説教「神の愛と人間の悔い改め」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨナ4章1-11節、ガラテア5章2-26節、ルカ9章51ー62節

主日礼拝説教 2019年7月14日(聖霊降臨後第5主日)

  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神の愛について

 聖書の神は愛に満ちた方、恵み深い方と言われます。本日の説教では、その神の愛について本日の旧約と使徒書の日課に基づいて明らかにしようと思います。

愛は神だけでなく、人間にもあります。それでは、神と人間の愛は同じなのか、違いがあるのか、あれば何が違うのか?これはとても大きな問いです。本日の説教だけで全部を答えることはできませんが、答えの取っ掛かりは得られるのではないかと思います。

まず、使徒書の日課のガラテア5章を見てみましょう。そもそも、ガラテア書という書物でパウロは何の問題を論じていたでしょうか?人間の救いの根幹にかかわることです。罪のある人間は何によって神の目に義とされて神の前に立たされても大丈夫でいられるのか?この世の人生を終えて復活の日までのひと眠りの後、復活の体と永遠の命を与えられて神の御国に迎え入れられるのは何によるのか?そのような問いの答えに関係することです。ユダヤ教の伝統ですと、「律法の掟を守ることが大事」という答えが真っ先に出てくるでしょう。神の目に義とされて神の前に立たされても大丈夫になれるためには、律法の遵守につきるということです。

律法の中に割礼の規定がありました。割礼は神の民の一員の印でした。最初のキリスト信仰者は皆ユダヤ人でしたから、割礼を受けるのは当然でした。しかし、パウロは、神の目に義とされるのは律法の掟を守ることによってではない、神のひとり子イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされると説きました。そういうわけで、割礼は義とされることに関しては意味がなくなってしまいました。既に割礼を受けた人はそのままでいるしかありませんが、まだ受けていない人たち、つまりユダヤ民族以外の異邦人の場合は、イエス様を救い主と信じる信仰と、洗礼で罪の赦しと聖霊が一緒に注がれること、これらがあれば十分ということになりました。こうしたことがガラテア書の論点です。

それでは、イエス様を救い主と信じて罪の赦しを受け取るだけで、人間は本当に神の前に立たされても義と見なされて大丈夫になれるのか?それが本当になれるのです。というのは、神のひとり子のイエス様が人間の罪を全部自分で請け負って、それをゴルゴタの十字架の上にまで運んで、そこで神から神罰を受けて死なれたからです。そのようにして、罪の償いを人間に代わって全部神に支払って下さったのです。だから、そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の償いを聖霊と一緒に注いでもらえば、罪の赦しがその人に効力を発揮します。あとは、神から頂いた罪の赦しの恵みを手放さないようにしっかり携えて生きていけばよいわけです。そういうわけで、十戒の掟も、ちゃんと守らないと神から義と見なされない、だから頑張って守らなければならない、というものではなくなりました。そうではなくて、イエス様のおかげで先に義な人にされてしまった、だからあとはそれに相応しい生き方をしよう、神の意思に沿うように生きよう、そういう十戒の守り方は軽やかな自由なものになります。しかし、罪の赦しを自分の力で勝ち取るために守ろうとすると、重々しく引きずる感じになります。

 以上のことは、毎週礼拝の説教で繰り返し教えていることなので、皆さん、もう聞き飽きたという気持ちでしょう。そこで、そういう気持ちでガラテア5章6節を見ると、おやっと思わせることがあります。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて結ばれていれば割礼の有無は問題ではない、これはわかります。ただ、「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」というのはどういうことか?信仰は、愛の実践が伴わなったら意味がない、ということなのか?そうなると、イエス様を救い主と信じていても、愛の実践がなかったら意味がないということになる。神の前に立たされた時、義とされず大丈夫でいられなくなる。ということは、本質的なことは、イエス様を救い主と信じることではなく、愛の実践ということなのか?

愛の実践とは何でしょうか?真っ先に頭に浮かぶのは隣人愛です。困っている人を助けることです。でも、それなら、別にイエス様を信じていなくても出来るではありませんか?別の宗教を持っている人でも無神論の人でも人助けが大事なことはわかります。キリスト教では、イエス様を救い主と信じる信仰と人助けがセットになっていないと、信仰者として失格と言われてしまうのか?それなら、別にイエスなんか信じないで人助けに集中した方が話は簡単ですっきりするじゃないかなどと思われてしまうかもしれません。

