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第19回 コリントの信徒への手紙 2018年7月1日
5章9〜13節「信仰生活の仕方」
今回の聖書では前回に続いて、コリントの教会の中での問題であります。教会の中で、キリスト者は、どういう生活をしていくか、ということです。
普通の教会生活は、みんなが親しく、交わりを持ってお互いが助け合ったり、励まし合ったりします。
何よりも、みんなで、いっしょに神に礼拝する事でしょう。そして、教会は、きよい生活をするところでしょう。しかし、実際の生活は、どうでしょうか。自分たちの教会の事だけでなく、他の教会の様子等も考えてみると、そんなに美しいものでは、ないかも知れません。
教会の中にだって、争いがあったり、困った事をしてくれる人も、あるにちがいありません。
きょう、私たちが読んでいるコリントの教会は大変な教会であります。この教会に問題があった事は、すでに読んできました。5章の始めのところで「あなた方の間にみだらな行いがあり、しかも、それは異邦人の間にも、ない程のみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。」
パウロは、具体的に書いています。教会の中に、そのような不品行と堕落がある、ということ自体、許せない事と、パウロはかなり怒っています。
とことが、9節以下に書いているのは、それどころの話では、ないのです。9節には、「わたしは以前、手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きました。」とあります。
今、読んでいるコリント人への第1の手紙の「前の手紙というと、それがどこにあるか分かりません。そのことは大したことではありません。
大事なことは、ここに不品行な者と交際してはいけない、と注意したはずである、ということであります。
不品行な者が教会の中にいた事は前に見た通りですが、ところが、ここには不品行な者の他に、貪欲な者、略奪する者、偶像礼拝擦する者、等がいたことが書いてあります。
こういう事は、今日の教会では想像もつかないことであります。しかし、ここでは、そういう者たちがいる、そういう人々と交わってはいけない、ということです。
教会以外の不品行な者と交際してはいけない、というのであれば、私たちはこの世から出ていかなければ、ならないことになるだろう、というのであります。
しかし、ここに書いてあるのは、教会の中の話であります。11節を見ますと、そこには、「人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者等」とも交際してはならない、というのであります。
他のことは、ともかく、人をそしる者、酒に酔う者ということになると、今日の教会の中にもいますね。そればかりか、それらを、もう少し広く考えれば、嘘をつく者、お行儀の悪い者、というように、厳密に言えば、話はもっと広がっていくかも知れません。
しかし、ここに書いていることは、できるだけ厳しく話しを進めていく、というのではなく、教会の交わり、というものが、ただ、親しかったら、いいと言うものではない、はっきりしたけじめをつけなければならない、という事ではないかということでしょう。
教会は甘い、やさしい生活をする、ところではなくて、きびしく、神のお喜びになるような生活を励まなければならないのであります。
パウロが、望んでいることから見れば、多くの教会が、今日も、何か、大切なものを忘れているのではないか、といっているのです。
それなら、どんな教会生活をしたらいいのでしょうか。
ここには、このような人とは、交際もしては、いけない、し、一緒に食事もしてはいけない、と書いてあります。そして、 最後には、13章に、「その悪人たちを、あなた方の中から除いてしまいなさい、」とさえ書いています。
誰が読んで も、あたりまえの事で、教会は何より聖い生活を心がけなければならない、ということであります。
普通には教会と言えば、聖なる団体である、と、考えられるに、ちがいありません。
しかし、人をそしる者、というようなことまで記されている、としたら、私たちは、どうしたらいいものか。人の悪口を言う者等も、その中に入る、とすれば「自分は大丈夫だ」と言える人が、どれだけいることか。それでなくても、私たちは、自分が聖い者だから、教会に入れられている、等とは考えていない、はずです。
信仰に入る者は、みな、自分が罪人であることを知っているのであります。それを告白して、救いを信じるようになったのではないでしょうか。そうであれば、私たちはどうして、人を咎めることができるでありましょうか。
人を責めるどころが、自分の方が問題であるのに、と、いうことになります。ただ、そのような罪人であるにも、かかわらず、キリストの救いを受けているからこそ、こうして、教会生活をしているのであります。
私たちはキリストの救いによって許されたのであります。しかし、それだからこそ、一層、聖い生活が望まれるのであります。
人間が、キリストによって、救われたのは、神のお喜びになる、聖い人間となるためであります。
罪を救われた者がまことに、神がお望みになるような、生活をする、ことであります。
教会は道徳的に立派な生活をすることを第1の目的としておりません。
教会は自分たちの罪を知っている者が、ただキリストの救いによって、救われた者たちが、神のために、生きよう、としているのです。
従って、そこには、お互いに対する救しもあるはずであります。他の人の事をだけ、責める事はできるはずではありません。しかも、そういうキリストの救しを、受けた者の集まりでありますからこそ、「きよさ」を求め、「きびしさ」を望むはずであります。それならば、ここに記されているような、コリントの教会の状況は、もう救いを忘れたことでありますから、許す事ができないのであります。
人間だからそれくらいの失敗もあることでいいのではないか、とは、言えないのであります。
人の道に、はずれているから、いけないと言うのでもなくて、救いを受けた者の中、にそういう事は全く許すことができない、ということです。
それなら、私たちの生活には、「教会」という何かはっきりした枠といったものがあるのでしょうか。
信仰生活は世を救うためにある、とよく言われます。教会はキリストの救いを伝道していく働きをしていきます。
もし、信仰ということで、人間生活をよくしよう、という方に重点がおかれていくなら、教会の生活は余り意味がないことになるでしょう。
教会でなくても、この世界が少しでもよくなれば、それでいいのではないかと思う人々は多くいます。教会をつくる事より、世の中を良くしよう、と、政治の面から、或は経済の面から努力していこうと目指す人も多くいます。
ここでパウロが言っている事は、まず、しなければならない事は、教会の中をよくする事であると言っています。
キリストによる救いは、この世界を救うことではあります。そのため、この世で働き、努力することは、信仰者が無関心でいて、いいことではありません。そういう点から考えれば、信仰者にとって、教会生活というのは、まことに、特殊な生活の仕方であります。特に日本のような神道や仏教のような宗教が根強くある中では、なかなか困難な道でありましょう。だからこそ、今の時代にあって私たちの教会の働き、教会の存在こそ、大切なことになりましょう。
神の救いが伝えられていくために、イスラエルという民が選ばれたように、今日、教会の働きは、新しいイスラエルとして、生きていくことを神は望んでおられるのです。
神は私たち信仰者を大切に用いて、いこうと計画されているのであります。 アーメンハレルヤ!