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第17回 コリント信徒への手紙 4章14~21節
「神の権威をもって語る」
コリントの教会の人々へパウロは熱い情熱を持って手紙を書いています。4章までのところで、パウロは「自分の伝道の仕方」「伝道者とは何か」ということを語ってきました。そこで福音を語る時、語る者の資格がいつも福音の一部として語らざるをえない、と考えました。これまでパウロは伝道者の惨めさを、辛さをあからさまに語ってきました。今日の14~21節もその連続であると考えられます。しかし前回の8~13節までと比べてみますと、それは全く違ったものになっています、8~13節のところではパウロは伝道者ほどみじめな者はない、ということを書きました。徹底的に伝道者の立場の惨めさを11~13節まで激しい言い方で言っています。「今の今まで私たちは飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せるところもなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、罵られては優しい言葉を返しています。今の今に至るまで私たちは世界の屑、全てのものの滓とされています。」「伝道者がこの世の塵のように、また人間の屑のようにされている。」と言うのです。これ以上に激しい言い方はないでしょう。ところが今日のみことばのところを読みますと14節に事は全く変わってしまいます。14節から見てみましょう。「こんな事を書くのはあなた方に恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」と書いています、ずいぶん違ってきました。そのことに始まってここでは、今までとは全く違う愛と権威を持ち、自信に満ちて教会の者たちを諭すという、牧師の姿が描かれています。これはパウロの考えかたが急に変わったのでしょうか、それとも今までとは違うことを書かねばならなかった理由があったのでしょうか。一つはっきり言える事はこれまでのところは神に用いられる者としての伝道者を描いたということです。
パウロがどんなに偉くても、どんなに愛に満ちていたとしても、もし神に仕えるもの又は神に用いられる者という立場から見るならば彼はやはり一人の名もなき仕え人、福音を宣べ伝えるには相応しくない人間と言う外ありません。人間の中には福音を語るに相応しい資格を持った者はありえないからであります。それなら彼はこの世の塵のように人間の屑のように扱われても仕方がないのであります。しかし伝道者にはもう一つの面があります。それは教会に仕える者、ということであります。
その点から言えば彼はしなければならないことがあるはずであります。そういう人は教会において一定の資格の試験をしてそれに相応しい権威を与えれるのであります。そうでなければ誰がこの任に耐えることができるでありましょう。誰が確信をもって福音を伝えることができましょう。従って一面から見れば愚かな相応しくない僕でありながら、他面から見れば神の権威をもって語ることを許された者ということであります。この矛盾したような二つの面が伝道者にはある、ということをパウロは身をもって示すのであります。そこで今は自信のない捨てられたような伝道者パウロではなくてキリスト教会に対して堂々と福音を語る伝道者パウロが現れているのであります。それは過ぎ去った事を忘れた伝道者ではなくて神のみ旨を委託され喜んで受け、進んでその御業をしようと言うのであります。そういうことから言えば彼はキリストの教会の人々を自分の愛する子であると言い彼らにキリストにある教育係りが一万人あったとしても「キリスト・イエスにあって福音によりあなた方を産んだのは私である」と豪語してはばからないのであります。これは大変な自信であります。自分だけがあなた方を産んだのである、というからであります。それを自慢して言っているのでしょうか、「父が多くあるのではなく、父と言われるべき者は自分だけである」と言うのであります。
私たちを生まれ変わらせるのは神がその御言葉によってなさることであります。しかしそれだからと言って神は決して神に仕える人たちの働きを退けてこれを無になさるのではないのです。大切な事は神で自身がなさることは何か、また神が神に仕える人たちをとおしてなされようとすることは何か、と言うことを見極めねばならないのであります。パウロは自分が信仰の父であると言いながら、それが自分の力である、と思ってはいなかったでしょう。貧しい主の僕でありながら、あなた方の信仰の父である、と言いたかったのであります。パウロは16節で「私にならう者になりなさい」と言っています。信仰生活から言えば「自分のまねをしなさい」等と言う様な口幅ったいことはとても言える事ではない、と思われるかもしれません。しかし、もしそれがパウロのようにキリストによって生きている者であって人間としての自分にならう者になれ、というのでなければ、それは自分を誇ることではなく、自分が主によって生きるように、あなた方もそのようにしなさい、ということであります。パウロはそう言ったのでありましょう。神の言に仕える事は決して易しいことではありません。しかしそれが人間にできない、ということではないはずです。何故なら神はそのために人間をお用いになるからであります。パウロはいつものように愛する弟子をそのために送ると言っています。テモテはまさにパウロにとって「わが子」と言えるほど親しい関係にあった人であります。
この人を遣わす事はほとんど自分が行くということと同じであります。しかしテモテを遣わすのは「キリスト・イエスのおける私の生活の仕方を、私が至るところの教会で教えている通りにあなた方に思い起こさせてくれるであろう」と言っています。ここに大切な事はキリスト・イエスに於ける私の生活と言う事であります。それを彼がどの教会でも教えていたことであります。信仰生活の伝統がある、型があると言うことでもあります。信仰生活は御霊による生活でありますから自由な生活です。そうするとある人々は信仰生活や教会生活の仕方など、というのは邪道であって御霊に導かれるままに生活すればいいんだ、と思うのであります。しかしそうではありません。御霊による生活もその型があるはずであります。多くの信仰者たちがこれまで行ってきた生活,築いてきた生活というものがあるはずであります。それをパウロは教えたいのであります、例えば一人の人が信仰生活に於いて、いつどう祈るか、人それぞれ自由でありますが、しかし朝に夕に食前に祈るということは型にはまったことのようで実際はそうではなく生活を造らなければ祈りの生活はくずれてしまいます、努力がいります。導かれるままに祈ればいいじゃないか、というと立派なようですが、実は自分の気ままに負けてしまって、結局少しも祈らない生活になりかねないのであります、教会生活も同様です。教会には礼拝を中心にした生活の型があります。ですから個人の信仰生活に於いても、教会生活に於いてもしっかりした躾が必要である、ということになります。私たち人間は弱い者であります、罪の支配に負け勝ちである私たちが先人と教会の造った「信仰にある生活の型」というものを大切にして行くべきです。そして、その信仰は信仰によって救われることでことであります。救われる、というのは自分の生活全体が救われる、ということであります。救われるのは福音の言葉によるのであります。その場合には福音が力として働くのであります。力は発揮されるものであります、20節でも書いています。コリントの教会の人々はパウロに甘えて好き勝手なことを言っていた、ということです。パウロが示す本当の力は神に従い、神の僕となっているところから出ているのであります。自分は弱い者であるに過ぎない、しかし神に全く従う者とせられた時に神の力が自分を通してあらわれるのである、と信じていました。 アーメン ハレルヤ