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コリント信徒への手紙 第1 9章8~12章
2019年8月4日(日)
私の説教では、コリント信徒への手紙を学んでまいりました。
今日は9章8~12節までです。
今回のテーマは、「働いたら、報酬を受けるのは、当然ではないか」ということです。
パウロは、この事を、モーセの律法のことを引き合いに出してまで言っています。
8~9節を見ますと、「わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。」 モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。この事は私たち人間のためにも言われていることではないか、と言って、耕す者が望みをもって耕し、脱穀する者が、分け前にあずかる事を期待して働くのは、当然です。ましてや、このことは、神様のために働いている、伝道する者についても、言われているのではないでしょうか。
パウロが、この報酬のことについて、これまで、どうしても言っておかねばならない、と思ったからでしょう。
実は、コリントの教会内で、パウロへ批判の言葉をいろいろ言う者がいて、「パウロは、報酬のために伝道していたのではないか」というふうな、悪口として言われていたらしいのです。
パウロはこれに大変憤慨して言っていくのです。「人が働いたら報酬を受けても当然である。」
けれども、パウロは言う。「報酬のために伝道している人はいないのだ。」
パウロ自身は報酬を受けてはおりませんでした。しかし、報酬を受けている伝道者のために弁明しているわけであります。
パウロの本心は、「福音を宣べ伝える、ということは、どういうことか」ということを教えようとするのです。そうしながら、福音の性質を示したいのであります。
大部分の伝道者は教会から、報酬を受けているかも知れません。
しかし、報酬のために、伝道している人はいないのです。
福音というのは、神の恵みによって、救われる事であります。それならば、伝道者の生活の仕方が、それを誤解させることもありましょうし、正しく知らせることも、できるでありましょう。
パウロは、そのためにこれを書いているのであります。
人は、どんな事についても、報酬を求めるものではないでしょうか。
パウロはすでに9章7節で、パウロ流の例を次々と上げています。
自分で費用を出して軍隊に加わる者があるでしょうか。軍隊に加わるとは命を投げ出していくことでしょう。
ぶどう畑に行く者は、その実を食べることではないでしょうか。
羊を飼えば、羊の 乳を飲むことでしょう。
そして更に、モーセの律法のことを引き合いに出しました。
モーセの時代だけの事でなく、このことは、自分たち伝道する者についても、言われていることではないでしょうか。
自分たちが、霊のものを与えたならば、肉のものを返礼として返すのが、あたり前のことではないでしょうか。
実はその事こそ、もっと大切なことであるはずです。
しかし、それならば、そういう報酬を求めて、働いているのでしょうか。
断じて違う、とパウロは叫びたいのです。伝道者もほかの商売と同じことをしようとしているのでしょうか。
断じてちがうのだ。
信仰のある者は、当然、自分の力で得たものすら、神の恵みとして受けとるのではないでしょうか。
それどころか、報酬を受けるこの体、この心も、神から与えられたものであるはずであります。
それならば、ここに、人間の権利のように書かれている事は、実は、神のご配慮を語っているのです。
穀物をこなして働いている牛は、権利の事など、考えていないはずです。
それは、神が、その事をお望みになるのであります。
それなら、神のお望みにあるのと、人間とを、同じように扱う事は、できないはずであります。
つまり、もう、神の霊の世界の事柄です。
人間には、そのような権利が与えられているように見えます。人が働いた分、報酬を受けてもいい権利がある。
そのように言えるでしょうが、実は、それも神から与えられているにすぎません。
ですから、人間は、そういう要求めいたものを持ちながら、無償の働きを尊いものとするのではないでしょうか。何も要求せずに、人のため、働く事こそ望ましいと、考えるのではないでしょうか。実にりっぱなことです。
しかし、現実には、例えば教会の牧師は、無償の働きで、何も食べずには、生きていけません。
パウロは1人身で伝道しました。それに、自分で食う分は、自分で他に働いて生活して、その上、伝道していきました。
教会の牧師の中には、独身者ばかりではありません。
教会のほとんどの牧師は、牧師夫人と2~3人位の子供、といった、家族を養っていかねばならない。食べるだけの牧師の給料では、子供の教育、教養、文化的な生活は、ほとんどできません。
現実の教会の牧師給の一覧表を見たら、とてもなげかわしい、きびしいものです。
パウロは申します。
人が働いた分の報酬は当然受けるものである。
伝道者は、報酬を得ようと、福音の伝道のために働いているのではない。
ただただ、主に召されて、すべてを神様の恵みのうちに、ゆだねきって、生かされていくのであります。主が共にいて下さる希望があるのです。
<アーメン・ハレルヤ>