説教『一途な信仰』鷲見達也 牧師

聖霊降臨後第10主日説教『一途な信仰』   2018年7月29日

マルコによる福音書5章21-43節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、皆さまお一人お一人の上に、豊かにありますように    アーメン

 今日の日課の少し前の、4章35節以下に記されている「イエスが荒れる風と湖を静めた」奇跡の後、一行はゲラサ人の地方に着きました。この「突風を静めた」イエスのことばと行動は何を意味していたのでしょうか。そこでは、これによって「この人はだれか」という問いに対する答えとして、「自然を支配するイエス」が示されております。

その箇所に続く5章1節以下に、「悪霊を支配するイエス」が示されております。イエスはそこでも悪霊にとりかれた人を癒し(5:1-20)、再び舟に乗って向こう岸へ移動いたします。

そして今日の私たちの福音の箇所は「死と病とを支配するイエス」を示しております。

今日の聖書日課には2つのお話が記されております。

一つは、娘のいやしを願う会堂長ヤイロの願いを聞いてイエスはヤイロの家に向かうお話です。もう一つは、その途中で、イエスは十二年間出血の止まらない女性の癒しを行う物語です。

このふたつの奇蹟物語には、共通点が多く、そのために一つの話とされております。

二つの異なった伝承を結びつけることによって、両方のもつ共通の大切な意味が浮き彫りになるからです。

それは、①状況の絶望性、②イエスの前にひれ伏すこと、③ヤイロの娘は十二歳、女の病気の期間も十二年という共通性があります。また、どちらの場合も、特に大切なこととして、信仰を持つことの重要性が強調されております。すなわち、イエスは癒された女に向かって「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と語り、娘の死を知らされたヤイロには「恐れることはない。ただ信じなさい」と語っております。

このように「ただイエスを信じる」ということ、また「一途に主イエスに信頼する」ということの大切さが示されております。

 さてイエスはいつものように、ガリラヤの湖のほとりで多くの人々に教えを宣べておられました。そこに会堂長の一人でヤイロという人が来て、イエスの足もとにひれ伏してしきりにお願いいたしました。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と、「必死になって」願いました

会堂長と言いますのは、会堂の管理をする人で、人々の信頼が厚く、尊敬され、社会的にも重んじられておりました。自ら祈ったり、聖書を読んだり、解説をすることはなかったのですが、会堂での、それぞれの役割を決め、礼拝の進行を司どります。

その会堂長が、自らイエスのところに出かけ、イエスの足もとにひれ伏しました。当時イエスはすでにユダヤ共同体にとって危険人物であり、異端的な考えをもつ人物、とされておりました。イエスが、律法学者やファリサイ派の人々、また長老たちから、どのような目で見られていたかを考えますと、会堂長がそのようにすることはよほどのことでした。そのような状況下で、会堂長はあえてイエスに「ひれ伏して」願いました。

 「マルコ 5:23 ・・・「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」」

今、ヤイロにとって、幼い娘のことで心はいっぱいなのです。人目や外聞なども、気にはなったでしょう。が、しかし、ヤイロは自分をイエスの足もとに投げ出して救いを求め、一切の粉飾や勲章を捨てて裸になります。

一刻を争う「死にそう」な娘の病状に対して、会堂長に出来ましたのは、イエスに願い求めることだけでした。父親の娘を思う気持ちが手に取るように浮かびあがります。

 イエスはヤイロの強い願いに心を動かされました。ですから、イエスは会堂長ヤイロと一緒に出かけられました。

ところが、ヤイロの家に向かうその途中で、女の人にイエスはつかまります。ここに出てくる女の人は、「十二年間も出血の止まらない女」でした。「5:26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」と記されております。

本当に気の毒なことです。人には言えず、隠れてひとり苦しんでおりました。しかも十二年もの長い期間です。

この女の人はこれまで医者に診てもらうなど、ありとあらゆる手だてを尽くし、またそのために全財産を使い果たしてしまいました。もう何も残っておりません。

そのうえ、旧約聖書レビ記(15章25 節以下)に「15:25 もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。15:26この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。15:27 また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。」との規定がありました。

ですから、彼女は汚れた者として、人前に出ることは許されませんでした。

そんな彼女が、イエスのことを聞いたのです。彼女が、一切を失った時、見えてくるものがありました。それは「何が本物か」という洞察です。評判を聞いて、彼女はイエス・キリストに到達いたしました。

それは最後の砦、最後の頼みでした。

 27節、28節、女は「マルコ 5:27イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。5:28「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。」とあります。

彼女はイエスの服に触れればいやしてもらえるとの思いで群衆に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れようといたしました。

「イエスさまなら、なおしてくださる。しかし、わたしは汚れた女で、人に近づくことはゆるされない。それは律法が禁じている。そうだ、こっそり群衆にまぎれて、後ろから近づこう。うまくその衣のほんの端っこでもさわれば、きっとイエスさまのことだ、いやしてくださるに違いない」、こういったことを、彼女は毎日のように思い続けたのでしょう。「思い続けた」ことが、大切です。それは具体的な信仰です。しかも、持続的な信仰です。