ここで、イエス様を救い主と信じる信仰と隣人愛の関係について見てみます。キリスト信仰の隣人愛には他の隣人愛と違うことがあります。それがわかるために問題のガラテア5章6節をよく見てみます。ギリシャ語原文をそのまま訳すと次のような意味です。少し解説的に訳します。洗礼を通してイエス・キリストに結びついているならば、割礼を受けている受けていないということには意味はない。意味があるのは、「愛を通して作用している信仰/作動している信仰」である。愛を通して作用する/作動する信仰とはどんな信仰か?逆に言えば、愛がなくては作用しない/作動しない信仰です。愛があるから作用している/作動している信仰です。もしこれが愛を実践することで信仰が作用する/作動するという意味なら、結局、愛の実践が本質的なことということになってしまいます。

「愛の実践」と言いますと、人間が行うものになります。ところが、ギリシャ語原文では「愛の実践」とは言っていません。「愛を通して」作用する/作動すると言っています。ここで言う「愛」は人間が実践するものも含めたもっと広い大きな意味での愛です。どういうことかと言うと、キリスト信仰では、愛はまず神が人間に示すもので、示された人間がそれをわかって、味わって素晴らしいものとわかって、それを神に感謝し、神がしなさいと言うからそうする、そういうものです。神が示される愛の素晴らしさが分かればわかるほど、損得細かいことは気にならなくなる、こだわらなくなるというようになって愛を行えるということです。そのような愛が行えるのは、まず神の愛が人間の愛に先だってあるからです。このことは第一ヨハネ4章9ー11節でも言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」

神の愛が先立ってあって我々人間がそれを受けて愛する、そういう循環があります。ガラテアの「愛を通して作用する信仰」というのはまさにそのことです。それなのに「愛の実践を伴う信仰」と言ってしまったら、神からの先立つ愛がなくなって、人間の能力・実力としての愛だけになってしまいます(後注1)。

キリスト信仰者の隣人愛とその他の人たちの隣人愛は、確かに同じようなことをするので、わざわざキリスト信仰者にならなくても人助けは出来ると思われるかもしれません。しかし、今見てきたように隣人愛の出発点が異なります。キリスト信仰の場合、まず、神がひとり子を犠牲にするくらいにこの私を愛された。だから私は神の御心に沿うように生きていこう、そういう心から出てくるものです。それで、キリスト信仰の場合、何が神の御心に沿うかということが行う愛の内容を決定します。それなので、場合によっては、キリスト信仰者でない方たちと異なる方向に向かう可能性もあるということを覚えておくことは大事と思います。どう異なるかというと、次に述べるように、人々を神に向かって「悔い改める」ことに導くことが射程に入ってくるということです。人を悔い改めさせる隣人愛なんて、そんなのあるか、と思われるかもしれませんが、キリスト信仰の隣人愛はそういうものなのです。

2.悔い改めについて

 次に旧約の日課ヨナ書を見てみましょう。本日の日課の個所の出来事は先ほど読んでいただいた通りですが、少し出来事の背景をお話ししますと、預言者ヨナは神からアッシリア帝国の首都ニネベに行けと命じられます。そこで何をするかと言うと、町は悪と不法に満ちているから神が滅ぼすつもりでいると告げることでした。ヨナは一回目は言うとおりにせず、大魚に飲み込まれたりしますが、二回目は行って、ニネベの住民に神の言葉を告げました。アッシリア帝国というのは、紀元前8世紀にユダヤ民族の北王国を滅ぼし、残る南王国も首都エルサレムを包囲し陥落寸前にまで追い込んだ民族の大敵です。そのような国の首都に乗り込んで神の裁きの言葉を告げたのです。するとどうでしょう、国王から住民に至るまで皆が罪を悔い神に赦しを乞い始めます。それを見た神は町を滅ぼすことを思いとどまりました。ただ、収まらないのはヨナの方でした。町を滅ぼさなかった神に大いに不満で怒りに燃えたのです。

そこで神は、ヨナに神の御心がどういうものかをわからせるために、とうごまの木の出来事を起こしました。砂漠の炎天下にとうごまの木を一夜にして茂らせます。ヨナは葉陰の下でホッとしました。ところが神は一夜にして木を枯らせてしまいます。ヨナはまた神を恨みました。そこで神は言われます。お前は、自分で植えて育てたわけではないとうごまの木がなくなったことをとても残念がっている。罪を悔い改めたニネベの町を滅ぼしてしまったら、私だって同じ残念な気持ちを抱いてしまうのだ(後注2)。

