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聖霊降臨後第7主日(スオミ教会 2) 2019年7月28日
創世記18:1~14、コロサイ1:21~29、ルカ10:38~42
説教「神に聴き続ける」
田中 良浩
序 父なる神とみ子主イエス・キリストからの恵みと平安があるように!
1 私たちが毎週、用いている聖書日課は、ご存じのように3年周期のABCと呼ばれる
聖書日課をもっている。ご存じのようにAでは主としてマタイによる福音書を用い、
Bでは主としてマルコによる福音書、そしてCではルカによる福音書が用いられる。
ヨハネ福音書はA、B、そしてCに分散して用いられている。
これらの聖書日課によれば、いずれも前半の暦、大体一年の半分は「キリストの出来事」(待降節、降誕節、顕現節、四旬節、そして復活節)である。ここで私たちはこの日課を 通して、主イエス・キリストによる救いと恵みの出来事を学ぶのである。
続いてその後の暦、一年の後半は、聖霊降臨の出来事、つまり教会の誕生以降、「教会とは何か、そこでの教会生活、信仰生活とは何か
を学ぶのである。言い換えれば、
神の救いと恵みの中で、私たちは「如何に生きるか?」を学ぶのである。
ちなみに今日の詩編15編は冒頭で語っている。
「どのような人が、神の幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか?」と。
つまり、ここに語られている「神の幕屋」とは何か?
◎それは神の家つまり、神の教会、キリストの教会であり、私たちの教会である。
◎使徒パウロによれば、私たちは「神の宮」であるから、私たち自身そのものを意味している。そこで私たちが「日々、如何に信仰に生きるか?
ということである。
2 私たちの家庭では、十数年来、全ルーテル教会共同で発行している「聖書日課」を用い
て毎朝、夫婦で礼拝をしている。私たち夫婦の場合には、家内が当日の聖書を読み、私が
聖書日課の黙想を読んで、お祈りをしている。またその聖書日課には、その編集委員会が
選んだ教会名が記されていて、祈りの対象として選ばれている。
◎このことはこの聖書日課を通して、主のみ言葉に聴き、祈ることができるからである。
◎同時に、記されている教会の宣教のために祈る機会が与えられている。―それがたと
え、知らない教会であっても―その教会のために祈ることは大切である。
ちなみに、先々週、7月16日(火)は、
聖 書 = コヘレト12章 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を止めよ。」
教 会 = このスオミ教会であった!
1
3 今日は、使徒パウロの教えに耳を傾けたい。
コロサイ1章21節~22節には、このように記されている。
「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。
しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」と。
そしてパウロは続いて言います、「(あなたがたは)揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」と力強く教えます。
使徒パウロは、コロサイにある小さな群れに、獄中から手紙を書き送った。
コロサイ地方はAD60年頃の大地震により、大きな被害を受けた。周辺の諸都市の
復興は早かったが、コロサイは発展、繁栄からは取り残された小さな都市であった。
その地域にあるコロサイ教会は、決して大きな群れではなかったであろう。
地震からおよそ20年後、その小さな群れを励ますために書き送られた手紙であろう。それゆえ、1章冒頭、まず「信仰、愛、希望」という言葉が記される。
こうした混乱と閉塞感のただよう状況下で初代教会特有の異端の教えであるグノーシス(哲学者プラトンの影響を受けた霊肉二元論等の教え)や宗教的なタブーや迷信、また哲学的な教えに取り囲まれていた。こういう社会的な状況、宗教的な潮流の中にいる群れに、使徒パウロは信仰的に元気を回復し、励ますように「信仰に踏みとどまり、福音の希望から離れてはならない」と強く語るのである。
さらに積極的に「神の秘められた計画」―異邦人伝道―についての言及もある。
この言葉には大きな意図と、使徒パウロの計り知れない希望が込められている。
現代社会に生きている私たちの教会の現状は、2000年後であっても、同じである!いやむしろさらに悪化していると言えるであろう。
また、このスオミ教会も決して大きな群れではない。むしろ大きな世界都市東京の小さな群れである。この群れが、新たな宣教、伝道と牧会のために、早稲田へと旅立とうとしている。そのために、しっかりと、み言葉に立つ必要があるのである。
