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コリント第1、 7章 25-35 2019年3月10日(日)
今日の聖書は、コリント第1、 7章25~35節までです。パウロは、7章からずっと、結婚に関してのべてきました。そして、未婚の人たちについて、パウロは書いています。
ここで言っていることは、一言で「人は現状にとどまっているのがよい」というのです。
7章の結婚についての話が、25節から、又続いています。
25節からは、結婚前のおとめについて言っています。
ここでパウロは今までとは、少しちがった言い方をしています。
今までの言い方は、パウロは、自分がキリストの使徒であるとか、キリストの僕であるといって、福音の宣教者独特の「権威」を示そうとするのでした。
しかし、ここではそうではありません。
パウロは言います。「主のあわれみにより、信任を受けている者として、意見を述べよう。」
それは、これまでとは非常にちがっている。この問題については主のご命令は受けていない、と
いうのです。しかし、自分は主の信任を、そのあわれみのゆえに、いただいている。
これはちょっと注目すべきことでしょう。
主イエス・キリストは、おとめのことについて、なにもご命令を出しておられない、というのです。絶対にこうでなければならない、とは言っておられない、というのです。
しかし、自分は、主のあわれみによって、忠実な者とされている。だから、その立場から、こういうのである、というのです。
自分は忠実な者であるつもりだが、それも、自分がえらいのではなくて、主があわれみをもって、忠実な者にして下さった、というのであります。
だからここに書いてあることは、パウロの意見であるにちがいありません。ここのところを、もう少しくわしく、他の訳でいいますと、「主が、そのあわれみによって、必要な考えをお与え下さった」となっています。
いずれも主ご自身のお言葉ではない。しかし、主の賜ったお考え、主はこう思っておられるであろう、と言うことであります。
これは信仰の生活をしている者が、よく知っていることでしょう。
主は、あらゆることについて、ご命令をお出しになるわけではありません。
しかし私たちは、主のあわれみによって、主に忠実に従うことによって、主のご意見を承ることができるのではないでしょうか。恐らくこうかも知れないといった、あいまいなことでなく、ここにみ心がある、と思えるようになるのであります。
十戒のようないましめや、主ご自身の多くの言葉があります。しかし主は、どんな事についても、ご命令やご意見をお与えになっているわけではありません。それを記した聖書は、六法全書のようなものではありません。何かの時に、ここを見ればわかるというものではありません。しかし、聖書によって神のあわれみを知り、そのあわれみのみ心によって、主にある者として、なすべきことを知ることができるようになるのであります。
それでパウロは、ここに何を示しているのでしょうか。
まず基本的なこととして、「現在、迫っている危機のゆえに、人は現状にとどまっているがよい」ということです。
「現在迫っている危機のゆえに」ということはどういうことでしょう。
29章でも書いています。時は「縮まっている」と。
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パウロがここで述べていることには、こういう考えがその底にあることを、見逃してはなりません。
現在迫っている危機というのが何か具体的なことは何も書いていません。
時が縮まっている、時が迫っている、というように、何か困難なことが目の前にある、ということではないでしょう。
これは信仰の話であります。
教会が出来はじめたころ、人々は、主イエスがもうまもなくやってこられる、終末待望の思いが熱くもえていました。
使徒行伝に書いてあるように、教会の人々は、財産を持ちよって、一種の、素朴な共産生活をした程であります。
パウロはそういうことに現れている信仰生活の意味を、語ろうとしていくのであります。
信仰生活というものは、人間の生き方の表面だけをなでるようなことをするのでなく、その根本にさかのぼって考え、それによって生きようというのです。 それは、例えば、人間の生活が死んで終わることを、ほんとうに知ることであります。
現在迫っている危機というのは、キリスト者であるがゆえに様々に受ける困難ということでもありましょう。信仰者がいつも見つめておらねばならない、人間としての危機ということでありましょう。
しかもそれは、死がある、というような、おどすようなことを言っているのではなく、私たちが、神のごらんになっているところで生きている、ということなのです。
この激しい人間の生活の中にあって、人の目を気にしながら生きるのでなくて、神の目をおそれて、生きるのであります。それであれば、人間の生活は、いつでも危機にさらされているようなものであることが、分かるのであります。
そういう中において生きるのは、現在にとどまっているということです。今、与えられているままを、神から与えられているものとして、生きるように、ということであります。
信仰生活というものは、誰よりも精進して生きる生活であります。それと同時に、今あるこの生活を、神から与えられたものとして、すべてを神に委ねた生活をすることである、ということです。
パウロの時代、もっとちがった問題もあったでしょう。
