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第24回 コリント信徒への手紙 7章1~7節 2018年11月4日(日)
今回から7章に入ります。読んでお分かりのように、これまでのパウロの内容や語調とは、がら
りと変わっています。表題には「結婚について」とあります。
聖書の中に、このような生活の指導のようなことまで、パウロは、なぜ書いているのでしょう。
聖書は、生活指導のための本ではありません。
聖書は、救いの本である、ということです。
ですから、重点は、救いを完うするために、というところに書かれているものです。そのことを目
ざすとなれば、人間の生活の仕方にもふれないわけにはいかないでしょう。
大事なことは、あくまでも、「救いと信仰生活」が基本になっている、ということを知っていなければならないでしょう。
パウロは、たぐいまれな伝道者でありますから、彼独特の考えで書きつらぬいています。
さて、7章1節を見ますと、「そちらから書いてよこした事について言えば」とあります。
どうも、この手紙を書く前に、パウロの手元に質問状のようなものが、きていたようであります。
それがどんなものであったか、くわしくは分かりませんが、どうやら内容については、パウロの
この返事から分かります。しかも、その内容は、6章までにふれてきた、コリント教会内の不品行の問題であったことがわかります。
パウロはこの問題について悩みました。
ということは、これは決して、小さな問題では、なかったからでしょう。
そこで、パウロは、まず始めに、その答えを表しています。男子は、婦人にふれないがよい、と言って、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい、と言っているのです。
パウロが言いたいことは、これで明らかなように、結婚生活とはどういうものか、という事を語っているのではありません。不品行な生活をしないためには、どうしたらいいか、ということであります。
なぜなら、創世記にありますように、神は、男が一人いることはよくない、と言って、女をつくろう、そうして女をつくった。こうして、男と女との生活は神がお創りになった。そこには子供もできるでありましょう。男と女とが共同生活をするために与えられた喜び、又、悲しみがあるはずであります。
パウロはここでは、不品行な生活をしないためにどうしたらいいか、ということを言っているのです。
不品行ということで様々な争い、にくしみ、悪行があったことでしょう。
しかし、パウロがいつも考えていることは、人間の、神に対する責任、ということでありました。
この生活が、神を喜ばせることであるのか、神の栄光を傷つけることになるのか、ということでありました。
パウロ自身は、7節に見られるように独身であったらしいから、何のためらいもなく、男は女にふれないがよい、と言ったのでしょう。しかし、彼自身も、それが答えになっていないことを知っていましたので、それに続いて夫婦生活のことについて書くわけであります。
しかし、ここに書いてある夫婦の生活は、普通に言われる事とは大分ちがうのであります。
パウロは、不品行の問題から出発しました。従って、夫と妻とが互いにその分を果たすことについて、語らざるを得ませんでした。不品行の問題はそれだけではないかも知れませんが、このことが基本であることは誰にでも明らかなことであります。
パウロはまず、それを言うのであります。
夫婦であるということは、各々がその分を果たすことである、といったような分かり切った事を言わねばならなかったのでありましょう。
しかし、それと同時にパウロは、それが必ずしも分かり切ったことではないと考えたのでしょう。そこに、こういう問題が起こると思ったのでありましょう。
それはパウロに言わせれば、ただの常識の話ではありませんでした。
問題は、男と女とが、自分の体をどう扱うかということにある、と言うのです。
ここまで来ると、話は常識ではすまない。
自分の体と言うが、それはほんとうに自分の体なのか、ということになります。第一に、夫婦の約束をしたものにとって、自分の体というものは何か、まことに自分ひとりのからだである、と言うことができるのか、ということになります。自分の体は自分のものであって、自分のものではないことの約束ではなかったか、とパウロは言うのです。
それが明らかなら不品行は起こり得ない、とパウロは言いたかったのではないかと思います。
不品行の問題には、当然、神がはいってくるはずであります。神がはいってきて、初めて不品行と言えるのではないでしょうか。神をぬきにした生活には、不品行ということさえないのかも知れません。
パウロは、男と女とが、自分のからだを自由にすることはできないはずである、と言っています。
それなら誰が自由にするのでしょう。相手でありましょうか。そうかも知れません。しかし、本当は神であるはずであるにちがいありません。従って、パウロはここに夫婦生活の一つの取り決めをいたしました。
5節にそのことを書いています。「互いに相手を拒んではいけません。ただ納得し合ったうえで、専ら祈りに時をすごすためにしばらく別れまた一緒になるというなら、話は別です。」
新約聖書は約二千年昔に書かれたものです。だから、昔の考えがはいってくることは止むをえません。例えばここで「祈りのためならしばらく別れても、」とあります。当時のユダヤ教の習慣ではなかったかと思われます。しかし、ここで大切なことは、祈りの生活を重んじなさい、ということであります。夫婦生活は、自由に行われて差支えないことでありましょう。しかし、夫婦生活の中で、祈りの生活が大切である、ということです。
もっと正しく言うなら、夫婦生活の中に限らず人間生活の中において、祈りを重んじなさいということでありましょう。
5節後半で、パウロはきびしいことを露骨に告げています。「あなた方が、自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。」
パウロは人間の弱さを知っておりました。男と女の関係、夫婦の生活においても、ねじれたり、わがままだったり、色々な欲に流されたりします。パウロはそれらの中で家庭が祈りを重んじていくように、どんなに願ったことでありましょう。
7節で、今日のみことばをまとめているように思います。
わたしとしては、皆がわたしのように独りでいて欲しい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのです、という。パウロは独身であったらしい。ペテロは妻があったらしい。同じ使徒として神様から伝道の使命を受けていても、パウロとペテロは神から異なった賜物を与えられたのであります。
パウロは、皆がわたしのようになって欲しいと言うのが本音であったでしょうが、しかし、誰でもがパウロのような賜物を与えられてはいない。あくまで、その人、その人に、神御自身が、その人にとって最も良い賜物を与えて下さるのですから、感謝してそれをしっかりと受けとめ、活かして、神様のよろこばれる栄光を発揮していくべきでしょう。
これが今日のメッセージであります。アーメン・ハレルヤ