これを読みますと、神というのは、神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることをしても裁かないで赦して下さる、そういう慈愛に満ちた方という理解が生まれると思います。それに対してヨナの方は、神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることをするのは裁かれて当然という、憐れみのない人間の典型に見えます。しかし、ここで忘れてならないことは、ニネベの住民は罪を悔い改めたということです。それで神は裁きを思いとどまったのです。ヨナの問題は悔い改めてもそれを受け入れなかったことですが、それでも、神の意思に反することは裁きに値するということ自体は間違っていませんでした。神も悔い改めがあったから赦しました。もしニネベの住民がヨナの告げ知らせを聞いても悔い改めなかったら、この話は全然違う結末を迎えたでしょう。

 ここで神が赦すということ、裁きや滅びを思いとどまるということにおいて、悔い改めが決定的な意味を持つことを確認したいと思います。悔い改めとは何か?それは、神の意思に反すること聖書にいけないと言っていることに自分は加担してしまったと認めて、神に赦しを願うことです。神から赦してもらうために、人によっては神のご機嫌を宥めなければと儀式を行ったり、掟を守ったりします。ところが、キリスト信仰の場合は、神のひとり子のイエス様が既に償いをしてくれたので、イエス様の償いが本当になされたと信じます、だからイエス様を救い主と信じます、と告白すれば、神はイエス様の犠牲に免じて赦して下さり、これからは罪を犯さないようにしなさい、と言って不問にして下さるのです。

 ここでひとつ厄介なことがあります。それは、人間の心の中には神の意思に反すること聖書でいけないと言われていることが常態としてあるということです。行為や言葉になって表に出なくても、心の中では加担しているということです。イエス様もこのことを指摘されていました。人間は十戒の掟を外面的に守れても、例えば人を殺さなくても、心の中で憎んだり罵ったりしたら同罪である、神の掟は内面の状態まで問うものである、と。そういうことなら人間誰もそのままの状態では神の前に出されてとても大丈夫ではいられません。義なる者と認めてもらえません。だから、イエス様が必要なのです。神の意思に反すること聖書の中でいけないと言われていることを行為や言葉に出さなくても、心の中で持ってしまっている。それで私もあなたも全ての人みんな、神の意思に反し、聖書の中でいけないと言われていることに加担している。だから、私もあたなも全ての人もみんなが本当は神の御前では罪びとなのだ。しかし、イエス様を救い主と信じたからには、神は彼の犠牲に免じて義なる者と見て下さり、御前に出されても大丈夫と扱って下さっている。そのようにして、イエス様を救い主と信じる者は「罪人にして同時に義人」ということ不思議なことが起こってくるのです。

そこで、もし神の意思に反すること聖書の中でいけないと言われていることが心の中に留めておくことに失敗して、行為や言葉に出てしまったら、どうなるか?その時も神は赦してくれるだろうか?答えは、心の中の時と同じようにすれば赦して下さいます。つまり、神さま、私が行ってしまったこと、口に出してしまったことは、あなたの意思に反するものでした、聖書の中でいけないと言われていることでした。イエス様は私の救い主ですので、彼の犠牲に免じて私を赦して下さい。私から義を取り去らないでください。これからはこの行為、言葉を出さないようにする知恵と力と勇気を与えて下さい。そのように祈れば、神は赦し、罪を犯さないために必要なものを与えて下さいます。

罪が行為や言葉に出てしまうことで、相手を傷つけたりすることがあれば、国や社会の法律や規則に従って謝罪や補償をしなければならないということが出てくるでしょう。罰則が度を過ぎた厳しいものがあるかもしれません。そういうのを修正するのは政治の役割ということになります。また、世間が厳しい目を向けたり、「神は赦しても私は赦さない」などと言う人もいるかもしれません。そのような時は罰を受ける人はとても孤独になります。しかし、キリスト信仰では孤独になりません。なぜなら、世間は赦さなくても、赦してくれる神がそばにおられるからです。イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、神との関係は何の変更もないので、そこが慰めと励ましの最後の砦になります。それは難攻不落の砦なので、そこにとどまれば孤独に陥らずに世間の厳しい荒波の中でもなすべきことをできるはずです。

 神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることが表に出ない時、心の中に留まっている時は世間からとやかく言われませんが、神は知っておられるます。それは、後ろめたく落ち着かないことかもしれません。でも、大事なことは、私たちはイエス様のおかげで、罪びとであるが同時に義人にもなっているという事実です。全てを知っておられる神がそのようにしてくれるのですから、心配せず、安心していけばいいのです。

