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ヨハネ16章12-15節 三位一体主日 2019/06/16
■三位一体主日
教会の暦は三位一体主日を向かえました。ペンテコステで聖霊の力が注がれたので、これで父と子と聖霊の三位が出揃ったということで、伝統的にペンテコステの次の日曜日を三位一体主日としています。これで一年の半分が過ぎたことになります。
■聖書から学び聴くとは
わたしたちはこうして日曜日ごとに教会に集まって神様を礼拝します。そして聖書の言葉を聴いています。そしてそれを自分のライフスタイルに取り入れています。それがとても大きな特徴であり、これを自分自身の生き方としています。今の言い方なら、そういう信仰生活を自分のアイデンティティーとしています。まさしく自分らしさがここにあります。そこに価値を見いだしているのです。そこに自分が生きている意味を見いだしているのです。
■そしてイエスの言葉に耳を傾けるのはなぜかというと、キリストの言葉がこの世の価値観と神の国の価値観を橋渡ししているからであります。人間社会に生きる私たちは、どうしてもこの世の価値観に左右されます。左右されるどころか、むしろ普段はこの世の価値観に従って生きているのです。この世の価値観を無視して、まるで仙人のように世を捨てて世俗を離れて生きることはできません。たとえ修道院に入って生活するにしても、必ずそこにはこの世の価値観が存在します。
この世の価値観を受け入れながらも、それに則して生きていることを良しとしながらも、この世の価値観だけが自分のいのちを決めると考えることには納得していないのです。この世の価値観だけでは計れない別次元の価値観があると思わずにはいられないのです。それをだれも言葉にできないのです。うまく説明できないのです。
■ナザレのイエスという男もまたこの世の価値観を持って生きていました。イエスは決して仙人や世捨て人ではありません。社会の中を人々と共に生きたのです。楽しく過ごすことも人とおしゃべりすることも大好きで、そういう意味ではごく普通の人でした。
■けれどもナザレのイエスはもうひとつの価値観をもっていました。ひとことでいうならばこの世ではなく、それは神の国の価値観です。そしてその価値観を自分の考えとして語るだけでなく、そのように生きた人だったのです。
■それだからイエスの言葉は信じるに値するのです。イエスは神を語りました。神の愛を語りました。神の義を語ったのです。そして神の愛がどういうことなのかを教えました。たとえ話にしてそれをわかりやすく教えてくれました。神の義が何かを人々に示し、それを差し出してくれました。赦しがあることを示してくれました。癒しがあることを示してくれました。聖書に書いてあるそうしたイエスの言葉と働きのひとつひとつは、この世の価値観に照らしてみて納得できるものもあれば、この世の価値観では推し量れないものもあります。推し量れないものはいくつもありますが、なかでも最たるものといえば、やはり十字架でしょう。イエスが語り、そして示した神の国の価値観こそ、わたしたち人間が見失ってはならない価値観です。
■きょうの福音書ではイエスが霊について語っています。いうまでもなく神の霊、聖霊のことです。ヨハネ福音書では「真理の霊」という言い方で表されています。「真理の霊」という言葉は、ヨハネ福音書に特徴的な言葉です。他の福音書には出てきません。ヨハネ福音書14章から16章にかけて三回でてきます。「言っておきたいことは、まだたくさんある」と言っています。この部分はイエスが十字架にかけられる直前の出来事ですから、これは自分の運命を悟ったイエスが12人の弟子たちに語る最後の説教、すなわち遺言ということになります。
■真理の霊、すなわち聖霊について、それが何かと尋ねられても、私の言葉で説明しようとすれば失敗することになります。聖書を頼りに考えるよりほかにありません。
「今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」
さきほども触れたように、これは十字架へと向かう直前の会話です。「今、あなたがたには理解できない」こととは、まさしくこのあと起こる出来事、十字架を指していると言えます。そしてこのあと起こる出来事をことごとく明らかにするのがこの真理の霊、聖霊だとイエスは語ります。
■弟子たちにとってイエスのことがことごとく理解できたのはいつだったでしょうか。イエスが復活したときだったでしょうか。違います。復活したキリストと出会ったときでしょうか。いえいえ、それもあやしいです。なぜなら目の前に復活のイエスがいるというのに、彼らはそれがイエスだとわからなかったのですから。それがイエスだと気づいたのは、ひとつには、イエスがパンを裂いたときでした。イエスがパンを裂いたとき、エマオへと向かっていた二人の弟子は、最後の晩餐のイエスの言葉を思い出します。そして復活のイエスが生きていることに気づきます。まさにそのとき、真理の霊が働いたのです。そして主イエスが復活し、真理の霊として今も生きておられることを悟ったのです。
■真理の霊が働いて、イエスのことをことごとく理解できるようになったのは、いつどんなときだったのか、もうひとつ取り上げたいエピソードがあります。それはイエスが復活した日の夕方のことでした。ヨハネ福音書20章に出てくる出来事です。復活のイエスが彼らが集まっているところへやって来て、シャロームと声をかけ、手と脇腹の傷跡を見せたときです。そのときイエスは弟子たちに向かってあるこことをします。
22節「そう言ってから、彼らに息を吹きかけられて言われた。『聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。』」とても象徴的に、まさしくここでイエスは弟子たちに聖霊を与えたのです。弟子たちは聖霊を受けてことごとく悟ります。その力を得て遣わされていったのです。
■真理の霊が働いて悟りを得ることは、弟子たちだけに起こったことではありません。きょうの使徒書にあるパウロの言葉の中にも見て取れます。パウロはこう言います、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放しました。」霊の法則という言い方が出てきました。パウロはこれを罪と死の法則と区別します。
きょうの説教の冒頭で、これは私の言葉でしたが、この世の価値観と神の国の価値観という言い方をしました。ふたつの価値観の違いをそのままパウロの言葉に置き換えられるとは思いませんが、感覚的に近いのではないかと思っています。
■どうやらパウロはふたつの法則の狭間でもだえ苦しんでいたようです。この世を生きている限り、罪と死との法則から誰も逃れられない。そのことをパウロはとても苦しみました。私たちはパウロのことを聖パウロなどと呼び聖人扱いしますが、パウロにしてみればとんでもないというでしょう。パウロでさえも、自分の罪から自由になれなかったからです。彼は律法学者です。自分の罪をきれいに消し去ろうと思って、一所懸命律法を守り実行しようとするのですが、やはりできないことを思い知らされるのです。こうした点はルターにもそのまま当てはまります。ルターも法律を勉強しそういう考え方が得意な人でしたから、その点もパウロにとてもよく似ています。そして自分の罪の問題に頭を抱えどうすることもできなかったのです。
■パウロもイエスとの出会いから、イエスのことをことごと悟ることができました。そしてイエス・キリストを伝道するようになり、罪と死の法則と関わりをもたないもうひとつの法則として霊の法則という理解に至ったのです。
■霊の法則という捉え方をパウロができたのも、真理の霊が働いたのです。パウロははっきりとこう言います、「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」パウロはこう断言するのです。ファリサイ派の律法学者としてどうすることも出来なかった罪の問題を、イエス・キリストがいっきに解決したのです。ルターの場合は、これに匹敵する出来事はいわゆる「塔の体験」という事件でしょう。
■真理の霊が働いたのです。聖霊がパウロをそしてルターをことごとく悟らせたのです。そして罪からの解放への道が開けたのです。聖霊が働いているから、私たちに赦しの道が示されたのです。