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主日礼拝説教 2019年6月2日 昇天主日
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は天地創造の神の力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天の神のもとに上げられたという出来事です。復活から40日後というのはこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。その日に近い主日ということで、本日が「昇天主日」となっているわけです。イエス様の昇天日から10日後に、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。次主日が聖霊降臨日になります。カタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。
さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、今を生きる私たちに何の関係があるのかということは昨年の説教でお教えしたところです。今回もその教えには変更はありませんが、本日の第二の日課であるエフェソ1章の中に、昨年お教えしたことを深めることを発見しました。何かと言うと、死んだ人間に新しい復活の体を着せて蘇らせることとその者を創造主である神の御許に引き上げるということ、これはイエス様に起きましたが、その実現には想像を絶するエネルギーが必要である。しかし、神はそのエネルギーを行使する力がある方である。だからイエス様の復活と昇天を起こせた。それだけではない。神はこれと同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者にも行使される。つまり、信仰者も将来イエス様と同じように復活して天の父なるみ神のもとに上げられる。しかも、同じ神の力は今私たちが生きているこの世でも信仰者の後ろ盾になって働いている。そういうわけで、信仰者は前方も後方もしっかり守られているので何も恐れたり心配する必要はない。エフェソ1章の本日の個所をよく読むと、そういうことがわかってきます。なんだかわくわくしてきますね。
そういうわけで、本日の説教では最初に、イエス様の昇天とは何だったのかということについて毎回お教えしていることのおさらいをして、神の想像を絶するエネルギーと力が私たちにも働いていることを見ていきたいと思います。
私たちの新共同訳の聖書では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみると空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書いてあります(1章9節)。なんだか、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわきます。しかし、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという書き方です(υπολαμβανω)。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけで、その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します(後注)。
そういうわけで、新共同訳の「雲」はただの上空に浮かぶ普通の雲にしかすぎません。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろあることを忘れてはなりません。出エジプト記では、モーセが神から掟を授かったシナイ山は雲で覆われました。イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋にも雲が覆ったり離れたりしました。時代は下って、イエス様が高い山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判を受けた時、自分が再臨する時は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)やって来ると預言しました。本日の使徒言行録の箇所でも、天使が弟子たちに言います。イエス様は今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、つまり、天に上げられた時と同じように天の雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」ということになります。イエス様の昇天は聖書的な出来事です。
それにしても、イエス様を運び去ったのが神の雲だとしても、昇天は奇想天外な出来事です。大方のキリスト信仰者だったら、ああ、そのような普通では考えられないことが起こったんだな、とすんなり受け入れるでしょうが、信仰者でない人はきっと、馬鹿馬鹿しい、こんなのを本当だと信じるのはハリーポッターか何かの映画のSFX特殊視覚効果技術による撮影を本当のことと信じるのと同じだ、と一笑に付すでしょう。もっとも、キリスト教徒の中にも最近は、そういうふうに考える人が増えているかもしれません。
ここで、忘れてはならない大事なことがあります。それは、天に上げられたイエス様の体というのは、既に普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが多く、例えば弟子たちの前に現れても、すぐにはイエス様と気がつかないことがありました。また、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て、弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同じ次元の方なので、被造物にすぎない天使と同じではありません。いずれにしても、イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。
天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で信仰告白の時に唱えられます。果たしてそんな天空の国の存在するのか?このことも前回お教えししました、おさらいします。
地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏、熱圏、外気圏となって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが1957年に打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測すれば、天の御国とか天国は見つかるでしょうか?恐らく見つからないのではと思います。
というのは、ロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは、信仰というものと全く別世界だからです。成層圏とか大気圏というようなものは人間の目や耳や鼻や口や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?
