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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日の旧約の日課はイザヤ書からです。イザヤ書は全部で66章ある長い書物です。その中の40章から55章まではひとまとまりになっていて、内容的には紀元前6世紀初めにバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民が解放されて祖国に帰還できると預言していることが主題のように見えます。実際、この預言は歴史上は紀元前538年に実現しました。バビロン帝国を滅ぼしてオリエント世界の新しい覇者となったペルシャ帝国のキュロス王がユダヤ人の祖国帰還を認める勅令を出し、帰還した民はエルサレムの町と神殿の再建を始めます。そもそも天地創造の神に選ばれた筈のイスラエルの民がどうして国滅びて捕囚の憂き目にあったかというと、それは民が神の意思に反する生き方を続け、民に送られた預言者たちの警鐘にも耳を傾けず、国の指導層から民衆までこぞって罪を犯し続けたことが原因でした。そこで天地創造の神は、大帝国バビロンをもってイスラエルの民に対して罰を下す道具とし、民の王国を滅ぼさせたのです。バビロン捕囚は、まさに民に対する神の神罰でした。
その後、神はイスラエルの民が異国の地で辛酸を舐めることで罪の償いを果たしたと見なし解放を約束します。民は反逆の民だったが、もともとは神がご自分の民として諸民族の中から選んだという愛すべき民であった。それで、お前たちを見捨てることはしないという約束は必ず果たすと言われるのです。その時、バビロン捕囚はそれまでの神罰に代わって罪滅ぼし、贖罪の意味を持つようになります。そのような神の約束の預言がイザヤ書40章から出て来ます。その預言は、今度は神がペルシャ帝国をもってバビロン帝国に対して罰を下す道具とし、これを滅ぼさせます。そして先ほども申し上げたキュロス王の勅令が出てイスラエルの民の祖国帰還が実現し、預言は実現します。
このように旧約聖書には、神がイスラエルの民をどう取り扱うかということが軸になって、それに応じて諸国が動く、動かされる、という歴史観が見られます。普通ですと、国が興ったり衰退したりするのを説明する時、そんな軸はなく、その国の政治や経済や人口動態、さらに周辺諸国との関係や自然条件等を調べるでしょう。それが旧約聖書では、天地創造の神がイスラエルの民に何を求め、それに民はどう応じ、それに神はどう報いたかということが、周辺諸国の動静や興亡の要因になるという観点です。そこから、歴史や世界を見る時、創造主の神と自分の関係はどうなっているか、ちゃんとしているか、それとも何か問題があるか、そういう自省が結びついた見方が生まれるのではないと思われます。そういう自省が結びついた歴史や世界の見方を持つと、歴史や世界はどう見えるか?そこでどう生きるかということが明らかになるか?そういうことはまた別の機会に考えてみたく思います。神など持ち出して歴史や世界を見るなどとはいかがわしいことだ、原理主義や宗教紛争のもとになるなどと疑いの目で見られるかもしれません。しかしながら、聖書の立場に立てば人間はどうあがいても創造主の神と並び立つことはできず、歴史や世界を見る時は先ほど申し上げた自省に立っています。こんなに自分をへりくだらせる見方は他にあるでしょうか?
少し話が脇道にそれましたが、本日の旧約の日課はイザヤ書44章21節と22節でした。21節で天地創造の神は「ヤコブよ、イスラエルよ、思い起こせ、私がお前を私の僕に造り上げた」と言っています。これが意味することは、イスラエルの民がバビロン捕囚という贖罪の業を行ったことにより、神は民を新たに造り上げた、かつての反逆の民は新たに神の僕に造り上げられた、ということです。22節で神は「民の罪や背きを雲や霧を吹きはらうように吹き払った、そのように民を贖った、だから神のもとに立ち帰れ」と言います。新たに神の僕に造られた民から罪や背きが吹き払われ、そういう一新されたものとして祖国帰還を果たすことになるという預言です。
ところが、いざ祖国帰還を果たし、廃墟となっていた町と神殿の再建を果たしても、民の状態は罪・背きを吹き払ってもらった状態からは程遠く、見かけは神殿礼拝を守っていますが、現実は神の意思に背く生き方をしていることが明らかになってきます。そうした祖国帰還後の現実と理想のギャップの問題はイザヤ書の最後の部分56~66章に表面化します。そうなると、40~55章までの素晴らしい預言は実は祖国帰還で完結するものではなく、本当の実現はまだだったという理解がされるようになります。罪や背きが完全に吹き払われる日はもっと後に来るということです。イザヤ書53章に有名な「主の僕」についての預言があります。「主の僕」が他人のために犠牲になって他人の罪を代わりに背負って神の罰を受けるという内容です。この「主の僕」は、バビロン捕囚の文脈に即して理解しようとした時、捕囚で苦しみを受ける民全体を指すと考えられました。ところが祖国帰還の後、「主の僕」は人間の罪を身代わりになって背負って苦しむ一個人を意味するようになります。さらにそれがメシア救い主の役割と理解されるようになります。それはイエス様の十字架によって実現しました。
このように、旧約聖書というのは一見すると、現代の私たちから見て過去の歴史の中で既に実現してしまったものを指しているように見えながらも、実は本当の意味での実現はまだ先のことだった、というものも沢山あります。「先のこと」というのは、時代下ってイエス様や使徒たちの時代に実現したこともあれば、さらに現代を生きる私たちに実現することもあるのです。
2.
