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コリント第1 7章8~16節
題「平和な生活を送るように」
いよいよ新しい年が始まりました。
昨年に続いて、コリントの信徒への手紙第1のみことばに聞いて参ります。
先程、7章8節から16節まで読んでいただきました。
そこでお分かりのように、パウロはコリントの教会の中で、結婚に関した質問に答えて、7章から書いています。まず1~8節のところで言っているのは、一言で言いますと、「神は人それぞれに賜物をお与えになっているので、その人その人の人生を、結婚するもよし、独身ですごすも良し、神に対して従順な生き方をしていきなさい。」と言っているんです。
もう少しふみこんで2節~3節ではこう言っています。男はみだらな行いを避けるため、めいめい自分の妻を持つがよい。又、女はめいめい自分の夫を持つがよい。そしてお互いにその務めを果たしなさい。実にいい事を言っていますね。
パウロ自身は独身で、福音の伝道に邁進したのです。カトリック教会の教職となる人は、パウロのように独身の誓いを立てています。司祭となって「一生を神に捧げます」という固い誓いを持って伝道しています。
これに対して、宗教改革者ルターは、カトリック教会の中で修道士でありましたが、大胆にも、教職者は独身を貫くという誓いを破って、修道女(ケート ・フォン・ ボーラ)と結婚しました。
それで、ルーテル教会の牧師はどうかと言うと、ルターにならって結婚して、伝道しています。中には独身者もいることでしょう。或いは、中には夫婦それぞれ牧師で、各々違った教会を受け持って伝道しています。どんな家庭になるでしょうかね。又、中には主人は牧師として伝道して、洗礼を受けるように働いていますが、妻である婦人は洗礼を受けないで、私クリスチャンじゃありませんというケースもあったり、聞いてびっくり、どうなっているんでしょうね。そのうちクリスチャンになりますよ、と言うのでしょうか。
さて、パウロは結婚について8節から見ますと、、今度は未婚者や、やもめに言います。私のように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身をこがすよりは結婚したほうがましだ、と言うのです。
コリント教会の中での、不品行な人たちの問題から始まって、結婚と離婚の困った問題にまで及びます。
離婚はなるべくしてはいけない、と言います。そこには必ず子供がいることでしょう。その子供たちがどんなつらい思いをするのか、いたましことです。私はこれまでに、いくつものケースを見てきましたね。親同士はののしり合っても子供にとってはお父さんでありお母さんです。どうしてそんな言葉がでるのと心で泣いているんです。子供の心に傷をもたらしてはいけないと思いますね。しかし、結局、親の身勝ってで子供の心に大きな負担を残してしまいます。アメリカ等では、簡単に男と女が好きになり結婚しますが、簡単に離婚してしまいます。日本にも、だんだんそういう傾向になってきているとすれば、良くないと思います。
聖書の教えは、互いに愛し合いなさい、ゆるし合いなさい、ということです。この手紙でパウロは、結婚についてどうありなさい、と教えるのではなく、その中に、救いがどう生かされねばならないか、ということを示そうとするのです。そこでパウロは、未婚者や、やもめの人に対しては、私のように1人でおれば1番良い、と言います。パウロはこの時、たしかに独身者であったようです。しかし、ダマスコでの改心の前には実は、以前、結婚していたのではないか、研究者は想像しています。そうすると今は、やもめに似たことになってしまった、ということになります。やもめでいるのもつらいことであるなら「結婚してもいいよ」と言っています。結婚したらしたでいろんなつらいこと、戦いもあ
るよ、と言いたげであります。どちらにしても、主の救いをまっとうすることができるかどうか、そのことが大切なのであります。独身や、やもめになっているにしても、結婚しても、どちらがよく主を信じ、主に仕えることができるか、ということです。その事は、その人が与えられた境遇によってちがうのであります。パウロは自分のような生活だけが神に仕える道である、とは思っていなかったでありましょう。同時に「人間生活おける結婚の意味」というようなことも、問題にしてはいなかったと思います。彼が一番心をかけていたことは、どうすれば救われるか、まちがいのない信仰生活をおくることができるか、ということであったでしょう。そのあと、パウロは少し変わったことを申します。それは10節の「命じるのはわたしでなく、主である」というのと12節に「これを言うのは主ではなく、わたしである」と言っています。同じような信仰のすすめをしながら、二つに分けて、主の言葉と、自分の言葉にしています。どうもパウロは、主の権威というものと自分の力とを、よく知っていたからでありましょう。
ここにもう1つの事があります。12節以下です。それは、不信仰者の妻のことです。信仰のない妻にも色々ありましょう。この当時のことであれば不信仰者と言っても、異教徒の者であったかもしれません。信仰がちがうから結婚しないと、厳密に考えたでしょうか。そんなことをのりこえて二人は結婚したいと、夫婦になったでしょう。キリスト者の数が非常に少ない日本のような国では、信仰を持たない人との結婚は、珍しくありません。パウロが言うのは、何があるにせよ信仰がなくても、結婚して共に喜んでいる場合には離婚してはいけない、と言っています。