信仰とは、こうした目や耳や鼻や口や手足で確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものと言ってよいでしょう。さて、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の立場は、天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。
もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などない、と考えることも可能です。ただ、その場合、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなりません。従って、自然界・人間界の物事に創造主の意図が働くなどということも考えられません。自然も人間も、無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場ですので、魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった方が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す側の心の有り様ということになります。
キリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。そして、人間の命と人生というのは実は、この現実の世界だけでなく創造主である神がおられる天の御国にもまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだ、という人生観を持っています。そういう人生観があると、神がひとり子のイエス様を私たちに贈って下さったのは人間の人生から天の御国が抜け落ちてしまわないためだったということが見えてきます。人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。
それでは、イエス様を私たちに贈ることでどうやって人間が二つの人生を合わせた大きな人生を持てるようになるのかと言うと、以下のような次第です。
人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てません。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になって罪を持つようになってしまってから、人間は神との結びつきを失ってしまったからです。人間の内に宿る罪、行為に現れる罪も現れない罪も全部含めて、罪が天の御国の人生を持てないようにしている。そこで神は、失われてしまった人間との結びつきを回復するために、人間の罪の問題を人間に代わって解決して下さったのです。
そのために神は、人間に宿る罪を全部イエス様に負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。こうして罪の償いがイエス様によってなされました。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることを示し、それまで閉ざされていた天の御国への扉を開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると罪の償いがその人を覆います。神の目から見て償いが済んだと見てもらえるようになります。その人の心に自分の命と人生は神のひとり子の尊い犠牲の上にあるという自覚が生まれ、これからは神の意思に沿うような生き方をしようと志向し出します。その時、その人は神との結びつきを持ててこの世を生きるようになっています。順境の時も逆境の時も神から絶えず見守られ良い導きを得られ、この世を去ることになっても、その時は御手をもってその人を天の御国に引き上げて下さいます。このようにしてこの世の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を生きることになるのです。
イエス様は十字架と復活の業を通して人間がこの世の人生と天の御国の人生の両方を持てるようにして下さった。それはわかるとしても、なぜ天に上げられなければならなかったのか?この間の復活祭の礼拝説教で、復活の体というのは神の栄光を現わす神聖な体なので罪に満ちたこの世には相応しくない、天の御国こそが相応しい場所とお教えしました(4月21日)。それなら、なぜ復活後すぐ天に上げられず、しばらくの間地上に留まったのか?それは本日の使徒言行録やルカ福音書の日課にもあるように、弟子たちに復活の目撃者・証言者になってもらうためでした。また、人間の救いはメシア・救世主の受難と復活に基づいているというのが旧約聖書の奥義であると教えるためでした。
イエス様の昇天について、本説教では別の角度から考えてみます。聖書の立場では、神に造られた現実の世界は初めがあったように終わりもあります。終わりの時は最後の審判があり、死者の復活が起こる。そういう森羅万象の大変動を経て最終的に天の御国だけが残る、そういう気の遠くなることがあります。イエス様はその時に再臨され、新しい天と地の中で天の御国が実現するために大きな役割を果たされる。つまり、イエス様の昇天というのは、上げられてそれっきりということではなくて、いつかは戻って来られるというものなのです。
そうなると、このイエス様が天の御国に上げられてから再臨するまでの長い期間は一体何なのか?聖書の観点からすれば、それは、神のひとり子の身代わりの受難と死からの復活という出来事に対してあなたはいかなる態度を取るのか?人間がそれを問われる期間になりました。
人によってはこれは素晴らしいことだ、イエス様を救い主として受け入れ信じます、ということがすぐ起きるかもしれません。しかし、そう簡単ではないという人たちも多いでしょう。なにしろ、復活したイエス様を目にすることもなく、ただ聖書に書かれたこと、弟子たちの目撃録や彼らがイエス様から教えられたことだけが手掛かりだからです。実物を目にすることが出来たらすぐ納得できるのに、天になんか行ってしまったので「信じる」などというイチかバチかの賭けのようなものになってしまった。目で確認できない不確かなものに賭けることはできないと言って信じない人もいるでしょう。あるいは、自分には聖書に書かれたことよりももっと確かなものがあると言う人もいるでしょう。例えば宗教がそれだったりしますが、それも目で確認できるものではないのに、その人にとっては慣れ親しんだものなので目で確認できるに近い確実さを感じるということでしょう。他方でキリスト教徒の中にも、不確かなものを信じるなんて現代に相応しくないと言わんばかりに、復活や昇天は文字通りに取るべきではない、人間の思いや願いをそのような出来事に仕立て上げたにすぎないなどと心理分析みたいなことをする人もいます。分析ですから、言葉は明瞭で目で確認するのと同じくらい説得力があります。それを聞く人の多くは、信じる信じないの苦悶なしにすんなり受け入れるのではないかと思います。
