説教:田中良浩 牧師

 

2018年8月19日(聖霊降臨後第13主日)礼拝

担当 田中 良浩

 

聖書日課 エレミヤ2316、エフェソ21122、マルコ63044

説教題 「五つのパンと二匹の魚]

 

 

序 今日の主日の「説教題」についても、あれこれ考えた。

  けれども以下の三つの理由で私はこの奇跡の物語をそのまま説教題にした。

  一つは、パンとは主イエスが祝福され与えられた“命のパン”であること。

  二つは、魚(ギリシャ語:イクツゥス)が「イエス・キリスト、神の子、

  われらの救い主

という“信仰告白”の意味に、古来使われてきたこと。

  三つには、現在奉仕しているホスピスの“食堂の名前”であること。

 

私は毎週火曜日と木曜日に、杉並区和田にある救世軍の運営するブース記念病院でのホスピスのチャプレンとして働いている。時々、スタッフや

  患者さんから、直接、間接に「いくつ(何才)ですか?」と尋ねられる。

  先日もある看護師から尋ねられ、「お元気ですね。何か特別なものを召しあがっていますか?」と尋ねられたので、私は真面目な顔で「パンと魚を食べているからです。」と答えた。看護師はキョトンとした表情をしていた。

後日、その看護師に食堂で会った。ニコニコしていたので、私は「この食堂の名前知っていますか?」と尋ねたら、彼女は「勿論ですよ。五つのパンと二匹の魚」と答えて、大きな声で笑った。彼女は私が言わんとしたことを

理解しただろうか?やがて理解してくれることを期待している。

 

  私は勤務の日は、その「五つのパンと二匹の魚」という食堂でスタッフと

一緒に食事をしている。この食堂では、病院のホスピス病棟に入院している患者さんの日々の食事にも責任をもっている。

ご存知のようにターミナルな(人生の最後の時を過ごす)患者さんの多くは、

殆ど私たちが食べる普通食を摂ることができない。そこで食堂の責任をもつ

管理栄養士が一人一人を訪ねて、どのような食事ができるか、食べたいかを

相談する。最後の時の食事は、一人一人にとってかけがえのないものである。

考えてみれば、日常を生きる私たちにとっても同様である。

まさに、『医食同源』は、私たちの命と生活に大切な言葉である。

 

  ある日外国の方が食堂に入って来て、暫く入り口の所であちらこちらを 

 見回している。初めてこの食堂に来て不案内な様子なので、私は近寄って

挨拶をすると、非常に喜んで「私はアメリカ人です。日本人と結婚したが

日本語は殆ど話せない。今朝主人がここに来ると、話が出来て、食事もでき

る、と言ったので来ました」と。私は一瞬そのご主人の意向を図りかねたが、

あまり深く詮索しないで、率直にお迎えすることにした。

 私はその方と一緒に食事をした。とても喜んで、帰って行った。こうして、彼女は二度、三度この食堂に来た。彼女はアメリカでも教会の会員であった。

結果的に私は彼女にすぐそばの教会を紹介した。今でも教会の礼拝に連なっていることは感謝である。

 ここで私は『信食同源』という表現を提案したい。(愛餐はまさにそれ!)

 

 

1 今日の福音書の主題は有名な「五つのパンと二匹の魚」の物語である。

 結論をいえば、「主イエス・キリストは、私たちの命の主」である。

 これを現代風に言い換えれば、「主イエス・キリストは私たちのQOL(生命・

生活の本質)の中心である」と言えるであろう。

 具体的には「5000人もの人に食べ物を与えた」という奇跡物語である。

 ◎この奇跡の出来事にも、導入の物語がある。(福音書の冒頭の部分)

  「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。

 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。

 

 

つまり、宣教に遣わされた使徒たち(弟子たち)が主イエス・キリストの

もとに帰ってきて、それぞれの宣教について報告したのである。

  けれどもここには宣教の成否、つまり良い結果があたえられたか、あるい

  は思わしくなかったか、成功したか、挫折したかは語られていない。

   では主イエス・キリストは宣教がどのようなものであったか?無関心な

  のであろうか?決してそうではない。宣教の主はイエス・キリストである。

主イエスにとって宣教は最大の関心事である。主イエスは宣教のすべてを受け入れて下さる。疲れて帰って来た弟子たちに、「人里離れた所へ行って休むように、お命じになったのである。そして一同は、“自分たちだけで”(主イエスと弟子たち)人里離れた所へ行ったのである。

教会で用いられてきたリトリート(Retreat)の出発点はここにある。リトリートとは、「後退、退却、また避難」という意味である。同時に、教会では「修養会、研修会、黙想会」として用いられている。

 

 

2 このような状況にあるにも拘わらず、群衆は、主イエスを追いかけてきた。

  「主イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(マルコ6:34)

  この表現の源は、荒れ野でのモーセの祈りである。(民数記27:17) 

  「彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。」

  

   しかし、モーセの祈りにも拘わらずイスラエルの状況は、次第に悪化していった。預言者ゼカリヤは言う。(102

   「テラフィムは空虚なことを語り、占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。その慰めは空しい。それゆえ、人々は羊のようにさまよい羊飼いがいないので苦しむ。」と。

   <テラフィムとは、イスラエルで用いられた「神の像」、占い師とは

   「神のみ心を伺う者」である。背景には、祭司、指導者たちが、真正な神の言葉を語ることがないからである!>

   結果的に、神の民は彷徨い歩き、真の羊飼いはいないのである!

