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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の説教は、先ほど読んで頂いた第一コリント9章16節か23節までの解き明しに努めてまいりたいと思います。この箇所は、「福音を告げ知らせる」、「福音を伝える」、「福音のために」、「福音と共に」と福音という言葉が何度も出て来る福音尽くしの箇所です。本説教ではまず、福音がそれを聞いて受け入れる人に深い大きな喜びを与えることを見ていきます。次に、そのような福音が私たちに周りの人とどう接すべきかについて指針を示していることを、本日のパウロの教えから見ていきたいと思います。周りの人との関係で福音が示す指針を倫理的な課題と言っておきます。周りの人との関係で自由と責任ということが関わってくるからです。しかも、責任の果たし方として「仕える」ということが出て来ます。ただし、自由とか責任とか「仕える」と言っても、広い意味のものでなく、あくまでキリスト信仰の観点で見たものということをご了承下さい。
この第一コリント9章でパウロは、福音を宣べ伝えるというのは自分にとって何なのか、について述べています。彼にとって福音を宣べ伝えるというのは、したいからする、というような自分の意思で行っていることではなくて、まるでロボットが命令されて行っているようなものであることが読み取れます。実は、そのように宣べ伝えることで福音の本質に迫ることができるのです。それについては後ほど見ていきます。
ここで、パウロが宣べ伝えなければならない福音とは一体何か、ということを見ておきましょう。これは以前の説教でお教えしたことですが、今ここで復習しておきます。「福音」という言葉は、原語のギリシャ語でエヴァンゲリオンευαγγελιονと言い、もともとは「良い知らせ」という意味です。「福音」というのは、「良い知らせ」の中でも特段に良い知らせのものを言います。それで、特段の良い知らせである「福音」とはどんな良い知らせなのかと言うと、大体以下のようなものになります。
天地創造の神のひとり子であるイエス様が私たち人間のために十字架の上で犠牲の死を遂げられ、そのおかげで人間は神から罪の罰を受けないで済むようになった。そのイエス様を救い主と受け入れることで人間は神に受け入れてもらえるようになった。神に受け入れてもらえた者として人間は神から守りと導きを得てこの世を生きられるようになった。たとえこの世から死ぬことになっても、イエス様が復活されたように自分も復活して神の御許に引き上げてもらえるようになった。大ざっぱですが、以上が「福音」の内容です。
福音というものは、深く知れば知るほど、また自分の人生、境遇、課題をよく見つめながら知れば知るほど、福音は大きい深い喜びを与えてくれることがわかってきます。これが福音のもたらす喜びです。実は、この喜びがあることをちゃんとわかっていないと、パウロが強制されたかのように福音の宣べ伝えを行っていることがどんなことか見えなくなります。この喜びを抜きにして、パウロが自分の意思でなくて命令されたロボットのように宣べ伝えをしているなどと言うと、なんだか宗教団体の勧誘じみてきます。何人勧誘しないと、教祖とか何とかの霊かに認められない、序列が上がらない、ひどい場合は罰せられてしまう、だから一生懸命勧誘しなければならない。そこに喜びがあるとすれば、それは目標を達成して教祖や霊に認められたり序列が上がったりした時です。パウロがしなければならないと言って宣べ伝える福音がもたらす喜びは、これは福音自体がもたらす喜びです。何か権威ある者に目をかけられた時に味わえる喜びなど全然意味を持たなくなるくらいの深い大きい真の喜びです。
福音の喜びを、具体的にこういう喜びです、と言って示すことは難しいです。先にも言ったように、自分の人生、境遇、課題を見つめながら、福音を知れば知るほど、福音の喜びを持てるようになるので、人それぞれという面があります。みんなに共通してこういう喜びだというのは難しいですが、ここでひとつ例を挙げてみようと思います。うまく福音の喜びを言い表せるかどうか自信ありませんが、やってみます。マタイ18章でイエス様は、「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の命の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命に与る方がよい」(8節)と教えています。この聖句をもとに二人の説教者AとBがそれぞれ次のような説教をしたとします。