旧約聖書の預言が現代を生きる私たちにも実現することの一例として、本日の旧約の日課を見ることが出来ます。イザヤ書44章22節が重要です。直訳すると、「私はお前の反抗をかすみのように、お前の罪を雲のように一掃した、私のもとに立ち帰れ、なぜなら私はお前を買い戻したからだ」となります。人間の罪すなわち神の意思に反する行い、考え、言葉、心の有り様、それらを皆、神がかすみや雲のように一掃した、と言うのですが、それは一体どういうことでしょうか?少し考えてみましょう。
空にある雲をいろいろ思い浮かべて下さい。空全体をどんよりと覆っている雲とか激しく巨大に出来上がる積乱雲とか青空に浮かぶ羊の群れのような雲、そうした雲を私たちは一掃できるでしょうか?ここにいる皆さん一緒に今、外に出て、空の雲に向かって一斉にふーっと息を吹きかけても雲は消えません。また、何百機のヘリコプターをチャーターして、雲のそばまで行ってふーっとやっても消えないでしょう。もやや霞も同様です。梅雨の時など山々の懐に留まっているかと思うと這い上がろうとする霞。人間がふーっとやって何の影響があるでしょうか?罪も同じように人間の力では消し去ることはできないのです。罪は人間に深く根付いてしまっているので、人間が罪を消そうとしてもそれは雲に息を吹きかけるようなことなのです。それを、神は一掃する、というのです。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?答えは後ほど見てまいりましょう。
イザヤ書44章22節で、もう一つわかりにくいことがあります。それは「贖う」という言葉です。難しい宗教用語です。一般には「罪の償い」をするという意味で考えられます。それで「罪を償う」と「罪を贖う」が同じような意味で考えられます。そうすると、新共同訳の「お前を贖う」というのは少し奇異な感じがします。そこでは「贖う」ものが「罪」ではなく、「お前」になっているからです。つまり、「お前を償う」からです。ヘブライ語の動詞גאלの基本的な意味は「買い戻す」です。他者の手に渡ってしまったものを買い戻す、とか、奴隷の身分に落ちてしまった人が代価を払って自由な身分を買い戻す、ということです。お前を「買い戻す」です。ここで言う「お前」ですが、罪を持つ者なら誰でも、ということです。もはやバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民に限られない、私たち人間全てです。それでは、天地創造の神は私たちを何者から買い戻すのでしょうか?そもそも私たちは何者に売り渡されてしまって、それで神は買い戻されなければならなかったのでしょうか?