結婚について語る時も、彼はまずこの事を告げたかったのではないでしょうか。
パウロ自身は、すでに見てきましたように、どちらかと言えば独身でいることの方に関心があるようでありました。しかし、そのことを、しいて勧めようとはしないのでした。
基本的に大切なことは、キリスト者として守っていかねばならない、と思ったでありましょう。
だから、パウロの対する考えと言えば、結婚生活の中で、いかにして信仰を守りつづけるか、ということになるのではないかということです。
パウロはここで、結婚論を語っているわけではありません。教会内からの質問に答えつつ、いろいろな悩みがあるにもかかわらず、よい結婚が大きな祝福である、とまで説明しようとしません。
ただ27節、28節を見ますと、結婚することは罪になるでしょうか、ということが書かれています。恐らく質問者がきいていたからでしょう。それで28節に「おとめが結婚しても罪を犯すのではない。ただ、それらの人々はその身に苦難を受けるであろう。」と言っています。これが具体的な意見であります。
結婚ということは私たちの生涯をかけた大きな事であります。だれでもそれによって幸福を得たい
と願うのであります。それなのにパウロは、あっさりと率直に言っています。「結婚したらその身に苦難を受けるであろう。」だから独身がいいよ、と言いたげです。ある人は「結婚は人生の墓場である。」といったりもします。それらはみな、楽しい夢を見て結婚したのに、その楽しさは予想とちがってしまった、ということでしょう。
パウロはそういう意味で言っていません。又、同じようなことでありますが、家庭生活の苦労を考えて、結婚の苦しみを語ろうとします。
楽しい夢だけを追って、結婚しようとする若い人たちに、結婚が容易でないことを告げて、警告する人はいくらもあります。考えてもみて下さい。幼い頃から、全くちがった環境で育った二人が、結婚と同時に共同生活をすることには、困難があることは、誰でも分かるはずのことであります。パウロが特にどういうことを言おうとしたかは分かりません。
パウロは、ここでむしろ先に見ましたように「時が縮まっている」ことを強調しようとしています。
「今からは、妻のあるものは、ない者のように、泣く者は、泣かない者のように、喜ぶ者は、喜ばない者のように、買う者は、持たない者のように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜならこの世の有様は過ぎ去るからである。」と言っております。このことなら誰にも分かることのようでありながら、本当は、よく分からないのではないでしょうか。このことをだれも否定することはできない。そうしたことをしっかりと知っておかねばならない、と言いたいのではないでしょうか。
このように言う事は、悲観的なことを考えなさい、ということではありません。この世のことは、みな去り行く。しかし、去り行かないものがあるのであります。それをもととして、生きなければならないのであります。
それは神によって生きることであります。なぜなら、神によって生きる生活こそは、動くことのない、変ることのない生活だからであります。
パウロは決して、悲観的なことを言おうとするのではなくて、何としてでも、神によって生きて行ってほしい、神を喜び、神を楽しむ生活をしてほしい、と言いたいのであります。
結婚も又その1つの生活である、とパウロはいうのです。
それならば、そういう生活はどのようにして神を喜ばすのか、ということが大切になってきます。信仰生活というのは、神を喜び、神を喜ばせる生活であります。それは、結婚生活においても同様であります。むしろ、結婚生活においてこそ、これが問題になるのであります。
結婚生活において、自分だけの生活を何とか主張しようとすることは、もはや論外です。そういうことができるわけもありません。そうではなくて、いかにして、神をお喜ばせするか、ということこそ、もっとも大事なことであります。
それが又、結婚生活において、もっとも難しいことであることを、パウロはよく知っていました。
32節以下ー35節のところで大事なことは、思いわずらわない、ということです。
独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣う。結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣う。心が二つに分かれてしまいます。
今度は女性のことについても同じようなことを言っています。
独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣う。結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。
33節で「その心が分かれる」と言っています。心が分かれる、というのは、思いわずらうことです。
思いわずらうことは、最も不幸なことです。
パウロはこのように言ったあとで、35節に「このように私が言うのは、あなた方のためを思ってのことで、決して、あなた方を束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」と書いていますね。
とてもいい事を言っています。主なる神をお喜ばせする生活は、結婚生活をつまらなくするものではありません。神を喜ばせようとする者こそ、夫を喜ばせ、妻を喜ばせすることができるのであります。 アーメン・ハレルヤ