説教者A「ある所に有名なピアニストがいて、交通事故で片手を失ってしまった。一時は失意のどん底に落ちて、死ぬことさえ考えたが、周りの人たちの励ましや心遣いに支えられて元気を取り戻し、片手でも弾けるだろうかと試したところ、両手の時と異なるニュアンスや曲の解釈が表わせる、そんな弾き方が出来ることを発見した。懸命な練習の結果、以前より観客の賞賛を勝ち得るピアニストとして復活した。まさに片手でも命に与るということが起こったのである。」これは、聞く人に感動と希望を与える説教でしょう。
説教者Bは次のような説教をしました。「イエス様はここで、人間の本質は天地創造の神の前ではどんなものであるかをはっきり述べられる。神聖な神の前では誰も「私は潔癖で」とは言えない。言える者は、自分自身を神と同じくらい神聖であると言うのに等しいからだ。神の前に出されて大丈夫と言えるためには、自分の罪に染まった部分を切り取るしかない。しかし、そんなことは不可能である。ところが、この教えを述べた本人が、自分を十字架の上で犠牲にして、人間がどこも切り取らないでそのままの姿で神の前に出られるようにして下さったのだ。手に罪の汚れがあっても、イエス様はその上に自分の神聖さをあてがって下さり、汚れが持っている力、人間に神の罰が降りかかるようにする罪の力を消して下さった。人間はイエス様を衣のように纏っている限り、神から何の罰も責めも受けないですむようになり、両腕で抱えられるように神に受け入れてもらえるようになった。」
さて、どっちが福音の喜びをもたらす説教でしょうか?答えはBです。Aは確かに、聞く人を励まし力づけるものですが、別にキリスト教の説教でなくても話せます。ピアニストがクリスチャンの場合、神様の導きがあったとか、神様にお祈りをしてこうなったと言えば、話はキリスト教的になります。しかし、別の宗教であれば、導きを与えた者やお祈りの対象に聖書の神以外のものを当てはめればいいのだし、無神論者ならば、霊的なことは何も持ち出さずに、ピアニストの不屈の魂や周囲の人たちの支えだけを強調すればよいわけです。
説教Bは、現実の困難の中にあって、それに関係した具体的な励ましや力づけを必要としている人が見たら、ちょっとかけ離れているものに聞こえるかもしれません。しかし、キリスト信仰者は、具体的な励まし、力づけはこのかけ離れているものと一緒じゃないと、物足りなさを感じるのです。パウロは、あちこちのキリスト信仰者に書き送った手紙の中で「喜んでいなさい!」とよく命じました。信仰者だって、悲しいことがあれば、もちろん悲しみますが、悲しみに全身全霊が覆い尽くされて身動きできなくなるような時、息が出来なくなるような時、そんな時でも、福音を受け取った者の内には、覆い尽くされない難攻不落の砦がしっかりとある。そこで深く深呼吸でき、両手両足を思いきり延ばすことが出来る。この失われることのない砦が福音の喜びです。
以上、パウロが宣べ伝える福音は、深くて大きい、そして失われることのない喜び、福音の喜びをもたらすことがわかりました。そうすると、第一コリント9章でパウロが、自分は福音の宣べ伝えを自分の意思ではなく強いられて行っていると言っているのを聞くと、喜びを分け与えるようなな宣べ伝えは感じられません。福音のもたらす喜びの素晴らしさをわかっているパウロが、どうしてここではそんな風に感じられないかというと、それはパウロがここで取り上げている問題のためです。その問題とは、福音の宣べ伝えに対して自分は報酬を求めない、と言っているところです。
第一コリント9章の中で、福音を宣べ伝える使徒たちには権利と呼ばれるものがあることが言われています。それは宣べ伝えた人が宣べ伝えられた人たちから衣食住の提供を受けることでした。この権利は、かつてイエス様が12人の弟子たちや72人の弟子たちを伝道に送った時に認めたことに由来します(例としてマタイ10章10節、ルカ10章7節)。パウロは、他の使徒がこの権利を用いることはよしとしても、自分は用いないことにしている、と言います。なぜでしょうか?