<ルーテル教会は伝統的に、そして現在も“みことばに立つ教会”だからである。>
4 さて、今日の福音書は有名な、「マルタとマリア
の物語である。
◎福音書記者ルカの記す、主イエスの伝道の時間的、地理的な経過を見ると、その足跡は現代に生きている私たちからすれば、遠くて想像を絶する。
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ガリラヤの湖に近い町々で、神の国を宣べ伝え、弟子たちとフィリポ・カイザリアへ
行き、そこで弟子のペトロが「あなたこそ生ける神の子、キリストです」との信仰告白をした。(ちなみにガリラヤからフィリポ・カイザリアの距離は50キロ~60キロ以上)。
再びガリラヤに戻り、主はご自身、受難と復活の予告をされたのである。
そこからサマリアを経て、エルサレム近くまで来られたのである。そして弟子たちをさらに72人を町々、村々に派遣し、弟子たちと共に伝道を日々を過ごした。
(ガリラヤの湖周辺からエルサレムまで直線距離は170キロ、歩く行程では200キロ)
主イエスと弟子たちは、心身ともに疲労は頂点に達していたに違いない。
◎主イエスが入られたのは、エルサレム近郊のべたニアという村であった。
そこにはマルタ、マリア、そしてラザロのイエスを愛する兄弟たちが住んでいた。
◎姉のマルタは、宣教のために疲れも極度に達していた主イエスと弟子たちのために
できる限りの食ベ物をもって、一行に奉仕しようとした。それがマルタの出来る
最善の奉仕であった。そのおもてなしのマルタの姿に私たちからも異論はない。
一方妹のマリアは、主イエスの足元に座って語られる言葉に聴きいっていた。
私の推察するところ、マリアの心は大きな喜びに満たされていたであろう!
◎しかしこういう主イエスをお迎えした姉妹の全く相反する姿に、マルタは我慢が出来なかった。
直接主イエスに進言した。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と。
◎しかし、「主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」と。
ここで奉仕の本質を学ぶことは、重要である。自らしている奉仕を、他者がたとえ
無視していても、関わらなくとも異議を申し立てないことである。またその意図に反して他者を巻き込まないことである。そうすることで行っている素晴らしい奉仕は本質と目的を失ってしまうであろう。
「忙しい、孤独の奉仕、助けを必要とする奉仕」を訴えたマルタに、主イエスは
「あなたは思い悩み、心を取り乱している」と語られたのである。
<まさに「忙しいとは、心を亡くすこと」>である。
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◎そして主イエスは言われた、「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
主イエスは、この主の言葉を聴くマリアの姿こそ、何物にも代えることのできな
い主イエス・キリストに従う者の姿であると明言されたのである。
ここで私たちは如何なる状況にあっても、このマリアのように、神の言葉を日々聴き続けることの大切さを学ぶのである。
皆様は、この「マルタとマリアの物語」をどのようにお思いになるであろうか?
主イエスのお言葉、「必要なことはただ一つだけである!」について:-
私は聖書から一つ、二つの関連する聖句を思い起こす。
荒れ野で40日、40夜の断食の後、最初に語られた言葉である。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ、一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)=これはすでに申命記8:3で語られている。
※私はこのみ言葉から
神さまが与えてくださった救済史(それはこの世における私自身の救いの歴史と生活である)において、中心であり、本質であるものは、旧約聖書から新約聖書を貫いて、それは神の言葉である。
使徒パウロの言葉
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち
救われる者には神の力です」(Ⅰコリント1:18)。
※これは使徒パウロの信仰告白であった。また同時に私たちの信仰告白として覚えたい!
◎人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思い
を、イエス・キリストにあって守ってくださるように。アーメン。