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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに「わたしの平和」を与えると約束しています。「平和」とは何か?普通は、国と国が戦争をしないでそれぞれの国民が安心して暮らせる状態というように理解されます。それならば、国と国が戦争しなければ、国民は必ず安心して暮らせるかというとそうでもありません。例えば、国が複数の民族から構成されていて、もし民族間で紛争が起きれば、それはもう国と国との間の戦争と同じになってしまいます。また、そういう集団同士の紛争がなくても、国の経済が破綻するとか、国家権力が国民の権利や自由を制限したり締め付けたりしたら、もう安心した暮らしなど出来ません。そんな時、権力者以外は誰も自分の国が平和だとは思わないでしょう。
イエス様が弟子たちに与えると約束した「平和」とは何か?イエス様の約束は実は弟子たちだけに限られません。ヨハネ福音書を手にしてこの御言葉を読む人、礼拝の説教を通して聞く人全員に向けられています。イエス様は弟子たちや私たちが国内外の紛争や社会の動揺を免れて安心した暮らしができると約束しているのでしょうか?人間の歴史を振り返ると、戦争や紛争、動乱や内乱、社会の不安定は無数ありました。キリスト信仰者といえどもそうしたものに常に巻き込まれてきました。イエス様は約束を守れなかったのでしょうか?
そうではありません。イエス様が約束された「平和」にはもっと深い意味があって、普通に考えられる「平和」とちょっと違うのです。このことを理解できるために、ルターがイエス様のこの御言葉を解き明かしているところが大いに参考になります。それを以下に引用します。
「ヨハネ14章27節の御言葉で主が与えると約束されている平和、これこそが真の平和である。それは、不幸がなくて心が落ち着いているという平和ではない。それとは逆に不幸の真っ只中にあっても心を落ち着かせる平和である。外面的にはあらゆることが激しく揺れ動いていても心を落ち着かせる平和である。
『この世が与える平和』と『主が与える平和』には大きな違いがある。この世が与える平和とはどんな平和か?それは、外面的な揺れ動きを引き起した原因となった害悪が消滅するという平和である。主が与える平和はこれと全く反対である。外面的には疫病や敵、貧困や罪や死それに悪魔といったものが絶えず我々を揺さぶってもあるという平和である。そもそも、我々がいつもこうしたものに取り囲まれているというのは逃れられない現実である。それにもかかわらず、我々の内面では心に慰めや励ましや平安がある。これこそが主が約束された平和なのである。この平和が与えられると、外面的には不幸でも心はもはや外面的なものに縛られない。そればかりか、不幸がない時に比べて、こっちの方が心の中で勇気と喜びが増すのである。それゆえ、この平和は使徒パウロが「フィリピの信徒への手紙」4章で述べたように、「あらゆる人知を超えた神の平和」(7節)と呼ばれるのである。
人間の理性が把握できるのは、この世が与える平和だけである。理性はその性質上、不幸や害悪があるところに平和があるなどということは到底理解できない。不幸や害悪がある限り平和はありえない、そう考える理性はそのような状態にあって心を落ち着かせる術を知らない。ところで主は、なんらかの理由で我々を不幸や害悪の中に置くということがある。しかし、決して忘れてならないことは、主は我々を必ず強めて下さるということだ。どのようにしてか?それは、我々の臆病な心を恐れない心に、良心の咎に苛まれた心を晴れ晴れした心に変えて下さることによってだ。主から平和を与えられてそのような心を持てるようになった人は、この世全体が怯えるような不幸や害悪があるところでも、喜びを失わず揺るがない安心を持っていられるのである。」
以上、外面的には平和がなく不幸や害悪がのさばって激しく揺り動かされた状態の中に置かれても、内面的には平和があるというルターの教えでした。この場合、内面の平和は「平安」と言い換えても良いでしょう。どうして聖書の日本語訳は「平安」と言わないで「平和」と言うのか?これは、ギリシャ語原文のエイレーネーειρηνηという言葉が、外面的な平和と内面的な平安の両方の意味を含むことが関係していると思われます。聖書の英語訳、フィンランド語訳、ドイツ語訳を見てみますと、エイレーネーが外面的な「平和」を意味する時も内面的な「平安」を意味する時も皆、同じ言葉(peace, rauha, Frieden)で訳されています。それらの言葉もギリシャ語同様に外面的なものと内面的なもの両方を意味することができるので、それで特に区別しないで同じ言葉を用いていると思います。でも、日本語で内面の平安を「平和」と訳して大丈夫でしょうか?せっかく「平安」という言葉があるのに「平和」と訳したら、これは内面の「平安」を意味するんだと言い聞かせて読まなければなりません。
