる、悪い人もいつも悪いとは限らない、と言うのは、「行為に現れる罪」で人を見ていることになります。しかし、真理は、「遺伝的に継承する罪」が土台にあるから「行為に現れる罪」も出てくるということです。行為に現れる罪を犯さなくても、人は遺伝的に継承する罪を背負っている。一体、人間の誰が、自分の思いと言葉と行いの全てを神の神聖な意思に100%沿うものにすることができるでしょうか?逆説的ですが、何も非の打ちどころがないように見える信仰深い敬虔な人ほど、自分の罪深さを自覚するものです。「遺伝的に継承する罪」があるから、赤ちゃんにも洗礼が必要になります。健気に可愛らしく眠っている赤ちゃんを見ると、この子が罪びとだとは誰も考えられないと思うでしょう。しかし、この世に生まれた以上は、赤ちゃんと言えども罪を背負っているのです。

罪が入り込んでしまったために死すべき存在となってしまった人間は、神聖な神の御前に立てば焼き尽くされかねない位に汚れた存在です。こうして造り主である神と造られた人間の結びつきが失われてしまいました。しかし神は、人間を見捨てることはしませんでした。なんとか結びつきを回復して、人間が再び神の御許に戻れるようしようと考えました。どうすれば、それが出来るか?そのためには、人間から罪の汚れを取り除かなければならない。しかし、それは人間の力ではできない。そこで、神は、自分のひとり子をこの世に送り、彼に人間の全ての罪を負わせて、彼を人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲に免じて人間を赦すことにしました。さらに、一度死んだイエス様を復活させることで、今度は人間に永遠の命に至る扉を開きました。人間の方ですることと言えば、これらのことが自分のために行われたとわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えた罪の赦しの救いを受け取ることが出来るということです。この救いを受け取った者は、神との結びつきが回復した者となり、その結びつきの中でこの世の人生を歩むこととなり、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時は神の御許に引き上げられて、永遠に造り主のもとにとどまることができるようになったのです。

以上から、イエス様が人間にとてつもなく大きな解放をもたらしたことが明らかになりました。イエス様は、人間に死をもたらす罪の力を無力にして、死と罪と悪魔に対して完全な勝利を人間にもたらしました。イエス様を自分の救い主と信じて神との結びつきに生きる者は、このイエス様の勝利に与っているので、何も恐れる必要はありません。天と地と人間を造られた神は今日も、この救いと勝利を人間にどうぞと提供しているのです。あとは人間がそれを受け取るかどうかにかかっているのです。

 

4.解放なら安息日に

キリスト信仰者が安息日を神聖なものにするというのは、自分が受け取った救いと解放を全身全霊で確認することです。教会の日曜礼拝はまさにその確認の場です。皆様もお馴染みのように、礼拝は、会衆が神の御前で罪の告白をして赦しの宣言を受けることから始まります。神の御言葉を解き明かす説教を聞いて、既に受け取った救いと解放を深く心に刻みつけていきます。また、讃美歌を歌うことで、この救いと解放を与えて下さった神を賛美し、さらに、救いと解放を与えて下さった神を何よりも信頼して祈りを捧げ、思いを打ち明けます。そして、聖餐式では神との結びつきを強化します。人間の目には単なるぶどう酒とパンのひとかけらにすぎないものが、神の御言葉をかけられることで神聖なものにかわり、これを、イエス様こそ自分の救い主と信じる信仰を持って受け取る時、その人と神の結びつきは、神の目から見て強化されたものになります。このように、礼拝とは一度受け取った救いと解放を確認、強化して、私たちをまた一週間の歩みに送り出すところです。そして、一週間後また帰って来るところです。キリスト信仰者は、安息日に仕事をしないで何をしているかというと、このように救いと解放を確認・強化しているのです。

以上は、既に救いと解放を受け取ったキリスト信仰者について述べたものですが、イエス様が自分の救い主とわかり出しつつも、まだ洗礼を受けておらず、神が用意した罪の赦しの救いをまだ受け取っていない人たちにとっても、礼拝は大事です。信仰者にとって礼拝は既に受け取った救いと解放を確認する場なら、教会に繋がり出した人たちにとってそれは救いと解放の受け取りへと導かれる場だからです。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、安息日の礼拝をこれからも大切にしていきましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(主日礼拝説教 四旬節第四主日)

新規の投稿