このことは大切な事であります。そういう結婚が、決して恥ずべきことではない。むしろそこに神の御業の働くことをパウロは考えていたにちがいありません。離婚してはならないということは、1つには、神の合わせられた者であるから離婚してはならないということであります。ここで離婚してはならないという場合は、婦人の夫が信者でなくても、信仰もった婦人と生活することを喜んでいる場合であって、結婚によって信仰者が汚されるか、それとも反対に信仰なくてもきよめられるのであるか、
そういう問題であります。パウロは、結婚そのものは神がお定めになった神聖な生活であるはずである、と考えていました。従って夫と妻とがこの結婚の、神聖ということで生かされるはずであります。もしどちらかが信仰をもたない者であった場合、どうであるか。パウロはその場合にも、その結婚が神聖であると申します。
14節を見ますと「なぜなら、信者でない夫は信者である妻のゆえに聖なる者とされ、又信者でない妻は信者である夫のゆえに、聖なるものとされているからである。」これは驚くべき言葉でありますね。信者でない夫、又は妻を持った信者にとっては、大きな慰めではないでしょうか。その時です。そこに、両親が信仰によって祝福を受けることができれば、すばらしいことです。たとえ夫だけ 或は妻だけがその祝福を知るだけでも、その子は神の祝福にあずかる、というのであります。ところが身勝手な人間は、そういう子供の誕生について、あの神聖な喜びもやがて忘れはて、目の前の、この世の喜びに心ひかれてしまいます。世俗的なことに、もう夢中になってしまいます。しかしその時です。夫又は妻が信仰を持ち、その子供のまことの幸いのために祈ることができたら、事は全く変るはずであります。パウロは今その事を含めて、ここにきよめがある。神様によって「聖なる者とされている」ではないか、と言うのです。そうであるなら信仰のない夫をもつ妻、又信仰のない妻をもつ夫は、ここに大いなる確信と誇りとをもっていいのであります。そして、その家庭の土台とならねばならないでありましょう。
14節にパウロは書いているでしょう。「もしそうでなければ、あなた方の子は汚れている事になる。が、実際はきよいではないか。」パウロの確信に満ちた、固い決心がよくわかります。現代の日本で、夫婦そろってクリスチャンは少ないのです。実際、夫か妻どちらかが、まだ信仰を持つに至らない。夫婦の生活は複雑で簡単にいきませんよ。それを、自分を良く知らない私は、牧師なりたての若ぞうが伝道熱心のあまり家庭にふみこんで失敗ばかり、何度そのむずかしさを味わったことでしょうか。
ところでパウロは15節を見ますと、いとも簡単に「去る者は去らしめなさい」と言っているのです。彼に言わせれば、神の御心を知らずそれに背く者は、もうどうしようもないと言うのです。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚というものに縛られてはいません。パウロの確信のあらわれの言葉です。そうして更に重要な言葉でむすびとしています。それは「平和な生活を送るようにと、神はあなた方を召されたのです。」
ここでパウロは何を言おうとしているのでしょう。平和に召されたのだから、なるべくなら争いごとはさけなさいと説明しているのでしょうか。そうかもしれません。しかし、この言葉で言っていることは何かと申しますと、神はいたづらに人を造られたのではないはずであります。その上、神は、キリストの十字架による救いをお与えになりました。神が平和を望まれるとは、並大抵のことではありません。神のみ子が犠牲となっておられるのです。
神はどんな平和をお求めになるのでしょうか。ただ平穏な、波の立たない平和であったでしょうか。
もちろん、そうではないでしょう。神は、神のみが神とされ、神のみこころが行われることを望まれるでありましょう。神はそういう平安をつくるために、夫婦とか家庭とかいうものをお造りになったのではないでしょうか。
創世記にありますように、男のために女をつくったという話から始まって、人間の男女の生活は決して平安ばかりではありませんでした。しかし神は、あなた方を平和にくらせるためにおつくりになった、というのがパウロの確信でありました。
信仰のない夫を信仰に導きたいと思わない妻はありますまい。同じように、信仰のない妻を信仰に導きたいと願わない人もないでしょう。しかし、そう簡単にはいかない。その戦いは容易ではありません。伝道は涙の苦闘と言ってもいい。祈って、祈って、祈っていくしかない。それでパウロは言うのであります。
16節で「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうしてわかるのか」という。「夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうしてわかるのか」と言っています。何のために悲観的に見えることを、パウロは言うのでしょうか。もちろん彼は悲観して言っているのではありません。神の助けなしに、どうしてそれができるのか、と言うのであります。神は必ず勝利されるにちがいないではないか。あなた方の力は弱いかも知れないが、神は必ずこのよき平和をきずき上げて下さるにちがいないではないか。パウロは最後に、勝利の言葉をもって励ましているのであります。 アーメン・ハレルヤ