17節で「自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです」と言っています。少しわかりにくいので、ギリシャ語原文を注意しながらみていきます。「ゆだねられている務め」とは「管理を委ねられている」、「福音の管理を神に委ねられている」ということです。福音の管理とは、福音が神の望む形でしっかり保たれて、かつそのような形の福音が多くの人に受け取られるように宣べ伝えることです。神の望む形の福音とは、人間が神の前に出された時に大丈夫でいられるのは罪の赦しを受けているからですが、罪の赦しがイエス様の十字架の上での犠牲のおかげで与えられている、それ以外のものでは与えられない、これが神の望む形の福音です。もし罪の赦しが、人間が業を行って神に認められようとしたら、それはイエス様の十字架の犠牲を無にすることになってしまいます。父なるみ神としては、せっかくひとり子を送ってやったのに、台無しにするのか、ということになるのです。
このような人間の業や力が入り込む余地のない、まさに純粋な福音の管理を、パウロは委ねられてしまったのです。罪の赦しの救いというものは、全部神がひとり子イエス様を用いて実現してしまったので、人間としてはただただ受け取ることに徹しないと罪の赦しはその人に起こらないのです。受け取る以外には何もする必要はないので、人間にとってはタダの救いということになります。パウロは18節で次のように言います。「では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。」「福音を宣べ伝える私の報酬は何か?」と聞いて、答えが「無報酬で伝えることです」というのは、かみ合っていません。この部分を説明っぽく直訳すると、こうなります。「福音を告げ知らせる時、それを聞く人にとって費用のかからないものとして提供する(αδαπανον θησω το ευαγγελιον)、これが自分にとっての報酬である。その結果、福音に関しては自分は衣食住の提供を受ける権利を用いないのである。」
福音を聞く人にとって費用がかからない、無償のものとして福音を宣べ伝えるということなので、聞く人はパウロに衣食住の提供はしなくてもよいということなのです。これは、罪の赦しの救いは人間にとってタダであるという純粋な福音と見事に重なります。パウロにとって、福音が純粋な形で提供されること以上の報酬はないのです。
パウロは、衣食住の提供を受ける他の使徒たちが間違っているとか、彼らの宣べ伝える福音が純粋でないとかは言っていません。あくまで自分が神から受けた召命はそういうものである、福音が純粋な形で人々に提供されることに心を砕かなければならない、他の使徒は他のやり方があろう、という態度です。パウロの視点も大事ですが、教会の成長ということも考えなければなりません。伝道者がみんなパウロのように教会の人たちから何も支援を受けずに全部自腹を切って活動したら、教会の人たちはずっとお客さんのままで教会は育たない危険があると思います。もちろん、純粋な福音が宣べ伝えられて、教会員に福音の喜びが生まれれば、伝道者を支えるのが当たり前という気持ちになります。また、こんなに素晴らしい福音をどうして独り占めしていいのだろうか、、周りの人にも伝えなければ、そういう機運になります。そういう機運にない教会は、それは伝道者が純粋な福音を伝えきれず、福音の喜びを生み出せていないのか、または集まる人たちの耳と心が塞がれていて、純粋でない福音で良しとしていたり、福音以外のところから喜びを求めているかのどちらかです。両方あるかもしれません。いずれにしても、悪いのはどちらだ、という視点ではなくて、今一度福音とは何か、福音がもたらす喜びとは何か、自分はそれを持てているか、伝えているか、伝道者と教会員がお互いに自問する必要があると思います。
パウロが福音を純粋な形、救いは完全に神の業という形で提供しようとして、福音はタダ、それで管理者の自分は誰からも何も受け取らない、という態度を貫きました。ここで、誰からも何も受けないという時、誰とも受ける与えるの関係を持たず、利害関係のない、全く自由な立場を得ます。19節に言われている通りです。ところが、自由だから、自分は何でも好き勝手にやっていくということにならず、「自由な者ですが」と言ったすぐ後で「すべての人の奴隷になりました」と言います。ギリシャ語の動詞は「奴隷」でも「仕える者」でもいいのですが、自分は自由で誰からも拘束を受けないぞ、と言った途端に、自分は全ての人にお仕えする者です、と言うのです。一体どういうことでしょうか?