 ここで罪を持つ者が神から祝福を受けられるかということも考えてみたく思います。先ほども申したように、自分は神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることに心の中で加担してしまっていると認め、神さま、イエス様を救い主と信じますから、私を赦して、あなたの御前に出されても大丈夫でいられるようにして下さい、と願えば、この時、罪びとは同時に義人ですので、神から祝福を受けられます。神は人間がそのままの状態では神の意思に沿えないで罪に留まってしまう、そのままの状態では義人にはなれないと知っています。だから、イエス様を介して、罪びとにして同時に義人にして祝福を受けられるようにしたのです。罪が行為と言葉で現れてしまった場合でも、同じように悔い改めをすれば、神から祝福を受ける立場は大丈夫です。そういうわけで、神から祝福を受ける時には、罪びとにして同時に義人ということが確認される必要があります。

 ところが、神の意思に反すること聖書にいけないと言われていることに心が加担していても、それは別に神の意思に反していないとか、反していると言うのは間違っているとか、聖書に書いてあることは大昔の人間の未発達な考えに基づくから現代にはそぐわないと言ってしまったら、罪びとであることを否定することになります。罪人であり同時に義人という神的なバランスが失われます。それは、神から祝福を受けるのに相応しい状態ではありません。この場合は、心の中で罪に加担して、それを罪と認めて神に赦しを願うという場合と大きく異なります。確かに、罪と認める人も認めない人も皆、心の中で加担していることは同じです。しかし、認める人は神に赦しを願い、イエス様のおかげで赦しを得られます。罪が行為と言葉で現れてしまっても、同じようにすれば赦しを得られます。その時、もう行為と言葉で現れないように注意しようとします。ところが、罪と認めない人にとっては罪ではありませんから、行為と言葉で現れても何も問題はなく、問題なのは神の意思とか聖書で言われていることの方が問題になります。

 以上、ニネベの出来事から、神の赦しには悔い改めが決定的な意味を持つことを述べました。そう言うと、あれっ、イエス様は本日の福音書の個所で自分を受け入れなかったサマリアの村を悔い改めなく赦しているではないか、と思われるでしょう。弟子たちは、イエス様に天から炎を送って滅ぼしてしまいましょうと提案しました。あたかもソドムとゴモラのようにです。ニネベの郊外で様子を窺ったヨナもその時を待ったでしょう。ところがイエス様は、サマリアの町がニネベのように悔い改めをしたわけでもないのに滅ぼさなかったのです。なんだ、やっぱりイエス様は悔い改めをしなくても赦しを与えて下さる慈愛があるんだ、旧約の神は厳しいが、さすが新約のイエス様は人間が出来ている、そういうことでしょうか?

先ほども申しましたように、イエス様は、十戒の掟が実現しているかどうかについて心の有り様まで問うた方です。本当は厳しい方です。それじゃ、どうしてサマリアの村に罰を下さなかったのか?イエス様が優しい心の持ち主で憐みに満ちた方だから、という答えではまだ核心を捉えられていません。では何かと言うと、イエス様は、サマリアの村に悔い改める時間を与えたのです。

 どういうことかと言うと、イエス様は、父なるみ神同様、全ての人間が神との結びつきを回復して永遠の命を持って生きられるようにしたい、そのようにして神の国の一員に迎え入れたい、と考えていました。それで、もし反対者をいちいち焼き滅ぼしてしまったら、せっかく罪びとが神の国の一員になれるように十字架にかかってまでお膳立てをしに来たのに、それでは受難を受ける意味がなくなってしまいます。マタイ福音書5章45節で、イエス様は、神が悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせる、と言っていたことを思い出しましょう。なぜ、イエス様はそのように言ったのでしょうか?神は、悪人が悪行をさせるままにまかせる無責任極まりない気前の良さを持ついうことなのでしょうか?いいえ、そうではありません。悪人に対しても、善人同様に太陽を昇らせ、雨を降らせる、というのは、悪人がいつか悔い改めて神の国の一員になれるよう、猶予期間を与えているということなのです。もし太陽の光も与えず水分も与えないで悪人を滅ぼしてしまったら、悔い改めの可能性を与えないことになってしまいます。それだから、悪人の方も、いつまでもいい気になって悔い改めをしないで済ませていいはずがない、と気づかなければいけないのです。もし、この世の人生の段階で悔い改めがなければ、それはもう手遅れで、あとは最後の審判の日に神から、お前はこうだったと監査済みの収支報告を言い渡されるだけです。もし、悔い改めて、イエス様を救い主と信じる信仰に入っていたならば、何も問題ありませんでしたという報告を受けられたのに。

