説教:田中良浩 牧師

 

聖霊降臨後第11主日(スオミ教会 4)     2019年8月25日

イザヤ66:18~23、ヘブライ12:18~29、ルカ13:22~30

説教 「神の国の宴会に招かれている」

 

序 父なる神さまとみ子主イエス・キリストからの恵みと平安があるように!

 

1 今日の詩編117編は最も短い詩編である。しかし重要な詩編である。

  「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。

  主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。

 

  

  これは旧約聖書の時代、聖会つまり礼拝を開始する際、祭司が、その開始を呼びかける言葉、賛美の言葉として用いられてきた。

  ①イスラエルの民のみならず、すべての国よ、すべての民よと繰り返し世界の国々、世界の民に主への賛美、礼拝を呼びかけている。

  ②この詩編は単純、素朴に、礼拝の司式者が:

先ずすべての人々に、その日毎の生活に「神の豊かな慈しみ、恵み」が 

与えられていることを告げる。

さらにそのために「主のまこと、その真実は永遠である

言い換えれば「主は、最後まで決してあなたを見捨てない」と歌う。

   ◎ハレルヤは、アーメンと共に、会衆の神への賛美と感謝の応答の言葉である。

   ◎今日のこの礼拝を、時代から時代へと私たちを導く神の民の礼拝に    連なる礼拝として、また大きな過渡期にあるこのスオミ教会の礼拝を今神さまの恵みの中に守っていることを感謝をもって確認したい!

 

2 さて、今日の福音書の日課にはその冒頭に 「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。」(ルカ13:22)とある。

  これは主イエス・キリストの生涯が、

第一に、神の国を宣べ伝えること、宣教であったこと。

  第二に、その目的は、エルサレムにあることを語っている。

  さて、主イエスの宣教の歩みを振り返って見よう。

  1. 先ずフィリポ・カイザリアでの出来事(ルカ9:18~27)。

そこでペトロは、「あなたこそ神の救い主である」と信仰告白した。

それに基いて、主イエスによって教会誕生の予告なされ、その直後、

主イエスは、第一回目の十字架と復活を予告された。

  1. この直後が、主イエスの山上の変容である。(ルカ9:28~36)。

それは栄光に輝く神の国到来の前触れである。そしてその直後から、

主イエスの歩みは『エルサレム』を目指すものとなった。

  1. 異教の神(バアル)礼拝の地サマリア訪問(ルカ9:51~55)。

主イエスと弟子たちは共にサマリアの村を訪ねたが歓迎されなかった。

しかし、再び主イエスの『エルサレム』行が、確認されている。

  1. 宣教の強化、進展が図られた(ルカ10:1~12)。

12人の弟子に加えて、主イエスは72人の弟子を宣教に派遣する。

ここには宣教の緊急性と必要性がしるされている。

  1. 主は、宣教の初心に立ち返ることを求められた(ルカ13:1~5)。

洗礼者ヨハネと主イエスの宣教開始の言葉:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」の言葉の想起である。

<繰り返して、主イエスは悔い改めの必要性を語られた!>

  1. そして今日の日課の冒頭で、3回目のエルサレム行が確認される。

イエスは・・・『エルサレム』へ向かって進んでいた」のである!

 

  ◎この経過(プロセス)において明らかなことは、繰り返して主イエス・

キリストは、「エルサレムに向かっていた」ことである!

   第一にエルサレムは「十字架と復活の出来事」が生起するところである。

   ちなみに、ヘブライ語で、エルは神、サレムは平和、平安である。

 

    第二にエルサレムは神の平和(シャローム)の成就、実現する都である。

    イザヤの預言(52:1)には聖なる都として描かれ、預言されている。

    今日のヘブライ12:22には、生ける神の都、天のエルサレムとある。

    JSバッハ:カンタータ140番「起きよ、夜は明けぬ」(教会讃美歌137)  は神の国到来の備えの歌。「われら喜びの宴、晩餐を共に祝おう!」。

3 今ここで、私たちは時には、自らの人生の振り返りの必要があるであろう。

  ◎Pゴーギャンという画家の人生を閉じる前に描いた有名な絵がある。

   私たちは12年前ボストン美術館で観た。日本でも10年前東京国立近代 美術館で2か月半展示された。各方面に大きな影響を与えた。

   縦が139.1、横が374.6cmの壮大な絵である。

   その絵の右上には「我々はどこから来たのか?」、「我々は何者なのか?」

   そして「我々はどこへ行くのか?」との言葉が記されてある。

   <その主題のもとにPゴーギャンは、人生の縮図を描いている>

   ◎この場合、私たちは他者のことではなく、自らの人生について問うこと

    が求められている。

    特に、キリスト教信仰にあって生きている私たちである。

    M.ルターは「神のみ前で」(coram deo)という言葉を重視した。

    私たちは多くの場合、「人の前で」の自分を、気にする。・・・・・

    しかし、すべてをご存じの「神のみ前で」自らを省みる必要がある。

   ◎神のみ前で、今の自分を省みて、自分は一体どこから来たのか?、何者なのか?そしてどこへ行こうとしているのか?問う必要がある!

   ◎主イエス・キリストは常に、エルサレムに向かわれた。

これから私は、どこへ向かおうとしているのか?

 

 

4 さて、神の救い、神の国の実現を目指す中で、主イエスは言われた:

  「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」(ルカ13章4節)と。

  ルカ福音書では、「狭い戸口」とある。マタイ7章14節の門と同じである。

  ヨハネ10章7節で、主イエスは「わたしは羊の門」と言われる、さらに

  10章9節では、「わたしは門である。わたしを通って入るものは救われる」

と断定的に言われる。神の国に招かれるのは、主イエスによるだけである

 

  しかし、神の国への歩みは、困難、試練がある!と教えられる。

  何故か?その門を入り、その与えられた道を歩むことは、人間の知恵、知識また経験からくる常識的な判断をはるかに超えるからである。

                 3

  それゆえに、しばしば困難があり、迫害があり、試練がある。

  十字架を前にした弟子たちの姿を見れば明らかである。「弟子たちは皆、

イエスを見捨てて、逃げ去った」(マタイ26章56節)のである。

  そこには信じる者の、不信もあり、不服従もあり、裏切りさえもある!

  このような主イエスへの

服従にも拘わらず、主イエスの門を入り、その道を歩む者を主イエスは決して見捨てることをしない。祝福が約束される!

 

  そしてその行く先は、聖なる都、エルサレムである。今日の使徒書の日課

  ヘブライ12章22節によれば、「あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり」であり、そこにいますのは新しい契約の仲保者、イエス」なのである!

そこに繰り広げられるのは、祝福に満ちた「神の国の祝宴!

なのである。

 

  ◎私は定年直後に、ELCA(アメリカ福音ルーテル教会)からのお招きを

   受けて、ハンティントンビーチの教会で4年半滞在した。

   その時に、Sさんという沖縄出身の婦人のアメリカ人の夫が末期癌と宣告

されその牧会と葬儀を委任された。その方は海兵隊の出身で、沖縄に滞在 

した。除隊後、長年かかって大学で学んだほどの誠実な努力家であった。

   末期が近づいた時に、彼は「一つ頼みがある」と言った。彼の姉はカトリック教会のシスターであったが、葬儀の時に歌った賛美歌を私の時にも

   歌って欲しい、という。調べると讃美歌481(さかえに輝く)である。

   ヨハネ黙示録7章9節以下参照。神の都エルサレムでは白い衣を身に つけた大群衆が、棕櫚の葉を打ち振り、神と小羊への賛美を歌う。

   彼が姉とこのような信仰を共有していたことに感動したのを覚えている。

 

  今日の説教の終わりは、ヘブライ人への手紙の最後の部分に記されている 祝福の言葉(13章20節、21節)で終わりたい。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

 

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