興味深いのはスウェーデン語には、外面的な平和を意味する言葉(fred)と内面的な平安(frid)を意味する言葉が別々にあって、このヨハネ14章27節でイエス様が約束しているものは、まさに内面的な平安(frid)で訳されています。参考までに、使徒パウロの書簡の初めの決まり文句は日本語で「神の恵みと平和があなたがたにありますように」と訳されていますが、スウェーデン語の訳は「平和」(fred)でなく「平安」(frid)を用いています。
以上から、イエス様が与えると約束された内面の平安とは、外面的には揺り動かされ不幸や害悪の中に置かれても、内面的には心の中に勇気と喜びが失われないばかりか増し加わることさえして、揺るがない安心を持つことが出来ることであるとわかりました。それでは、どうしたらそのような平安を持てるようになるのでしょうか?そんな平安を持てたら怖いものは何もなくなりそうです。誰もがも持ちたいと思うでしょう。
どうしたらイエス様が与えると約束された平安を持てるようになれるのか?答えは全然難しくありません。イエス様が与えると言っているものを、ありがとうございます、と言って素直に受け取ればいいのです。なんだ、とあっけに取られてしまうかもしれませんが、実際そうなのです。そうすると、今度はイエス様が与えると言っている平和とは何か、どこにそれがあるのか、それがわからないと受け取ろうにも受け取ることが出来ないので、次にそれを見ていきましょう。
イエス様が弟子たちに平安の約束をしたのは十字架にかけられる前日の最後の晩餐の時でした。この後に受難の出来事があり、十字架の死があって死からの復活がありました。イエス様が神の力によって死から復活させられた時、弟子たちは、あの方は本当に神のひとり子で旧約聖書に約束されたメシア救世主だったと理解しました(使徒言行録2章36節、ローマ1章4節、ヘブライ1章5節、詩篇2篇7節)。そうすると、じゃ、なぜ神聖な神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったのかという疑問が生じます。これもすぐ旧約聖書に預言されていたことの実現だったとわかりました。つまり、人間の罪深さ対する神の罰を身代わりに受けて、人間が受けないで済むようにして下さったのだ、とわかったのです(イザヤ53章)。人間が神罰を受けないで済むようになるというのは、イエス様の犠牲に免じて罪が赦されるということです。
このようにして神から罪の赦しを頂けると今度は、かつて最初の人間アダムとエヴァの堕罪の時に壊れてしまった神と人間との結びつきが回復します。神との結びつきが回復すると今度は、復活のイエス様が扉を開いて下さった、死を超える永遠の命への道に置かれてその道を歩めるようになります。神との結びつきをもって永遠の命への道を歩めるというのは、この世でどんなことがあっても神は絶えず見守って下さり、いつも助けと良い導きを与えて下さるということです。そして、この世を去ることになっても、復活の日までのひと眠りの後で神の御許に引き上げてもらえて、そうして自分の造り主である神の御許に永遠に戻れるということです。
このようにイエス様の十字架の死と死からの復活というのは、神がひとり子を用いて人間に罪の赦しを与えて自分との結びつきを回復させようとする、人間の想像を超えた救いの業だったのです。もともと人間と神との結びつきは万物の創造の時にはありました。しかし、堕罪の時に人間に罪が入り込んだために失われてしまいました。その失われたものが罪の赦しで回復する可能性が開かれたのです。神は罪を焼き尽くさずにはおられない神聖な存在です。罪のために神との結びつきが途絶えてしまったというのは、神と人間は戦争状態に陥ったのも同然でした。それで神と結びつきを回復するというのは、神と人間の間に平和をもたらすことになります。実に神と人間の間の平和は、神自身がひとり子を犠牲に用いることで打ち立てられたものでした。
この壮大な事実を目の前にした人間が、ああ、イエス様は本当に神のひとり子、メシア救世主だったのだ、彼が十字架にかけられたのは、弟子たちが罪を赦されて神との結びつきを持てるようにするだけだったのではないんだ、時代を超えて今を生きる自分のためにもなされたんだ、とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを頂いて神との結びつきが回復するのです。そのような人は、まさに使徒パウロがローマ5章1節で言うように、「主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いるのです。