彼女は「5:27…群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。」のです。

29節「5:29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。」と記されております。

彼女は病苦からいやされたことを身体で感じました。するとただちにイエスもまた、ご自分から力が出てゆくのを感じとり、群衆を振り向いて言われました。

このように記されております。30節「5:30イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。」

ここで重要なことは、「主イエスにとっては、か弱い、病弱のやせ衰えた手で、うしろからやっと届いた女性のひと触れが、群衆の押し合いへしあいする力よりも、はるかに大きく感じられた」ことです。十二年の祈りをこめた、病弱の女の、絶望の底からの小さなひと触れ、この力が、この世の大群衆の力よりも、はるかに大きいことを成し遂げたのです。この小さな祈りが、主イエスから大きな力を引き出しました。

たとい私たちに力はなくとも、たゆまない信仰、それがイエスの力を引き出します。もし、からし種一粒の信仰(マタイ17:20)があるならば、そうなるのです。

31節「5:31そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」

しかし、イエスは、ご自身に触れた者を見つけようと、見回しておられました。女は、自分の身に起こったことを知って、恐れおののき、イエスの前にひれ伏し、本当のことをすっかり申しました。そこでイエスは女に言いました、『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい』。(5:34)

イエス・キリストは、この十二年祈り続けた弱い女の信仰を褒め、その信仰があなた自身を救ったと言われたのです。

いやしは、信仰の結果ではありません。むしろ信仰そのものの中にいやしがあります。わたしたちの信仰とは、ただ『信じたことを本当のこととする』ことにとどまりません。むしろ真理なるイエス・キリストに捕らえられることなのです。それはあのヤコブが、天の使いに「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と創世記(32章27節)で申しましたように、しつこく真剣に、この長血の女は、行動し、信じました。イエス・キリストは、この真剣さのところに立ってくださいます。

長血の女の話は、実はヤイロの娘のところに行く途中の出来事でした。イエスは、この長血の女の出来事もおろそかにせず、一生懸命に当たりました。

さて、ヤイロの娘と長血の女の話の両方がここで示されておりますが、病状の重いヤイロの娘は今この一瞬、一刻一秒が問題になっておりました。

他方、長血の女は、十二年という長い時間をかけた後にイエスに接しました。

もう十二年も苦しみ悩まされている彼女ですから、時間的なものはヤイロの娘のように一刻を争うというものではありません。

しかし、イエスはヤイロの娘の病状の時が切迫しているのにもかかわらず、長血の女のために足を止められ、「わたしの服に触れたのはだれか」と振り返られたのでした。この振り返られて言葉をかけられたということは何を示しているのでしょうか。

イエスは正面きって対応できない、後ろからしか救いを求めることしかできない女に、自らが振り向くことにより一人の大切な者として受け入れられたということです。そして、それは、ヤイロの娘の生死をさまようような一刻の猶予もゆるさない緊迫した中でもなされました。

一刻の猶予もないと思われる娘の病状を案じる会堂長ヤイロにとって、長血の女の振る舞いとイエスのなさりようは、いらいらするものだったでしょう、早く早くとあせる気持ちがあったと思われます。

イエスは会堂長とともに家に向かいますが、しかしヤイロの家に行き着く前に、その途上で、ヤイロは娘の死を告げられ、一縷の望みを打ち砕かれます。

会堂長の家の者が来て、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と告げます。

案の定、途中でぐずぐずしていたために、遅くなって、間に合わなくなったと思われました。とうとう娘は死んでしまったのです。もっと早く来てくれればよかったのにと、誰しも思うでしょう。

死はいつでもこのようなかたちで私たちを捕らえ、有無を言わせません。しかしここで、イエスがヤイロに言われた言葉が重要です。イエスはヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけます。

何を信じれば良いのか、その対象をイエスは述べません。希望がなくなったように見えるその「無」の向こう側に、イエスの力の源泉である父なる神がおられます。

私たちは、どんな時にも望みを捨てないのです。一途にイエスに信頼していくのです。イエスは、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」という人々の言う言葉を無視し、「恐れることはない。ただ信じなさい」と、「ただ信じ」ることを求められます。

ヤイロに「恐れることはない」とまず告げますが、これは、「神がここに臨み、働かれる」という意味合いがあります。この深く嘆き悲しむ場にも神は臨み、働いておられます。ですから次には「ただ信じなさい」と続きます。

 娘の死の知らせを聞いて、確かに父親の悲しみはどれほどか大きく、その思いはどん底に落ちこんだことでしょう。

ところが、主にとって遅すぎるものは、何一つありません。遅すぎるということは、人間の時間で考えているからです、神の時間があります。イエス・キリストが来ても駄目だ、という現実、そのような事態の中で、主イエスは答えました、「恐れることはない。ただ信じなさい。」と。

信仰は、信じえないほどのところで、力を発揮します。どうにもならない現実のところに、主は立っておられます。よみがえりの信仰、それは、死と虚無の墓を空にして、いのちの主が立ちたもうことを信ずるということです。

