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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の偉大な力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。ところで、クリスマスは誰でも知っています。イエス様が天のみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから生身の人間として生まれたことを記念してお祝いする日です。日本語では降誕祭と言います。実は復活祭・イースターは、キリスト教会ではクリスマスに劣らず大事なお祝いです。ディズニーランドでもハッピーイースターをやっているそうです。イエス様の復活の何が人をハッピーにさせるのでしょうか?一度死んだ者が復活したというのは、ちょうど暗くて寒い冬が明るい暖かい春にかわる嬉しさに重なるのでハッピーになるのかもしれません。しかし、ここはキリスト教会ですので、イエス様の復活がハッピーなことだということを聖書に照らし合わせて見ていきたく思います。
まず、次のように言ったらどうでしょう?イエス様は沢山の苦しみを受けて十字架につけられて死なれたが復活したということで、復活祭とはイエス様の不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と。これに付随して、イエス様が死んだため悲しみにくれていた弟子たちが復活したイエス様に出会って喜び勇気づけられたということで、弟子たちの不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と。こういうふうに言うと、復活祭というのは何だかテレビ・ドラマでも観るように、昔の人たちの運命の変転をハラハラしながら追って最後にめでたしめでたしの気分を味わえるお祝いになります。しかし、そういう理解ではまだ聖書をちゃんと読んだことにはなりません。というのは、イエス様が死から復活させられたことは実は、当時の人たちの時代の壁を突き破って、今を生きている私たちの運命や生き方にも関係してくるからです。そのことがわかるために、イエス様の復活とはそもそも何なのかを考える必要があります。
そこで、イエス様の復活とは何なのかをわかるためには、イエス様はなぜ死ななければならなかったのかがわからないといけません。歴史的事件としてみると、ガリラヤ地方のナザレ出身のイエスが当時のユダヤ教社会の宗教エリートに楯突いて反感を買い、ローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された、ということになります。しかし、それは見かけ上の出来事です。聖書が聖書である所以は、それが天地創造の神の人間に対する思いや計画を知る唯一の手がかりであるということです。聖書をそのような書物と見なせば、見かけ上の出来事の奥にある真実が見えてきます。その真実とは何か?それは、旧約聖書に記された神の計画がイエス様の十字架と復活という形で実現したということです。
それでは、旧約聖書に記された神の計画とは何か?創世記に記されているように、人間は創造主の神に造られた後、神に対して不従順になって罪を犯したために罪が内に入り込んでしまって神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまいました。罪とは、人間が神の意志に反することをするように仕向けたり、また神の意志に沿うことを難しくするようにして、人間を造り主の神から遠ざけようとする悪いものです。そこで神は、人間がこの罪の恐るべき力から解放されて神との結びつきを回復できるようにしよう、そして、その結びつきを持ってこの世を生きられるようにしよう、この世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしよう、そういう計画を立てたのです。それでは、この神の人間を救うという壮大な計画とイエス様の十字架と復活はどう関係するのでしょうか?
まず、イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を彼が全部代わりに受けてくれて、罪の償いを神に対して全部果たして下さいました。それからは罪は、以前のように人間を神の前で有罪者にしようとしても、神のひとり子が果たした償いはあまりにも完璧すぎて思うようにできません。はっきり言って罪は破綻してしまったのです。加えて、神がその偉大な力でイエス様を死から復活させたことで、死を超える永遠の命があることが示され、その扉が私たち人間に開かれました。人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神がイエス様を用いて整えた罪の償いと赦しをしっかり受け取れて、永遠の命に至る道に置かれて後はその道を歩むことになります。
その人は罪の償いと赦しを受けているので、罪はもうその人を神の前に有罪者にすることは出来ません。それでも罪は、まだ力があるかのように見せかけて信仰者の隙や弱いところをついてきます。不意を突かれてしまう信仰者もいるかもしれません。しかし、神に罪の赦しを祈れば、神は私たちの心の目を十字架につけられたイエス様に向けさせて下さり、私たちは神の赦しは本当にあるとわかって、これからは罪を犯さないようにしようと心を新たにします。このように私たちは十字架の下に戻ることをすればするほど、罪に対して強烈なパンチを加えることになります。まさに、罪よ、くたばれ!です。
もし罪が思いや考えの中に留まらず、言葉や行いで出てしまい、誰かを傷つけてしまった場合は、その人に対して謝罪や償いをしなければならないことは言うまでもありません。ここで忘れてはいけないことは、神は隣人愛をせよと言われるので、それを破ったことにもなるということです。それなので、神に対しても赦しを乞わなければなりません。その時も神は、イエス様の十字架の犠牲に免じて赦して下さいます。ところが、隣人が赦してくれない場合もあります。「神は赦せても私は赦せない」などという人もいます。キリスト信仰者はどんなに憤っても絶対にそう言ってはいけません。自分を神よりも高い地位に置いてしまうからです。でも、そう言われる立場になってしまったらどうしてよいかわかりません。しかし、神との関係で見ると、神に赦しを乞えば神はひとり子の犠牲の業に免じて赦して下さいます。人間との関係では行き詰まりかもしれないが、神との関係では大丈夫ですから、それを信じて絶望せずに打開の糸口を見つけていきましょう。神に祈りながらやれば、必ず見つかります。