しかしながら、私たちが肉を纏って生きているこの世というところは、あらゆる手立てを尽くして私たちを疲れさせたり絶望させたりして、神との結びつきを弱めよう失わせようとする力に満ちています。私たちを罪の赦しから遠ざけて、再び罪が支配するところに引き戻そうとする力に満ちています。例えば、私たちが苦難や困難に遭遇すると、本当に神との結びつきはあるのか、神は自分を見捨てたのではないか、私のことを助けたいなどと思ってはいないのではないか、と疑うことが起きてきます。この時、一体自分には何の落ち度があったというのか、と神に対して非難がましくなることもあれば、逆に自分には落度があった、だから神は見捨てたんだと意気消沈の気持ちになることもあります。どちらにしても、神に対して背を向けて生きることが始まります。
そこで、自分には何も落度はないのにどうしてこんな目にあわなければならないのか、と非難がましくなることについて見てみましょう。このことは、有名な旧約聖書ヨブ記の主人公ヨブにみられます。神の御心に適う正しい良い人間でいたのにありとあらゆる悪い事が起きたら、正しい良い人間でいたことに何の意味があるというのか?そういう疑問を持つヨブに対して神は最後に、お前は天地創造の時にどこにいたのか?と問い始めます(38章)。一見、何の関係があるのかと問い返したくなるような問いですが、神の言わんとすることは次のようなことでした。自分は森羅万象のことを全て把握している。なぜなら全てのものは自分の手で造ったものだからだ。それゆえ全てのものには、私の意思がお前たち人間の知恵ではとても把握できない仕方で働いている。それで、神の御心に適う正しい良い人間でいたのに悪い事が起きたからと言っても、正しい良い人間でいたことが無意味だったということにはならない。人間の知恵では把握できない深い意味がある。だから、正しい良い人間でいたのに悪い事が起きても、神が見捨てたということにはならない。神の目はいついかなる境遇にあってもしっかり注がれている。
神の目がしっかり注がれているということを示すものとして、「命の書」というものがあります。本日の黙示録の個所(21章27節)にも出てきましたが、旧約聖書、新約聖書を通してよく出てきます(出エジプト32章32、33節、詩篇69篇29節、イザヤ4章3節、ダニエル12章1節、フィリピ4章3節、黙示録3章5節)。イエス様自身もそういう書物があることを言っています(ルカ10章20節)。黙示録20章12節で神は最後の審判の日にこの書物を開いて死んだ者たちの行先を言い渡すと言われます。それからわかるように、この書物には全ての人間がこの世でどんな生き方をしたかが全て記されています。神にそんなこと出来るのかと問われれば、神は一人ひとりの人間を造られた方で髪の毛の数までわかっておられるので(ルカ12章7節)出来るとしか言いようがありません。そうなると全て神に見透かされて何も隠し通せない、自分はだめだとなってしまうのですが、そうならないためにイエス様は十字架にかけられ、復活させられたことを思い出しましょう。イエス様を救い主と受け入れて神に立ち返る生き方をすれば、神はお前の罪は忘れてやる、過去のことは不問にすると言って下さるのです。
ここからわかってくることですが、神は全ての人間に目を注いでその境遇を知って満足するというような無責任な傍観者ではないということです。神は、人間が自分との結びつきを回復して永遠の命に至る道を歩めるようにしようと、それでひとり子をこの世に送って犠牲に供することを惜しまなかったのです。神は、私たちがどんな境遇に置かれても、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がこの道をしっかり歩めるようにとあらゆる支援を惜しまない方です。なぜなら、神がひとり子の犠牲を無駄にすることはありえないからです。人生の具体的な問題に満足のいく解決を早急に得られないのなら、それは神が支援していないことの現れだと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点で言わせてもらえれば、聖書の御言葉も日曜の礼拝や聖餐式も神に祈ることも皆、私たちを力づける神の立派な支援です。
このようにイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、どんな境遇にあっても神との結びつきには何の変更もなく、見捨てられたなどということはありえません。境遇は、神との結びつきが強いか弱いかをはかる尺度ではありません。大事なことは、イエス様の成し遂げて下さった業のおかげで、かつそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、この二つのおかげで、私たちと神との結びつきがしっかり保たれているということです。周りでは全ての平和が失われるようなことが起きても、神との平和は失われずにしっかりあるということです。
次に、この世の力が私たちに落ち度があると思わせて意気消沈させ、自分は神に相応しくないんだと思わせて、神から離れさせる場合を見てみます。これについても、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、神は私たちを目に適う者に見て下さるというのが真理です。それにもかかわらず、私たちを非難し告発する者がいます。悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて、その自覚を失意と絶望に増幅しようとします。ヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前にしゃしゃり出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけばひどい罪びとなんですよ」などと言います。しかし、本日の福音書の箇所でイエス様は何とおっしゃっていましたか?弁護者である聖霊を送ると言われています(14章26節)。
私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて、必要以上に私たちを責めるようになっても、聖霊は私たちを神の御前で文字通り弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたとわかっています。それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。すかさず今度は私たちに向かってこう言われます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり打ち立てられているではありませんか!」と。私たちは、神に罪の赦しを祈り求める時、果たして赦して頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通してこの聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。聖霊の執り成しを聞いた神はすぐ次のように言って下さいます。「わかった。わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と。その時、私たちは安心と感謝の気持ちに満たされて、もう罪は犯すまいと決心するでしょう。
以上みてきたように、イエス様の十字架と復活の業によって私たちと神との間に平和が打ち立てられました。この平和は、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、私たちの内で微動だにしない確固とした平和です。それに揺さぶりをかけるものが現れても、その度、聖霊が出動して、神はイエス様を用いて私に何をして下さったかということを思い出させて下さいます。その思い出させに自分を委ねてしまい、思い出せばそれでよいのです。その時、心は安心と喜びを取り戻して神の御心に沿うように生きようと勇気も湧いてくるでしょう。
まさにこの時キリスト信仰者は、自分の内に大きな平安があることに気づきます。これがイエス様の約束された平安です。この平安は、神から罪の赦しを頂いて神との平和を打ち立てられた時に与えられます。まさに神との平和、そして心の平安が来るのです。
神との平和に立ち心の平安に満たされたら、次は人との平和な関係の構築が待っています。マタイ5章9節でイエス様は「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われます。「平和を実現する」とはどんなことをするのか?ノーベル平和賞をもらえるくらいのことをしなければならないなら、自分には無理だ、ということになってしまうでしょう。しかし、人との平和な関係というのは、身の回りの人たちのことでも全く構わないのです。ローマ12章18節でパウロは次のように勧めます。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」ここのギリシャ語原文が少し厄介なのですが、訳文では見えてこない深い意味があります。「周りの人と平和な関係を持てるかどうかがあなたがたの肩にかかっていて、それを背負うことが可能ならば、それを背負って全ての人と平和に暮らしなさい(後注)。」つまり、背負うことが出来る場合は、平和な関係を築きなさい、出来ない場合は築けなくてやむを得ない、ということです。どういうことか、以下、詳しく見ていきます。
ローマ12章をみると、迫害する者のために祝福を祈れ、呪ってはならない、とか、誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がけよ、とか、自分で復讐せず、神の怒りに任せよ、とか、敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ、とかあって、なんだかキリスト教はお人好しで真面目にやったら損をして馬鹿を見る宗教に見えてきます。ここで一つ申し上げると、社会には秩序や法律があるので、犯罪や過失が起こったら、法律に基づいて処罰や補償をしなければならないのはキリスト教でも当然なことです。ただし、その場合でも、復讐とか仕返しの観点は持たないということです。社会や秩序に傷が出来たので、それを修復するとか再発を防ぐとかそういう観点で処罰や補償が考えられるのではないかと思います。そんなことでは被害者の気が収まらないではないかと言われてしまうかもしれません。しかし、キリスト信仰には神との平和という土台とそれに根差した心の平安があるため、「気が収まらない」という気持ちはぎりぎりのところで抑えられていると思います。
このように神との平和に立って心の平安を持てれば、ちょっとやそっとのことで損したとか馬鹿を見たという感じはしなくなります。それらを持っている限りは人との平和の関係を築くことは大丈夫です。パウロが「背負うのが可能ならば」と言う時、神との平和と心の平安があれば「背負うのは可能」です。それでは、「背負うのは不可能」という場合はどんな場合でしょうか?それは、襲い掛かる悪が信仰を捨てるように強要する場合です。つまり、神との平和とそれに基づく心の平安そのものを手放せということです。そうなると相手と平和な関係を築けなくなるのはやむを得ないことになります。果たして、信仰を捨てることを強要する相手とは平和な関係は築けないでしょうか?仮に、キリスト信仰者が信仰を捨てて、強要した側がよしよしよくやったと満足して対立がなくなったとします。そのようにして得られた平和は本当に平和でしょうか?良心の自由を踏みにじることで成り立つ平和は、魂のない静寂にしかすぎず、それは本当の平和ではありません。
信仰を捨てることを強要する相手と本当の平和な関係を築くのは全く不可能なのでしょうか?実は可能になる場合もあります。それは、相手がキリスト信仰者になって、神との平和とそれに基づく心の平安を持つようになる時です。そんなのは理想論で絵に描いた餅だと言われるかもしれません。でも、あれだけ執拗にキリスト教徒を迫害し続けたローマ帝国がいつしか皇帝自らキリスト信仰者になったのです。他にも歴史には同じような事例が一杯あったと思います。どうしてそんな逆転劇が可能だったのか?少なくとも一つ言えることがあります。それは、キリスト教徒が見かけの平和を選んでいたら、そのようなことは決して起こらなかったということです。ここからもわかるように、神との平和に立ち心の平安を持つということは、身の回りの人間関係にインパクトを与えるだけでなく、歴史をも動かす力を秘めているということです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
後注(ギリシャ語が分かる人に)
新共同訳は「できれば、せめてあなたがたは」と、他の人はどうでもあなたがたは頑張って平和に暮らしなさい、ですが、英語(NIV)は”If it is possible, as far as it depends on you”と平和に暮らすことが条件づけられます。ルター訳も同じで”Ist’s möglich, soviel an euch liegt”、フィンランド語訳とスウェーデン語訳もそうです(”Jos on mahdollista ja jos teistä riippuu”/”så långt det är möjligt och kommer an på er”)。
そのような訳になるのはτο εξ υμωνのεκをgenerisかexitusかoriginisのいずれかに考えているということだと思います。τοはaccusativus limitationisということでしょう。(δυνατονの主語というのはありえないでしょうか?)