私は、「信じる」というのはやはりイチかバチかの賭けのようなものであると思います。それで、イエス様というのは天地創造の神のひとり子で人間にとってメシア・救世主であると信じている人はそれに賭けたということになります。復活や昇天も心理的出来事でなく、文字通り起こった出来事と信じている人はそれに賭けているのです。心理的出来事にしている人は、もし文字通りの出来事でなかった場合に備えて安全策を取っていると言えます。賢いやり方です。しかし、賭けている人こそ信じているのです。
信じている人はどうして賭けられるのでしょうか?これは確かだ、賭けるに値すると思って賭けているわけですが、その確かなもの、値するものとは何でしょうか?それについて私は、二つのことをあげてみたいと思います。一つは、人がこの世を去る時、神は自分をしっかり受け取って下さるという、神の意図に対する信頼。もう一つは、神は意図するだけでなく実際に受け取る力も持っているという確信です。
まず、神の意図に対する信頼について。人がこの世を去る時、それは自分を何か果てしない大いなるものに委ねる瞬間となるので、果たしてそのものは自分をしっかり受け取ってくれるだろうか?自分に何か足りないもの欠けているものがあって受け取ってもらえないだろうか?と不安になります。聖書は、まさにこうした問題とその解決を言葉で明らかにしています。つまり、足りない欠けているというのは、神の意志に反する罪を持ってしまい、神の神聖さ、神の目に相応しくされるための義を持っていないことです。この問題は先ほども述べましたように、父なるみ神がイエス様を用いて解決して下さいました。イエス様を救い主と信じることによって罪の赦しを衣のように被せてもらっている、罪は残るが、この衣を手放さないようにしっかり掴んでいるというのは罪に反抗して生きることです。神はそれをよし、と言って受け取って下さるのです。
次に神は私を受け取る意図だけでなく、そうする力も持っているという確信についてです。復活や昇天というのは科学技術や物理学の常識ではありえないことです。それが起こるためには常識を超えた、想像を絶するエネルギーとそれを行使できる力がなければ出来ません。エフェソ1章の19節と29節をよく読むと、使徒パウロはまさにそうした想像を絶するエネルギーと力が必要とされることをよくわかっていたことが見て取れます。ギリシャ語原文を見ると「神の力」の「力」いう言葉が3つの違う単語で言われています(δυναμις, κρατος, ισχυς)。それぞれ日本語でどう訳し区別するか考えたのですが、それぞれの詳細な意味内容がわからないため出来ませんでした。ただ、はっきりしていることは、「神の力」は一つの単語だけでは把握しきれないスケールを持つということです。「神の力」のスケールについて「膨大な大きさ」(υπερβαλλον μεγεθος)と言われています。さらに同じ個所でエネルギーという言葉も2回(ενεργεια, 2回目は関係代名詞ηνとして)、エネルギーを行使するという動詞も1回使われています(ενεργεω)。
そのような想像を絶するエネルギーと力を持つ者を考えると、それは万物を造られた神以外にはありえなくなります。パウロは、神がそれらを用いてイエス様の復活と昇天を実現したと言います。パウロは、復活と昇天をまさに物理学的な現象の延長上に捉えていると言えます。ちちんぷいぷいのおまじないの世界の出来事なんかではないのです。
エフェソ1章19ー20節でもう一つポイントとなることがあります。それは、イエス様に起こったエネルギーと力の行使が、彼を救い主と信じる者たちにも起こるということです。つまり、信仰者にも、イエス様に起きた復活と昇天が起こるというのです。
この神の力は、将来の復活の日に行使されるだけではありません。今この世の人生の段階でも、信仰者の後ろ盾になって襲い掛かる悪い力に負けないように後方支援してくれています。エフェソ1章21節から23節を見ると、神の右に座したイエス様はあらゆる「支配、権威、勢力、主権」の上に立ち、それらを足蹴にしています。ここで言う「支配、権威、勢力、主権」とは現実にある国の権力だけでなく、霊的な力も含みます。その力は、人間が神との結びつきを回復するのを邪魔し、命と人生についても天の御国は持てないようにしようとします。
それらの力は今天の父なるみ神の右に座しているイエス様に対しては何もなしえませんが、天の下にいる私たちには攻撃を仕掛けてきます。しかし、キリスト信仰者は何も恐れることはありません。エフェソのこの個所で言われるように、信仰者はイエス様を頭に戴く体を構成しています。洗礼でこの体に結ばれ、御言葉と聖餐によって結びつきを保ち強めています。ただ、頭は天の父なるみ神のところにあり、体はその下のこの世にあります。だから体は攻撃を受けます。しかし、忘れてはならないのは、私たちの頭は既に復活と昇天を遂げた部分です。体の部分である私たちはその頭と結びついているので、将来の復活の日にやっと頭と同じ天上のレベルになります。パウロは体のことを「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」と言います。わかりやすく言えば、「私たちに欠けているものは何もないという位に私たちを満たして下さる方、つまりイエス様の力が隅々まで行き渡っている」体です。私たちはイエス様に結びついている限り、大きな人生を生きる上で何の心配もなく全く大丈夫なのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
後注
フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルターのドイツ語訳の聖書を見ても、雲がイエス様を運び去るという訳をしています。英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず空高く舞い上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような印象を与えてしまうと思います。