答えは創世記の最初の部分にあります。人間は神に造られた当初は良いものでした。ところが、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘いに引っかかったがために、神に対する不従順が人間に生じ罪がその内に入り込んでしまいました。これからもわかるように、人間が造り主と張り合おうとしたり、造り主のことを忘れることが罪の原点になっています。罪が内に入り込んでしまった人間は、神聖な神のもとにはいられなくなり、神との結びつきを失って死ぬ存在となってしまいました。罪と言うと、何か犯罪を犯すことのように考えられて、赤ちゃんにはとても罪があるとは思えない、とか、罪なんか無縁な善人だっているじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、聖書の立場は、使徒パウロが「罪の報酬は死である」と述べているように(ローマ6章23節)、人間は死ぬということが罪を持っていることの表れである、というものです。行為や言葉や考えで罪を犯す時には土台になる罪があり、それらを犯さなくてもその土台はそれとしてあるのです。人間はこの土台の罪に支配されており、あの時その罪に売り渡されてしまったのです。
そこで神は、人間をこの悲惨な状態から救おう、人間が再び自分との結びつきを持てるようにしてあげよう、その結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、この世を去った後は永遠に自分の許に戻れるようにしてあげよう、そう決意してひとり子イエス様をこの世に送られました。神がイエス様を用いて私たち人間のために成し遂げられたことは以下のことです。人間の持つ罪を全部イエス様に背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運ばせて、そこで罪の罰を全部イエス様に受けさせました。私たちの代わりに罰を受けて下さった方がいるおかげで、私たちの罪が神から赦されるという奇妙な状態が生まれました。私たち自身は何も罪の償いはしていません。そもそも人間は神聖な神の罰を受けることなど耐えられるものではありません。それでイエス様が犠牲となられたのですが、彼は神のひとり子でした。犠牲としてこれ以上のものはないという文字通り神聖な犠牲だったのです。
そこで私たち人間が、イエス様が本当にそうして下さった、それゆえ彼こそ救い主なのだ、と信じて洗礼を受ければ、この神の準備した罪の赦しはその人にそのまま効力を持ち始めます。罪を赦されたのであれば、神との結びつきが回復し、その結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、この世を去った後も永遠に造り主である神の許に戻れるようになります。まさにその人は、罪に売り渡されていた状態から神に買い戻されたのです。その代価は神が支払ってくれました。御子イエス様が十字架で流された血がその代価だったのです。天地創造の神は私たちのことをそれくらい高い犠牲を払うに値すると見て下さっているのです!
神の行った私たちの買い戻しは、イエス様の十字架の死で終わりませんでした。まだ続きがありました。神はイエス様を死から復活させて、死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間のために開いて下さいました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の赦しの恵みを受け取った者は、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。罪はまだ内に残存していて本来ならば永遠の命に至る道などに入れる筋合いはないのだが、罪の赦しがあるおかげで罪はそれを阻止できなくなっている。罪が持っていた、人間を死に追いやる力は消されてしまった。その意味で罪は一掃されているのです。このようにして神から罪を赦された以上は、キリスト信仰者というのは、イエス様の尊い犠牲を無にしないように生きよう、神の意思に沿うように生きようと志向し始めます。
3.
しかしながら、それはいつもうまく行くとは限りません。罪の赦しを得られたとは言っても、まだ残存している土台の罪が隙をとらえては、まだ力を持っているかのように見せかけて来て、私たちが言葉か考えか、場合によっては行いによって神の意思に反することをするよう仕向けます。しかし、キリスト信仰者が罪の赦しを神に祈り求めれば、神はすぐ「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪を犯さないように」と言って下さり、信仰者は再びイエス様の尊い犠牲を無にしないように生きよう、神の意思に沿うように生きようと志向し出します。
キリスト信仰者のこの世の人生というのは、今見てきたような罪の自覚から生じる悔恨と罪の赦しから得られる平安と安心を繰り返しながら進むものだと言うことができると思います。その繰り返しの中にいると、果たして自分は向上しているのかわからなくなり不安になるかもしれません。しかし、罪の赦しの恵みの中に留まっていれば、洗礼の時に生まれた新しい霊的な人は日々育っていき、肉なる古い人は日々衰退しているはずです。そして復活の日に不完全なものが完全にされ、信仰者は完全に新しい人として立ち現われ、悔恨は過ぎ去り、平安と安心だけを手にすることになります。
キリスト信仰者にとって「信仰」とは、言うまでもなく、イエス様を救い主と信じることです。なんでイエス様が私の救い主になるのかと言うと、それは、彼が十字架と復活の業で私を神の許に買い戻して下さって、罪を無力にして一掃して下さったからです。このことがはっきりしていれば、たとえ今の自分は古い人と新しい人が相克し合っているのが現実だとしても、復活の日に自分は100%新しい人として立ち現われると確信できます。今自分の内にある新しい人と将来の復活の日の新しい人は同一の者です。違いは、今の新しい人は古い人と相克し合っている状態にあるが、将来の復活の日には完全に主人になっている、ということです。
こういうふうにキリスト信仰には、希望しているものが現実にあるんだ、今目に見えないものが見えるんだという境地があります。まさに「ヘブライ人への手紙」11章1節で言われている通りです。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちの希望は決して失われないものですから、安心して罪の赦しの恵みの中に留まって生きて参りましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン