「いずみの会」合同修養会早朝礼拝説教「永遠の命の約束」吉村博明 宣教師 2018年10月8日(国民宿舎「サンレイク草木」中庭にて)

 説教題「永遠の命の約束」

 聖書の箇所 第一ペトロ1章22-25節

「あなたがたは、真理を受け入れて、
 魂を清め、偽りのない兄弟愛を
 抱くようになったのですから、
 清い心で深く愛し合いなさい。

 あなたがたは、朽ちる種からではなく、
 朽ちない種から、すなわち、
 神の変わることのない生きた言葉によって
 新たに生まれたのです。

 こう言われているからです。
 「人はみな、草のようで、
 その華やかさはすべて、
 草の花のようだ。

 草は枯れ、花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に
 変わることがない。」

 これこそ、あなたがたに福音として
 告げ知らされた言葉なのです。」
(新共同訳)

私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.この聖句は、日本人をおやっと思わせてちょっと立ち止まらせる、そんな聖句ではないでしょうか?「人はみな、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ、草は枯れ、花は散る」などとは、中学の国語の授業で暗記させられた平家物語の冒頭部分「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」を彷彿させ、皆さん共感を覚えるのではないでしょうか?特に日本の場合は桜の花がこの、美しいもの華やかなものはいつまでも続かないという思いを強めるのに一役買っていると思われます。加えて、散りゆく桜を見て美しさ華やかさは儚いものだと思っているうちに、いつしか逆に儚いもの散ること自体が美しいのだと言い換えられて強調されるようになる、そういうことが戦争中の日本にはあったのではないでしょうか?(最初の特攻隊の部隊の名前に本居宣長の「山桜」短歌の言葉が使われたり、ある特攻兵器は「桜花」と名付けられたり、軍歌の「同期の桜」などに表れていると思います。)

そういう日本人が共感を覚えるようなことを言った後で、この聖句は突然、共感者の夢を覚ますようなことを言います。「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」ギリシャ語の原文を直訳すると、「主の言葉は永遠にとどまる、残る」(μενει εις τον αιωνα)です。つまり、草や花そして人間のように枯れたり散ったりせず、ずっとずっと永遠に残る、です。この聖句はイザヤ書40章8節の引用でもあります。ヘブライ語の原文を直訳すると、「永遠に続く」とか「永遠に効力を持つ」(יקומ לעולמ)です。人間が持てる華やかさも、またそれを持つ人間自身も永遠には続かない、草や花のように枯れたり散ったりして終わってしまう。もっともななことです。ところが、この聖句は、私たちの目と心をそこに止めっぱなしではいけない、と言わんばかりに、「しかし」(δε)と言って、神の言葉は永遠に続く、永遠に残る、永遠に効力を持つ、と言います。そこに目と心を向けよ、と言うのです。この聖句は限りある人間に、特に限りあることに思い入れが強い私たち日本人に何を呼び掛けているのでしょうか?

 

2.まず、「神の言葉は永遠に続く」とはどんなことか考えてみましょう。私がこの世から死んだ後も聖書は読み続けられるでしょう。その意味で、聖書が世代を超えてずっと読み継がれていくということでしょうか?そうではありません。聖書の立場では、この世というものは天地創造の神に造られて始まった、そしてそれには終わりがある、その時新しい天と地が創造されて今のものに取って代わるということがあります。森羅万象の有り様がかわるので、聖書を繙くという今の世の人間の営みはもうありません。なぜなら、聖書の立場では、今の世が新しい世に取って代わる時、死者の復活が起きて、神の御許に招かれる者は栄光の復活の体を着せられて永遠に神の御許に戻るということがあるからです。その時、神が聖書の御言葉を通して約束していたことは、もう繙いて読むことではなくなって、実現したものになって見たり味わったりすることになるのです。

そういうわけで、神の言葉が永遠に続くというのは、それが神の揺るがない約束としてあって、今の世を貫いて新しい世にて実現する日を待っている、まさに天地創造の神が約束したものなのでそれは神の側で忘れられずに実現する日までちゃんとある、ということです。

このように神の言葉はというのは全て、今の世に代わる新しい世の創造、死者の復活、永遠の命についての神の約束です。それだけではありません。第一ペトロの聖句に引用されているのはイザヤ書40章6節から8節までですが、7節をみると、「草は枯れ、花は散る」と言った後で、「なぜなら、神の息吹が吹き付けたからだ」と言っています(「神の息吹」は「神の霊」、「神の風」(רוח יהוה)とも訳すことが可能です)。この部分はペトロの引用では省かれていますが、イザヤ書では、枯れること散ることが神から罰を受けたためであると言われているのです。罪の汚れを内に持つ人間は誰もそのままでは神聖な神の前に立たされたら焼き尽くされてしまう存在でしかありません。

しかし神は、人間が罪から離れて最後は自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、自分のもとにいて完全に安全、安心でいられるようにしてあげよう、まさにそのためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そしてイエス様を十字架の上で人間に代わって罪の償いをさせて死なせ、彼の犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。さらにイエス様を死から復活させることで永遠の命の扉を人間のために開いたのです。人間はこの「福音」を聞いて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むことになったのです。順境の時も逆境の時も変わらずに神に守られて励まされて慰められて時には叱咤されて、歩むことになったのです。

第一ペトロの聖句は、永遠に続く神の言葉のことを「福音として告げ知らされた言葉」であると言います。イザヤ書の時代ではイエス様の十字架と復活の出来事はまだ預言されただけでした。預言されたことが実際に起こったおかげで、神は私たちに永遠の命の約束も必ず果たして下さるのだとわかるようになりました。こうしてイエス様の十字架と復活の「福音」と永遠に続く神の言葉は切っても切れない関係になりました。イエス様の福音を宣べ伝えることは、神の永遠の命の約束は本当なのだと宣べ伝えることになるのです。

 

3.さて、この世には枯れない散らない、永遠に続く神の言葉というものがあることがはっきりしました。それは、イエス様の十字架と復活の「福音」に裏打ちされた、神の永遠の命の約束です。この約束が果たされると信じて生きることは、永遠に続くものがあると信じることになります。それだけではありません。第一ペトロの聖句では、「人間」は草のように枯れると言っていますが、ギリシャ語では草のように枯れるのは「肉」(σαρξ、בשר)です。そして、神の言葉を受け入れて聞き従う者は「新しく生まれた者」と言います。つまり、人間の有り様が肉だけではなくなって、霊が加わるのです。それで、永遠に続くものがあると信じるだけでなく、永遠そのものに与ることになるのです。枯れたり散ったりするものばかりのこの世にあって、朽ち果てないものに属して生きることになるのです。

 それでは、永遠に続くものを信じ、永遠そのものに与って生きることは、日本人らしくないでしょうか?また、咲いている時間が短いゆえに美しさが一層際立って見える桜の花を美しいとは感じなくなってしまうでしょうか?

そういうことにはならないと思います。というのは、キリスト信仰者は、桜の花が短く咲いて散ってしまうことにも、永遠を司る神の御心が表れているとわかるからです。花の後は葉桜になって、花ほど美しくないかもしれないが、その新緑はゴールデンウィークの頃までは陽光の中でキラキラ輝きます。その後は緑濃くなって夏を越し、秋には散って、木枯らしの冬を越して、また3月終わりに芽が出てきて見る見るうちに開花します。花が散るというのは、一つの素晴らしい段階が終わって次の素晴らしい段階の始まりです。ひっそりと佇む段階もあるが、その後にまた素晴らしい段階が来る。創造主の神は桜にそのような習性を与えたのです。このように季節に応じた桜の有り様に神の御心を知ることができます。もちろん、樹齢長い桜と言えども、神が与えた寿命を満たせば枯れてしまいます。それでも寿命と季節の有り様を与えた神の御心はそのままで変わりません。

永遠に続くものを信じ、それに与って生きることが日本人らしくないとすれば、何が日本人らしいでしょうか?その日本人らしさの中では、希望や喜びは何でしょうか?

キリスト信仰者の希望や喜びは、永遠に続く神の言葉を信じ、永遠の命に与ることにあります。神は、人間が御心に沿って罪から離れて生きるようにと、御言葉を与えました。さらに御言葉を正確にわかってそれに基づいてこの世を生きて、永遠の命への道を歩めるようにと、イエス様を送られました。そういうふうに言うと、キリスト信仰者は永遠の命ばかり考えてこの世で生きることはどうでもよくなってしまうのか、と思われてしまうかもしれません。いいえ、そんなことはありません。第一ペトロの聖句は永遠に続く神の言葉について述べていますが、同時に愛し合いなさいと勧めていることにも注目しましょう。イエス様の福音に裏打ちされた神の言葉を受け入れ聞き従う者は、神から頂いた恵みの大きさにただただ恐れ入りひれ伏してしまうので、もう些細な事、利己的な思いや下心、他者との比較などは馬鹿馬鹿しくなって、そういうものから心が洗われてしまいます。その清められた状態にふさわしい生き方は愛に生きることだと、ペトロはまだ気づいていない信仰者に思い起こさせているのです。

ところで神の御心は、神の創造の中にある自然の営みにも表れています。その中には、人間にとって冷酷な自然もあります。それに挑むと命を落としてしまうような自然です。瞬間風速60メートルの暴風の中を、神が守ってくれるから大丈夫だ、などと言って車で出かけるのは、神を試すことになります。他方で、人間に喜びと感動を与える美しいものもあります。昨晩、皆さんと一緒に星野富弘さんの半生記を扱ったビデオを見ましたが、その中で彼が、体が自由な若い頃はよく山に登り花なんかあまり目を留めなかったが、体が不自由になって花が身近な自然になって以来、花には「手の込んだ美しさがある」とわかるようになったと言っていました。まさにこのことです。この世で永遠の命への道を歩む私たちは、神の御心が働いている美しいものをもっと見つけようではありませんか。何が神の御心が働く美しいものかは、御言葉に基づいて生きていけばわかるはずです。御心が働いているとわかれば、美しいものから慰めと力づけを得られます。神はそのために美しいものを備えて下さったのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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