説教:木村長政 名誉牧師

 コリント信徒への手紙 917節             201977日(日)

              「復活のキリストを信じる」                               

 

 今回も、パウロが伝道しました、コリント教会へ宛てた手紙を読んでいきます。  

 教会への手紙が聖書となっているのですよ。すごいと思いませんか。聖書は神の言葉です。聖霊によって書かれたものです。これは信仰に関する手紙です。聖霊の導きによって読まなければならない。

 パウロは、コリントの教会の中でゴタゴタしている問題に、具体的にふれています。

 手紙ですから、ある一箇所のところだけをとり上げても余り意味のないことでしょう。。手紙の前後との関係も考慮に入れて読むべきでしょう。

 7章では「結婚」に関しての質問に答える形で書いてきました。

 次の8章になりますと、「偶像に供えられた肉を食べた方がいいか、食べない方がいいか」という課題でした。パウロは、そんな事は、どうでもいい。私たちもそう思うかもしれません。パウロは、当時の異教の世界にある教会にあって、「偶像礼拝に敏感で心の弱い人もあるので、その兄弟のために、キリストは、死んで下さったのであるから、その兄弟をつまづかせないために、私は、今後、肉は口にしないことにしよう」とまで書いています。8章の終わりのところです。

 さて、今日の、9章を見ますと、ここには全く別の事が、突然出てきて、びっくり致します。

 1節から読んで見ますと、「私は自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを

見たではないか、・・・」と言います。

 これまでの手紙の文脈から見て、並はずれたことを突然出してきました。

 パウロはここで、「わたしは自由な者ではないか」と、言っています。

 なぜ、こんなことを書き始めたのだろうか。

 元、東京神学大学の学長を長くされていた北森嘉蔵先生という方がおられます。

 ルター研究でも日本で有名な先生です。

 北村先生なら、このコリント人への手紙9章を、どんなふうに読まれたのだろうかと、調べてみました。ちょっとだけ紹介します。なかなかユニークな見方です。

 「『自由・自在』という言葉があるが、パウロの筆は、まことに、自由自在に動く。前章で述べられていたところと、この章で述べられている所との間には、果たして、同一人物の筆だろうかと疑わせる程の性相の相違が見られる。しかし、このような所にこそ、生きた人格の姿が見られるのである。

 『風は思いのままに吹く。あなたは、その音を聞くが、それが、どこから来て、どこへ行くのかは知らない。霊から生れる者もみなそれと同じである。』(ヨハネ38節にある)

 パウロの自由さも、この御霊による自由さである」

 以上が北村先生流の解説です。 

 それなら、いったい「その自由」というのは、どういうことでしょう。

 19節のところを見ますと、「わたしは、誰れに対しても、自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだ多くの人を得るためです。」というふうに書いています。

 そうすると、その間に書いてあることは、この二つの言葉をよーく理解する必要があります。3節以下を見ますと、18節までず~っと、この間には、パウロが強力に、自分の権利を主張していることがみられます。

 パウロは、始めから、「わたしは自由な者である」といった程には言わないで、とてもきびしい叫びのような言葉で、「わたしは自由な者ではないか」と言っています。これは、ただの話ではない。強い確信をもって言っているのです。

 そこで、なぜ自由のことについて、突然書いているかということですが、その前に偶像への供物を食べていいかという事にふれました。パウロはこんなことは全く自由であって、食べるもよし、食べなくてもよし、自由である。と言ったのです。

 ところが、そうは言っても、伝道者としての報酬は、受け取っているのではないか。というような意地の悪い批判が出たらしいのであります。

 それに対して、パウロは、自分の立場をはっきり示そうとするのであります。

 信仰者の生活は、信仰という大きな信念のもとに生きよう、としますから、悪口を言われやすいのです。たとえば一言で言うなら、口で言うことと、実際とでは、違うではないか。えらそうな事を言ってるが、お前は結局、偽善者ではないのか。今、パウロはそれを言われているわけであります。

 牧師の立場でも同じように、正しいこと、いいことばかり言っても、現実はどうなんだ、と言われると。

もう全く、お手上げです。聖人でも善人でもありません。1つだけ大事なことを知ってほしいことがあります。

 教会の礼拝において、牧師の話す「説教」は聖書の言葉です。神の言葉であります。牧師、人間の考えや教えではありません。語られる言葉が、聖霊によって、神の真理の言葉、として語られていく、神からのメッセージです。信仰の自由を与えられた者は、その自由がどういうものであるか、よーく知っておらねばならない。

 世間で言う自由とは、ちがう。

 神からの、「完全な自由」を与えられているからこそ、不自由な生活も耐え、自ら喜んで、不自由な生活を受けるのであります。

 宗教を喰い物にする人はいくらでもいるでしょう。そういう批判があるだろう事も容易に想像できます。それを信仰によって与えられた自由といっしょに考えられたのではたまらない、と、パウロは考えたでありましょう。