イエス様を救い主に持って神から罪の赦しと償いを受けた人は、神との結びつきを持って生きる人です。神との結びつきがあると、罪はその人をもう神の前で有罪者に仕立てることは出来ません。イエス様がその人を罪の力から贖い出して下さったからです。
このように、罪が人間に対して持っていた絶大な力は破綻しました。その結果、死も人間に対する力を失いました。本日の使徒書の日課の中で使徒パウロは、死からの復活はイエス様が最初で、その次は彼に結びつく人たちが彼の再臨する日に復活すると言っています(第一コリント15章23節)。また本日の日課の前では「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言っています(20節)。信仰者にとって死は、復活の日に目覚めさせられるまでの特別なひと眠りになったのです。ルターによれば、この「眠り」はこの世の痛みや苦しみから解放された心地よい眠りであると同時に、眠っている本人にすれば目を閉じてから復活の日までの眠りは、ほんの一瞬にしか感じられないという眠りです。眠っているだけなので、飢えも渇きもないし、またこの世で生きている人を見守ったり影響力を及ぼすこともありません。実はずっと起きて目を覚ましていて、この世の人を見守ったり影響力を及ぼすのは天地創造の神だけです。死んだ人の霊や魂などではありません。これが聖書の観点です。
パウロはまた、本日の日課の後のところで復活の体について述べています。私たちが復活する時、地上の時に着ていた朽ちる肉の体にかわって朽ちない栄光の体を着ることになる、と。そうなるとキリスト信仰者にとって死というのは実に、復活の日までひと眠りして着替えをするということになります。罪と共同して人間を神から切り離して永遠の滅びに陥れようとしていた死でしたが、それも破綻してしまったのです。まさに、死よ、さらば!です。
本日の旧約の日課はモーセが、神の偉大な力でイスラエルの民がエジプトの軍勢から守られたことを賛美するところでした。エジプトの軍勢は海水に巻き込まれて全滅してしまいました。これは一見すると罪や死ということと無関係に見えます。ところが、旧約聖書に記された昔の出来事というのは、将来起こることのミニチュアというか象徴的な先駆けになっているということが多くあります。エジプトの軍勢に起きた出来事が罪と死の破綻の象徴的な先駆けというのは、旧約聖書のミカ書7章19節を見ればわかります。「主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる(後注)」。つまり、神の民イスラエルを襲おうとしたエジプトの軍勢が壊滅したように、イエス様に結びつく者を襲おうとする罪と死も同じ運命にあるというわけです。
このように罪と死の力から人間を救い出そうとする神の計画がイエス様の十字架と復活を通して実現しました。罪の赦しの救いを受け取った私たちは、自分たちもイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしました。そういうわけで、復活祭とはイエス様が復活させられたことで実は私たち人間の将来の復活が可能になったことを喜び祝う日です。さらに、自分自身が復活させられるという希望に加えて復活の日に懐かしい人たちと再会できるという希望も持てるようになりました。復活祭は、この二つを希望を与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったことを忘れてはいけません。イエス様自身のためでもなく、弟子たちを喜ばせるためでもなく、イエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちにとって大きな喜びの日になるのです。
さて、本日の福音書の箇所を見てみましょう。復活の主イエス様とマグダラのマリアの再会が記されていますが、これは想像を絶する出来事です。というのは、この地上の体を持つマリアが復活の体を持つイエス様にすがりついているからです。復活したイエス様が有する復活の体とはどんな体なのか?それについては、パウロが第一コリント15章の中で詳しく記しています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、ずばり「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言われます(マルコ12章25節)。
復活というのは、ただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば、遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起きません。復活というのは、肉体が消滅しても、復活の日に新しい復活の体を着せられて復活することです。その体は、もう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる体です。この地上は、そのような体を持つ者のいる場所ではありません。イエス様は本当なら復活の後、吸い取られるよう天に昇らなければならなかった。なのに、なぜ40日間も地上にとどまったのか?その期間があったおかげで、弟子たちをはじめ大勢の人に自分が復活したことを目撃させることが出来ました。きっと、それが目的だったのでしょう。
復活したイエス様が、私たちがこの地上で有する体と異なる体を持っていたことは、福音書のいろいろな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事が記されています。弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。
復活したイエス様の体について、もう一つ不思議な現象は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったということです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事が記されています。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経った後のことでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初イエス様だとはわかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。