 一行が会堂長の家に着いてみると、「人々が大声で泣きわめいて騒いで」いました。弔いのための泣き女や笛を吹く者の様子のようでもあるのですが、イエスは家の中に入り、徒に泣き騒ぐのをやめさせ、人々に言われます。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」とそのように申しました。

生きる希望を与える神を「無」の向こう側に見るイエスが来るとき、「死」はもはやその力を失って「眠り」となります。なぜなら、イエスは死者を「起こす」、すなわち「復活させる」権能を持つからです。イエスにとって死は眠りであり、イエスはその眠りから私たちを目覚めさせてくださいます。

 40節「5:40人々はイエスをあざ笑った」とあります。人々の嘲笑は、そのイエスを認めずに目の前の現象に捕らわれていることから生じます。

イエスを信じない者にとって、イエスの言葉は「たわごと」としてしか聞かれません。人々は嘆いておりますが、イエスを通して現れようとする神の力に気づかなければ、それは「騒ぎ」でしかないのです。しかしイエスを信じる者にとって、イエスの言葉は力であり、喜びです。

イエスは皆を外に出し、子供の両親とペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれ、そして子供の手を取って、「タリタ、クム」(少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい)と言われます。イエスの癒しは、魔術的な動作によってではなく、「少女よ、起きなさい」と語りかける愛によって引き起こされます。これは当時の日常語アラム語ですが、イエスの言葉のインパクトがよく伝わってまいります。

 その声を聞いてすぐに起き上がった少女を見て、人々は我を忘れるほど驚きますが、イエスは彼らにこのことを「だれにも知らせないように」厳しく命じます。

奇跡の目に見える結果だけが吹聴され、もてはやされれば、興味本意の出来事にすぎなくなります。

問題は「メシアの秘密」ということです。イエスが続けて起こした、重なった三つのできごと、①4章35節から41節に示された、波風を鎮めて「自然を支配するイエス」、②5章1節から20節に示された「悪霊を支配するイエス」、そして今日の③「死と病とを支配するイエス」によって示されておりますのは、「この人はだれか」という問いに対する答えです。その答えとは「この方はメシア」である、ということです。これはあらわにされると同時に、まだ隠されている神の真理、神の真実です。ペトロたちは、この答え、今はまだ、この秘密を垣間見たにすぎません。もっと明らかに、もっとその核心に近付いた形で見えてくる時まで、この秘密は、「だれにも知らせないように」と、この秘儀の保持が命じられます。

 奇跡は神の愛の力を現わす出来事です。イエスの厳しい沈黙命令は、見える現象の奥深くに息づく神の愛に目を向けるようにという呼びかけです。

さて、今日の福音は、ヤイロの娘の話で始まりました。途中で、長血の女の出来事があり、イエスは少しの間、ヤイロの娘の病から目が離れます。しかし、イエスは、娘へのヤイロの深い愛を知り、またヤイロの厚い信仰をご覧になって、その願いを聞かれました。

 イエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい」「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われます。これは私たちの信仰の立派さや完成度を褒めているのではなく、取るに足らない者の、信仰と呼ぶにはほど遠いものを引き上げ、お聞き上げくださるということです。

ヤイロの娘はイエスの言葉によって、死の眠りから生き返り、起き上がって歩きだしました。これは「恐れずに、ただ信じる」こと、「救われると信じて自分を投げ出す」ことです。それが私たちの思いを超えた、素晴らしい主イエスの恵みと神の愛を捕らえることができます。

私たちの人生というものも、この物語と同じではないでしょうか。

 わたしたちは、会堂長ヤイロがイエスの前にひれ伏してお願いしたことを今日の福音として聞きました。つまりその地方で、指導的な地位にいる人が、人前もはばからず、自分を投げ出して、地に伏しました。ここには徹底的に自分を無にする信仰が見られます。

あの長血の女のところで、私たちは熱心に願い、迫る信仰を見ました。ここに今、自分を無にする信仰を見るのです。

「熱意」と「無」とは、正反対のように見えます。しかし、信仰には、この正反対のことが必要です。私たちはとかく、「熱心」になると、自分が出て来ます、また自分が「無になる」と、あまり熱心でなくなります。しかし、本当の信仰は、この二つを一つにします。この一切無になった祈りのゆえに、イエス・キリストは今、十二歳の少女のために、わざわざ自分から出向かれます。いわば小学校六年生の子のために、イエス・キリストは全力をつくされました。また、長年わずらっていた女を癒したのです。

神とは、このように、一人の泣き悲しむ者のために、全力を注がれるお方にほかなりません。わたしたちは、神をただ高いところに求めてはなりません。一人の子供が泣き叫ぶところ、自分を無にして願い求めるところ、そこが、神の場所です。

「マタイ18:10「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」と言われた主は、自ら同じように、小さな者を大切にしてくださいます。

私たちは、「ただイエスを信じること」「一途に主イエスに信頼する」所に立ち、メシア、救い主である、主イエスを一途に信じるところから主の慈しみをいただきます。主への一途の信仰のゆえに私たちは全てを主イエスに委ね、そこからもたらされる主にある平安の内に今週も過ごしたいものです。

 
どうか、恵みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを恵みにあふれさせてくださるように。
アーメン

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