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申命記5:12~15、Ⅱコリント4:7~18、マルコ2:23~28
説教 「束縛からの解放―平安な生活―」
序 私たちが日常の生活で、求めている最も大切なものは何か?
最初に聖地イスラエルを訪ねたのはもう50年近くも前のことである。
留学の帰り道、幸運にも訪ねることが出来た。しかしその直前、
日本赤軍派の岡本公三がイスラエルのテルアビブ空港で無差別な乱射事件
を起こした直後のことであった。不安な状況のなかでエルサレムに着いた。
バスターミナルを出て、行く先のホテルの名前を告げると、一人の男性は
親切にも丁寧に教えてくれた。すると別れ際に一緒にいた男の子が私たち
に笑顔で「シャローム」(主の平和)と挨拶してくれた。
その出会いは、まさに私たちに対する祝福であった。
1 今日の福音書は、いわゆる「安息日論争」である。
つまり、「ある安息日(土曜日)に、主イエスの一行が麦畑を通って行くと
弟子たちは、麦の穂を摘み始めた。するとそれを見ていたファリサイ派の
人々が、イエスに『御覧なさい。なぜ彼ら(あなたの弟子たち)は安息日にしてはならないことをするのか?』と言った」のである。
それに対して主イエスは、ダビデの出来事(サムエル上22:2~7)を通して答えられた。
「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」と。続けて言われた、
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
だから、人の子は安息日の主でもある。」と。
<一言でいうと、「律法の束縛からの解放
である!>
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2 ここで私たちは、「安息日」について、今一度学んでみよう!
◎安息日が定められた経緯が旧約の日課(申命記5章から、同時に
出エジプト20章も同様である)に記されている。
安息日は創世記(2章の始め)によれば、「 天地万物は完成された。
第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に神は御自分
の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。これが天地創造の由来である。」と記されている。
まず、「神の安息の日」である。つまり“創造の結末が安息”なので
ある。そしてこの第7日目、安息の日を、主なる神は、祝福し、聖別されたのである。創造の目的が安息である。
安息とは「神の平安」(シャローム)と同義語である。
人間の創造は、神ご自身の本質“シャローム”に与ることである。
ここに創造また、人間存在の究極的な意義と目的があると思う。
ところがファリサイ派の人々や律法学者は、不従順であったために
この安息に与ることができなかった(ヘブライ4章5節以下)参照。
それゆえ、「今日あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなに
してはならない」(ヘブライ4章7節)のである。
3 このような理解から、安息日論争から福音的意味を学んで行きたい。
<今でも旧約聖書(律法)に従って生きるユダヤ教徒は、ここに記されて
いるような教えを守って、安息日を過ごしているよいうである>
つまり「敬虔なユダヤ人は、旅行はもちろん、車に乗らず、料理は作らず、電気器具は使用せず(またはスイッチをさわらず)、お金は使わず、ペンも持たず、この1日を他の週日と区別する。
さて、安息日に禁じられた仕事のことを“メラハー”と言うが、その仕事(メラハー)が何かについて、聖書の中には、具体的にはわずかな例しか挙げられていない。耕すこと、刈り入れ、あるいは火を焚くことである。
これらのことから、推測するにファリサイ派の人々、律法学者たちは、
「弟子たちはこの刈り入れの掟を破った」と理解したに違いない。)
(タルムードは、39種類の仕事を禁止されたものとして挙げている。)
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<私たち「安息日の出来事」から学ぶべきこと>
第一のことは、主なる神が、そして主イエス・キリストがお与えくださるのは「終末的、究極的な安息(平安・シャローム)」である。
何時の時代も、どこの社会も人間の生きている世界は絶えず不安、
混乱また争いで渦巻いている。
私たちの時代も例外ではない。不安と混乱はますます増大している。
預言者イザヤは語っている。(28:12~13)
「主が彼らに言っておかれたことはこうだ。「これこそが安息である。疲れた者に安息を与えよ。これこそ憩いの場だ」と。しかし、彼らは聞こうとはしなかった。
それゆえ、主の言葉は、彼らにとってこうなる。「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ(命令に命令、命令に命令)、カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ(規則に規則、規則に規則)しばらくはここ、
しばらくはあそこ。」彼らは歩むとき、つまずいて倒れ,
打ち砕かれ、罠にかかって、捕らえられる。」と。
この主なる神さまがお与えになろうとした「安息」、これを神の民
イスラエルは理解しなかった、いやむしろ侮った。
確かに祭司や律法学者は叫んだ、「これは主の命令だ、命令だと、
また、主の規則(律法)を守れ、規則(律法)を守れと!」
しかし、空しかった!
神の民はつまずいて倒れ、打ち砕かれ、罠にかかって捕らえられた。
私たちはヘブライ人への手紙から学ぶことが出来るように:
真の安息に与るために「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
心をかたくなにしてはならない」(ヘブライ4:7)のである。
◎私はホスピスで、多くの方々に「神さまの平安がありますように!
とお祈りしている。
神のお与えくださる安息、平安(シャローム)こそ、私たちにとっ
て究極的に必要なものだからである!
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(2)第二のことは、単に週一回の安息日(クリスチャンにとっては毎週の日曜日)のみならず、毎日が、安息の日々であり、罪の奴隷として働くのではなく、罪の赦しが与えられ、平安が与えられて主なる神への礼拝と、隣人に対する奉仕に生きることの大切さを学ぶ のである。
< Mルターは小教理問答書の第3の戒めで語る。 >
「安息日を覚えて、これを聖とせよ」
これはどんな意味ですか?
「私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。それで私たちは、神の
言葉や説教を軽んじないで、むしろこれを聖いものとして、喜んで
聞き、また学ばなければなりません」と。
これは毎週の日曜日のことだけではありません。毎日のことです。
私たちは、様々な不安と恐れのなかで生きているのも事実である。
それゆえに私たちは、各家庭で、家族で、夫婦で、また一人であっても、このような礼拝や祈りの時をもち、安息、平安をいただくのです。
また、大教理問答書においてもルターは
「日々、神の言葉と交わり、絶えずこれを心に宿し、また口に帯びる
必要があります」と記しています。
第三のことは、「人の子は安息日の主でもある」という主ご自身の言葉である。
つまり、第一のこと「私たちにとって究極的に与えられるもの安息、平安」(シャローム)、そして第二のこと「日々に、この安息、平安が
与えられること」、これが主イエス・キリストの福音である。
これが主イエス・キリストによって成就、実現していることが、今ここに教えられているのである
◎この主イエスの福音の教えを受け入れ、これによって生きるきることが、
キリストを信じる信仰生活ということができるであろう。
主にある安息、平安な生活こそ、まさに感謝の生活である。
<疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませて
あげよう!(マタイ11章28節)>