さて、天の御国の神聖な神のもとにいられる復活の体を持つイエス様と、それにすがりつく、地上の体を持つマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。「すがりつく」というのは、相手が崇拝の対象である場合は、ひれ伏して相手の両足を抱き締めるということだったと考えられます。イエス様に気づく前、マリアはずっと泣いていました。イエス様が死んでしまった上にその遺体までなくなってしまって、その喪失感と言ったらありません。では、イエス様に気づいてすがりついた時のマリアはどうだったでしょうか?泣き続けたでしょうか?次のように考えたらどうでしょう?最愛の人が何か事故に巻き込まれたとします。もう死んでしまったとあきらめていたか、またはまだあきらめきらないというような時、その人が無事に戻ってきて目の前に現れるとする。その場合、たいていの人は感極まって泣き出して抱きしめたりするでしょう。イエス様にしがみつくマリアもおそらく同じだったでしょう。
イエス様が「すがりつくな」と言ったということですが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」(μη μου απτου)です。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。なんだか聖書の訳の中に日米同盟と欧州連合の対決があるみたいですが(もっとも、ドイツ語ルター訳でないEinheitsübersetzung訳をみると、「私にすがりつくな」Halte mich nicht festでした)、イエス様はマリアに対して、「触れるな」と言っているのか「すがりつくな」と言っているのか、どっちでしょうか?
私は、イエス様が復活した体、まさに天の御国の神のもとにいることができる体を持っているということを考えると、ここは原文通りに「私に触れてはならない」の方がよいと思います。イエス様は、この言葉の後にすぐ理由を述べているからです。「私はまだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は、自分に触れるな、と言われる。その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが有している肉体の体とは異なる、神の栄光を体現する霊的な体を持つ者となった。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間はこの地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上のものなので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。
このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じていることです。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(後注)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は、「今の自分は本来は神聖な神のもとにいるべき存在なのだ。だから触れてはいけないのだ」と言っているのです(後注)。そういうわけで、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止なのです。確認のためとかイエス様が許可するのでなければ、むやみに触れてはならない、ということなのです。
神聖な復活の体を持って立っているイエス様。それを地上の体のまますがりつくマリア。本当は相いれない二つのものが抱きしめ、抱きしめられている、とても奇妙な光景です。そこには、かつて旧約の時代にモーセやイザヤが神聖な神を目前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだ、と言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。これを感動的と言わずして何を感動的と言えるでしょうか。イエス様も、今マリアは地上の体ではいるが、自分を救い主として信じている以上は復活の日に復活の体を持つ者になる、とわかっていたのでしょう。イエス様の次の言葉から、そのことがよく窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。
ここでイエス様は、弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられる道が開かれたのである。
兄弟姉妹の皆さん、今日は復活祭です。イエス様の復活のおかげで私たちにも復活の道が開かれました。イエス様が復活の初穂ならば、私たちはそれに続いて実を実らせる穂です。イエス様は有名な種まき人のたとえの中で、良い土地に蒔かれた種はしっかり成長して、30倍、60倍、100倍の実を実らせると教えました。
十字架の贖いの業のゆえにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様に結びつく者、
神の意思に照らせばまだ自分に罪が宿ることを思い知らされつつも、
その度に心の目を十字架の主に向けて、罪の赦しが揺るがないことを繰り返し覚え、
神に対する感謝の念を新たにし、本当に神の意思に沿うように生きようと志向する。
この時、私たちは良い土地に蒔かれた種であり、「罪の赦しの救い」から絶えず栄養を受けて成長していて、やがて30倍、60倍、100倍と実を結び、初穂のイエス様に続いて、復活の日に復活するのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
後注(ヘブライ語とギリシャ語がわかる人にです)
エジプトの軍勢に起きた出来事がミカ書7章19節の預言の象徴的な先駆けと言うことに対して、言語的な繋がりが弱いと指摘されるかもしれません。出エジプト記15章で「投げ込む」という動詞はרמה (1節)とירה(4節)を使っているのに対して、ミカ7章19節ではשלךを使っているからです。出エジプトでは投げ込む場所を「海に」ביםと言っていますが、ミカでは「海の深みに」במצלות יםです。他方で「深みに」במצולתは、出エジプト15章5節で海に投げ込まれた軍勢が石のように落ちていく場所を言い表す時に使われています。ミカの預言には出エジプト記の出来事が響いていると考える者です。
ルカ20章39節の「触りなさい」とヨハネ20章27節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατε、βαλε)であることに注意。
ヨハネ20章17節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)であることに注意。