それでは、このサマリアの村はどうだったでしょうか?猶予期間を与えられて悔い改めたでしょうか?それが悔い改めたのです。使徒言行録の8章を見て下さい。ステファノが殉教の死を遂げた後、エルサレムでキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起きました。多くの信仰者がエルサレムを脱出して、近隣諸国に福音を宣べ伝え始めます。その時、まっさきにキリスト信仰を受け入れた地域がサマリア地方だったのです。あの、エルサレム途上のイエス様を拒否した人たちが、イエス様を救い主として信じる信仰に入ったのです。イエス様を救い主と信じることは悔い改めがあって起こるものだからです。これで、なぜイエス様が、村を焼き滅ぼすことをしなかったのかが理解できます。イエス様の考えには、人間が神の国の一員として迎えられるということが全てに優先される、ということがありました。そのことが受け入れを拒否したサマリア人にも適用されました。この時のイエス様は、まさにこれから、人間が神との結びつきを回復させて、神の国の一員に迎え入れられるようにするお膳立てをしに行くところだったのです。

 

3.勧めと励まし

 以上、神の愛についてガラテア書とヨナ書の日課をもとに述べてまいりました。神の愛が私たちの内に満ち満ちてそこから溢れ出ていく位になるためには、私たち人間の側での悔い改めが大事であることを見ました。悔い改めという言葉は、何か人を反省することに追い詰めて苦しい思いをさせるイメージが持たれるかもしれませんが、イエス様を介すると、全然勝手が違い、倒れて伏してしまった人を起こして立たせて最初よりももっと高く上げてくれるものになります。

 兄弟姉妹の皆さん、もし打ちのめされた状態になったら、起き上がる力は全部自分で調達しなければならないなどと思わないで、イエス様を救い主と信じて、父なるみ神に起こしてもらいましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン

 

 

(後注1)参考までに、πιστιςδι’ αγαπηςενεργουμενηの各国語訳を見てみると、英語NIVは”faith expressing itself through love”、ドイツ語(ルター)は”der Glauben, der durch die Liebe tätig ist”、(Einheitsübersetzung)”den Glauben (zu haben), der in den Liebe wirksam ist”、スウェーデン語は”tron, som får sitt uttryck i kärlek”、フィンランド語は”(Ainoana tärkeänä on) rakkautena vaikuttava usko”です。英語とスウェーデン語は似ていて、「愛で表現される信仰

ということで新共同訳の「愛の実践」路線になると思います。フィンランド語訳は様格(rakkautena)使うので意味的には英語とスウェーデン語と同じでしょう。ドイツ語訳はギリシャ語原文をそのまま映しだしています。

 

(後注2 ヘブライ語が分かる人にです)

ヨナ4章11節は、新共同訳では「右も左もわきまえぬ人間」と言って、「わきまえない」が現在の状態になっています。そうすると、わきまえないニネベの住民はわきまえないまま赦されて今に至ってしまいます。しかし、ヘブライ語原文ではלא-ידעとなっていてperfectumです。それで「わきまえない」のが過去の状態であると捉えると、今はそうでないことになり、そうすると、悔い改めがあって赦されたことがはっきりします。このperfektumを過去の意味で捉えていいとする根拠は、すぐ前のところで神がとうごまの木について「お前が労苦せず育てもしなかったלא-עמלת בו ולא גדלתו

を同じperfektumで言っていることによります。ここの意味は明らかに過去です。ヨナととうごまの木の関係と、神とニネベの住民の関係はパラレルになっています。それで、住民の状態も過去の意味と考えられるのです。大体次のような意味になります。「お前は、自分ではなんにもしなかったとうごまの木がなくなってしまったことを残念に思っている。ましてや、以前はわきまえなかったが今は悔い改めたニネベの住民を滅ぼしてしまったら、それは私にとって残念なことにならないだろうか?」 

それから、ヨナ書の最後の神の言葉は否定の修辞疑問文で訳されるのが各国共通のようですが、疑問辞הがつかなくてもそう訳せることについては、北欧で一番権威あるH.S.Nybergのヘブライ語参考書で確認できました(§95b)。実は、私は以前ここは素直に普通の否定文で訳しても問題ないのではないか、例えば「お前はとうごまの木に関して平静を失っているが、私はニネベに関して平静を失わない。ニネベが罰を受けないで済んだことは私にとって何でもないことだ。だって悔い改めたのだから。お前には受け入れがたいことかもしれないが、私は平気だ。」そんなノリを考えたこともあるのですが、権威が「疑問辞なくても疑問文になる」と言ったら、私には権威を無視できる位の所見も勇気もないのでそれに倣います。

 

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