 その自由が、どんなものか、よく教えなければならない、と、思ったにちがいありません。

 それで、パウロの言う、完全な自由とはどんなものか。そして、自由な信仰者の生活の基になるものはなにか。

 パウロは自由の事について、第1、「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。」と言うのであります。

 これは、多くの人にとって、全く意外なことではないでしょうか。自分は、自由な人間である。自分は、主イエスを見たではないか、と言うのです。

 この二つの事が、どうして、つながるのでしょうか。

 パウロが主イエスを見た、というのは、どういうことでしょう。肉によっては、パウロはキリストを知らないといわれます。はっきりしていることは、「最後に、いわば、月足らずに生まれたような私にも、現われたのである」と、コリント第1、15章8節で書いています。

 これは、パウロが、復活の主に、お目にかかった事を言っているのです。

 パウロが復活の主にお目にかかったことは、まちがいのない事でしょう。

 それなら、復活の主を知っている、という事はどういうことでしょう。

 ただ、主の復活を見た、という事実だけのことを言っているのでしょうか。そうではありません。

 主の復活を見ると言う事は、そういうこととは全くちがった、大事なことなのです。

 それは、復活という1つの事実を知っているという事ではなくて、復活された、主イエス・キリストを信じるようになった、ということであります。

 ある意味で、私たちも又、復活の主を信じる、復活の主にお目にかかった、という事になるのです。

 それは、キリストが十字架について、甦られたことを信じる、ということであります。

 それなら、主イエス・キリストが十字架に死に、生きかえられたことを信じるとは、どういうことでしょう。

 それは、言うまでもなく、自分の罪を知って、その罪が十字架のキリストにあがなわれ、罪は赦されたことを、信じるようになることであります。

 信仰を持っている人も、信仰を求める人も、みな何回聴いてもいい。そして、罪赦されている神秘の神の業に、そのたび毎に導かれて、新にされていけばいいのであります。

 聖なる霊の世界の導きであります。深い神の恵みであります。

 自分に罪があるということは、自分が、罪を持っている、ということではなくて、実は、罪が自分を持っているのです。

 罪の奴隷になっていることなのです。(ヨハネ8章34節)

 罪に支配されているのです。罪の自由になされている。罪から離れられないようになっている、と

言うことです。例えて言えば、まやくに支配されてはなれられないのと同じです。

 それは言いかえれば、自由がない、という事でしょう。

 自分は、自分の欲している善はしないで、自分の欲していない悪を行っている、とローマ人の手紙7章19節で書いています。自分は自由ではない。罪の支配に縛られてしまっているのです。

 それに対して、今、パウロの言う、キリストの復活を見た、主イエスを見た、というのは、ただ見たのではなく、それから救われたのです。罪から解放されて、自由を得たのであります。罪の奴隷であった者が、キリストの奴隷になることであります。全くの自由にされた者です。

 これこそが完全な自由、本当の自由ということでしょう。

 主が言われたように、仕えられるためではなく、仕える者になる時、人は、まことに自由になれるからであります。

 パウロは、今、そのことを言っているのであります。

 自分は主を見た、主に救われた者ではないか、主によって、真の自由を得た人間ではないか、と言うのです。

 もう1つ、パウロは「自分は使徒ではないか」と言います。この手紙の冒頭に自己紹介しています。

 「神の御心によって、召されて、キリスト・イエスの使徒となったパウロ」であると。キリスト・イエスの使いです。

 主イエスを見た自分は、主イエスの使徒になっているのであります。

 今、主イエスを見た者は、主の奴隷になっている。主の奴隷は、主に仕える者であります。それは主に仕えると同時に、人々に仕えるのです。

 「私は使徒ではないか。」と叫び、そして2節では「少なくともあなた方にとっては使徒なのです。」

 パウロはコリントの教会の伝道のために、はじめから一生懸命に人々に仕えた。

 従って、あなた方が主にある事は、わたしの使徒職の印なのである。と言います。

 使徒は教師の役目をすることでもありました。

 教えたり、導いたりして、何とかして、信仰をもって、キリストによって生きる者にしたい、と願っています。

 しかし、使徒の任務は、どこまでも仕えることにあります。。

 パウロは指導者のようにふるま

う事はしませんでした。どこまでも仕えようといたしました。

 パウロは最後にこう言いたいのです。使徒でありながら、その権利を使おうとは思わない。しかし、それを持って、最も効果的に語るために、自分の立場がいかに大きなものであるか。自分を批判する者たちに対して、自分は罪ゆるされた完全な自由なる者だ。自分は使徒である、その証拠にコリントの教会の信徒が現にいっぱいいる。そして最後に復活のキリストが現われて下さった。と、えんえんと語ってきたのであります。

                                              アーメン・ハレルヤ!

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