お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
聖餐式:木村長政 名誉牧師
聖霊降臨後 第12主日 (緑)
コリントの信徒への手紙 10章6~13節
2019年9月1日(日)
今日の聖書は、コリントの信徒への手紙 10章6~13節です。
前回10章になって、パウロは突然モーセの話を持ち出しました。[私たちの祖先は、皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられた。]
モーセが、イスラエルの民を、奴隷の状態にあったエジプトから、脱出させた。
これはイスラエルと神との歴史、を述べてきました。神が全人類の中でも、特に、イスラエルという民族を選んで、神の業をなしていかれたのです。
ところで、そのイスラエルは、神の前に、いろんな意味で、罪を犯してしまうのでした。罪を犯したというのは、自分たちの事は自分だけで何とかできるようになると言う事、別に神等と関係なしでいけるのだと、思ってしまいます。
しかしこれは、神の前に於いては罪を犯したという事です。
10章5節には「彼らの大部分は、神の御心に適わず荒野で滅ぼされてしまいました。」とあります。罪を犯したのなら、神の罰があるのであります。
しかし、ここに、事はそれだけではありませんでした。私たちの思いもよらない、神の真理の世界が示されていきます。イスラエルが罪を犯したことは、この民の中の神の背き、人間の欲、深い問題でありますね。ところがここに最も心を用いられたのは、神様でありました。
彼らは、たしかに、神に対して罪を犯したのでした。神はモーセを通して、様々の律法も与えられ、それによって、罪を犯してしまう自分たちに気づかされたのでありました。
しかし、もう1つの事がありました。彼らの罪は、神に対することであっただけでなく、その罪も又、神が支配しておられたのであります。
もう少し、ふみこんで申しますと、これは、神がすべてを支配しておられ、罪をさえ、支配される。それだけでなく、このように、神が支配されるのは、その罪さえも神の 御業のために用いられる、ということでありました。
だから聖書に記されたのです。
神の救いのために、いましめとして、神が用いられるのであります。
これはすごいことでありますね。
例えば、前の者が何か失敗したり、しかられたり、きびしくそのとがや失敗をとがめられる、それを見て、自分は前の者のやぶれを教訓にして、そして、自分はあーにはならないぞ、といった程度の話ではありません。
1つの例として、エジプト脱出の話をしたいのであります。イスラエルの民はエジプトを出る時、それはもう大変で、着の身着のまま、そこいらにある食料をもてるだけ持って、にわとり、やぎも羊もみんないっしょになって、何万という民が互いに助け合いながら旅に出ます、が、やがて、食べるものも水もなくなって、つぶやきや不満が起こります。どこへ向ってのがれて行くのかわからない。
とうとう行きついた先は紅海でした。海です。民はモーセに、ののしり、迫ります。モーセは両手を
天にかかげて祈るのであります。そうすると目の前の海が二つにわれて、そこに道ができたのであります。モーセにもわからない、神のみ業が海の道を開いたのです。
イスラエルの民は、海の中をわたって、苦難をのがれることができた。
いったい誰がこのようなことが起るのを想像したでしょうか。
神様は、御自分の御業のために、どんな事でも用いて、私たちには、測り知れないような事を神がなさる、ということであります。神の支配であります。
更に、神がそのようになさったことは、信仰を持った者でなければ知ることはできない。
なぜなら、これは、信仰を持った者のために与えられることだからであります。
もっと言えば、神の支配が一層広く及ぶため、だからであります。
イスラエルの民が神の前にした事すべてが、信仰者には心に刻んでほしい大事なことでありますから、聖書に書かれたのであります。
それは、聖書を読むことのできる者、すなわち、信仰を持っている者に対して、訓戒と警告とを与えるためであったのです。
信仰を持たない人にはわからない。
パウロは、コリントの教会の中で起こっている大変な問題を、具体的に数字を上げ、赤裸々に悔い改めをうったえています。それが6節~10節までにパウロが書いているとおりです。読むだけでわかります。
6節[これらの出来事は、私たちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、私たちが悪をむさぼることのないために、彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらな事をした者は、一日で2万3千人倒れて死にました。又、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなた方はそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。これらの事は前例として彼らに起こったのです。]
そうしてパウロは、これまで延々と述べてきたまとめとして、11節に記しています。「それが書き伝えられているのは、時の終りに直面している私たちに警告するためなのです。」
世の終りに臨んでいる者たちのためと言うふうに記しています。
自分が世の終りに臨んでいるという事は、信仰がなければ分からないのです。初代の教会の人々には、このことが特に強く感じられていたと思われます。彼らはこの世の終りがやがて来ると待望していたのです。
世の終りに臨んでいる、というのはどういうことでしょう。
はじめの教会の人々は、主がもうまもなくおいでになると信じていました。その時が世の終りである、と思っていました。ですから、世が終りであるというのは、ただこの世のすべてが終わってしまうという事だけでなく、救い主がおいでになる時ということであります。
この時から救いが完成するのである、ということなのです
神様から与えられている救いが、完成する時であります。
ナザレで30年をすごされたイエスは、ガリラヤへと出てこられ、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」と叫ばれて、わずか3年間、イエス様はひと時もおしまず、福音を語り、あらゆる所で病人をいやし、奇跡の業を行われた。12人の弟子たちは毎日、一瞬たりとも離れず、イエスがあらわされた神の国を示された。にもかかわらず、彼らは理解できないまま、イエスは十字架上に死をもって限りない神の愛を示された。どれもこれも、すべては完全ではない未完成のままで、彼らのこの世では、幻を見ているようでありました。ちょうどくもりガラスを見ているようでよく分からない。
しかし、終りの時、救いが完成するのである。不充分であった未完成がすべて完成するのであります。
神の時の中で、神の世界のすべての真理が見えてくる。深い深い無限の神の愛が存分にあふれて、私たちのすべてをつつんでくれる。ゆるしの愛、いたみの愛からすべてつつみこんでよろこび合う愛が分かる。すべてが完成する時なのです。
私たちは、皆、死が終りではなく、新しい生活が始まる。
この時から、新しい時代が始まるのであります。
<アーメン・ハレルヤ>