   聖書にはこの表現が、しばしば語られている!

(エゼキエル348、ゼカリヤ102、マタイ936

 

 3 それ故に、主イエスは人々を深く憐れみ、教え始められたのである。

  そして記されている、「そのうち、時もだいぶたったので・・・」と

  弟子たちは、「食事のために群衆を解散させてください」と主に願った。

  しかしながら、主イエスは弟子たちに「あなたがたが食事を与えなさい」

と言われた。

 

  弟子たちは答えた、「わたしたちが百デナリオンものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか?」とお聞きした。

  弟子たちのこの言葉には、どのような意味、思いが込められているのか?

  <こんなに大勢の群衆!そんなお金もパンもない!>

  ◎弟子たちは、途方に暮れてしまった!これが現実である!

               3

4 主イエスの聖なる御業

  そこで主イエスは「パンはいくつあるか、見て来なさい」と言われた。

  弟子たちは、「パンが五つあります。それに魚が二匹です」と答えた。

  (ヨハネによれば(69)、パンと魚を持っていたのは少年である!)

 このようにして聖なる出来事が起こった。け

 第一は(マルコ6:39~40):「主は群衆を整えられた

 

 「そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。

 

 

 ◎群衆は、まとまりのない、三々、五々集まって来た人間の集団である。

  主イエスは、このような群衆を、弟子たちに命じて、基本的に“組に分

  て”、50人、100人のグループに分けて座るようにされたのである。

  これは無制約、無秩序に集まっている群衆を、この地上にあって一つの「群衆の整えられた姿」を求められたのであろう。

つまり主イエスの近くに集まってきた人々で、主イエスによって

整えられた人々の姿=それは祝福を受ける教会の原型であろう。

 

  第二は(マルコ6:41):「主は讃美の祈りによって、パンを祝福して

配らせた。魚も同様にして与えた

 

  「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。

 

    ◎主はここで讃美の祈り、祝福の祈りをささげた。

これは主イエスの宣教(ミニストリー)の中で行われたものであり、  十字架を前にして行われた最後の晩餐の時に設定された、聖餐の出来事の予表になっている。

ちなみに、ヨハネ福音書6:33~35によれば、「神のパンは、天か

ら降って来て、世に命を与えるのである。・・・イエスは言われた、

『わたしが命のパンである』と。」

主イエス・キリストの「十字架における自己投与」の予告である。

 

   第三は(マルコ6:42~44)「五千人の人々は満足した」

   「すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。

 

 

  ◎この主イエス・キリストの聖なる御業に与ったすべての人々は、満足し、

   大きな恵みと祝福に与ったのである。大いなる喜びであり、感謝である!

  

「12の籠」とは、イスラエルの12部族を意味するものであろう。

  けれども12部族留まらないであろう。5000人の群衆の中には、

地中海沿岸諸国、異邦の国からも大勢の人たちが集まって来ていたからである。つまり、恵みと祝福は全世界に及ぶのである。

 

 

5 エレミヤが語った預言(エレミヤ23:3~4)の成就

  「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、

もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。」と。

エレミヤは厳しい裁きの言葉を語った。しかし彼は同時に、神の恵みによって、神の民の回復、新しい救い主到来の預言(31:31)を語った。

  この預言は、主イエス・キリストの十字架と復活において成就、実現した。

 

6 フィンランドにおける祝福された交わりの経験

  オウルという北の街でセンニ・ラウマさんという老婦人の出迎えを受けた。

  教会の修養会に出かけるために、私たちをホームステイさせてくださった。

  小さなアパート。センニさんは私たちを“日本からの天使”と言って

  温かく迎えてくださった。センニさんは台所に寝て、私たちはセンニさんのベッドで寝たのである。結果的には彼女も二泊三日の修養会に参加して、

  祝福された交わりを与えられた。=ここでも『信食同源』を体験した。

  毎年のクリスマスカードは「シユウナウスタ!」の一語で十分であった。

 

 最後に今日の詩編は、有名な23編である。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い

魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。 死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。・・・」 昔も、今も、後も!

  主イエス・キリストは、世界の大牧者として私たちを日々導いてくださる!

新規の投稿