これは、純粋な福音を人々に伝え、人が福音の喜びを持てるようにする、そのために自分を捧げる、ということです。天の父なるみ神がイエス様を用いて罪の赦しの救いを実現して、それを全ての人に受け取ってほしいと望んでおられる。そこで、福音の管理を委ねられたパウロとしては、神の意思を実行するために自分を捧げなければならなくなったということです。このようにパウロにあっては、福音を純粋な形で提供しようとすることが自分を誰にも束縛されない自由なものにしました。それと同時に、純粋な福音が求めていること、多くの人に受け取ってもらいたいという神の意思があるために、受け取ってもらう活動をすることになりました。自由に責任が伴ったのです。しかも、その受け取ってもらうための活動は、強引な頭から押し付けるようなものではありませんでした。「仕える」と言っていますが、その中身は、宣べ伝える相手のもとに行き、その人の状況や立場をよく理解して、福音の受け取りの障害になっているものを取り除いてあげる、というものでした。宣べ伝える相手にとことん寄り添う姿勢です。その具体例として20節からユダヤ人云々が出て来るのです。それを少し見てみましょう。
20節「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。」「得るため」というのは、ギリシャ語で「勝ち取る」という意味の動詞ですが、福音を受け取って福音の喜びを持てる者にするという意味です。同じ節ですが、ユダヤ人の次に「律法に支配されている人」が来ます。直訳すれば「律法の下に服している人」つまりユダヤ人です。最初の「ユダヤ人」と次の「律法の下に服している人」は同じグループの繰り返しなので、一緒に合わせて見ることにします。
「律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。」人間の救いに関するパウロの立場は、人間が神の前に出されて大丈夫とされるのは、守りきれない律法の掟を守ろうとすることによってではない、イエス様を救い主と信じる信仰によって大丈夫とされるのだ、というものです。それで、律法の下に服していない、と言うのです。ところがユダヤ人は、守りきれない律法の掟を守ろうとして神の前に大丈夫となろうとしている。それで律法の下に服してしまっている。そこでパウロは、ユダヤ人に対しては、神の前で大丈夫とされるのはイエス様を救い主と信じる信仰で十分なのだ、と呼びかけることに専念するのです。
21節「また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。」「律法を持たない人」というのは、ユダヤ人以外の人全部を指します。いわゆる異邦人です。日本人もアメリカ人もヨーロッパ人もアフリカ人もみんなこのカテゴリーです(もちろんユダヤ教に改宗していない人です)。パウロは「律法を持たない人のようになる」と言う時、但し書きとして「私は神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っている」と言っています。これはわかりにくいですが、こういうことです。自分は律法を持っているが、それはユダヤ人が持っている持ち方ではない。イエス様を救い主と信じる信仰によって神の前に出されても大丈夫とされ、神に対してただただ感謝するだけである。感謝の気持ちから神の意思に沿うように生きるのが当たり前という心になった。神の意思は十戒の掟の中にあるが、それは救われるために守らなければならないものではない。イエス様のおかげで既に救われたので、神への感謝の気持ちが神の意思に沿うように生きようと心を持って行くのである。このようにしてパウロは、異邦人に対しては、イエス様を救い主と信じることで律法を持つことが出来るのだ、ただし、律法の持ち方はユダヤ人の場合と逆転するが、と言っているのです。ユダヤ人と違う律法の持ち方を「キリストの律法」と呼んでいるのです(ギリシャ語のεννομος Χριστουは「キリストのおかげで律法が内在化したこと」ということか?)。
22節「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。」「弱い人」というのは、先週の説教で取り上げましたが、異なる宗教の神殿に供えられた肉を食べることや神殿の宴で一緒に食事することを良しとしないキリスト信仰者を指します。コリントの教会にはそれとは反対に、そんなもの食べても痛くもかゆくもないという自信満々な信徒がいて、それに倣えない信徒をパウロは「弱い」と呼び、今後は彼らが躓かないために、自分もそのような肉は食べないことにすると宣言したことは先週見た通りです。彼らには間違いはなく、知識を持った信仰者たちの自信満々な振る舞いで良心が傷つけられるのを見過ごせなかったのです。
以上の具体例の後にパウロはまとめて言います。「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。」相手がどんな立場の人であれ、その人のもとに行き、寄り添い、その人の内にある、福音の受け取りを妨げている要因、つまり神の前に出されて大丈夫になれるのにそれを妨げている要因を把握し、それを取り除いたり、乗り越えて行けるように手助けする、それがパウロの伝道だったのです。私たちもキリスト信仰者として、福音がもたらす喜びの中で、自由、責任、仕えるということをもっと意識していくべきではないかと思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン