説教:木村長政 名誉牧師

 コリント信徒への手紙 10章14~18節

                                2019年1013日(日)

 

 今日の聖書は、コリント信徒への手紙101418節までであります。前回の聖書のことばの事を少しふれていきます。

 前回では、10章になりまして、「兄弟たち、次の事は、是非、知って欲しい。+.」と書き出して、モーセによる、エジプト脱出という大変な出来事を語っていきます。5節を見ますと、「彼らの大部分は、神の御心に適わず、荒野で、滅ぼされてしまいました。」とあります。

 神が選び給うた民が、神の御心によって導いた、にもかかわらず、大部分は滅ぼされてしまいました。そうして、「これらの出来事は私たちを戒める前例として起こったのです。」と書いています。

 この後、パウロは、コリントの教会の中で起こっている、いろんな、よろしくない問題を具体的に延々と述べてきました。

 そうして、結論的に、時の終りに、どうなるか、と言う、希望にもふれたのでした。

 さて、今日の御言葉は、14節以下です。

 「私の愛する人たち、」と、教会の兄弟たちに、熱い思いで訴えていきます。

 こういうわけだから、『偶像礼拝を避けなさい。』 又、又、これまで、この手紙に書いてきた、テーマであります。

 ですから、コリントの教会には、それ程、とても複雑でむつかしい根強い問題がいっぱいあったからでしょう。

 パウロは、これと戦っている。コリントの町中、いろんな偶像が氾濫している。教会の人々の中にも、偶像に供えた物を食べねばならないような状況がたびたびあったのでしょう。そういう時、信仰ある彼らは、悩みました。どうしたらいいのだろう。

 供えられた食べ物の事だけでなく、結局は、偶像礼拝の問題でありました。

 いろいろな議論の果てに、パウロは「偶像礼拝を避けなさい」と言うのでありました。

 一番大事なことは、キリストによる信仰生活は、真の神を拝む生活をする、ということであります。

 十戒の第1番目の戒めは、「あなたは、わたしのほか、何ものをも、神としてはならない」とあります。(出エジプト記203

 それから、私たちが、いつも祈ります主の祈りの冒頭の言葉は「天にいます、私たちの父よ」と、呼びかけています。神様のことを、天にいらっしゃる父よ。と呼びかけることによって、神は私たちのまことの父であります、と言っているのです。

 それなら私たちは、神の、まことの子です。

 ちょうど、愛される子供たちが、その愛する父に向かって、何の遠慮もなく、無心に、信頼しきって物事をたのむ、、何の心配もなく、たより切っているのであります。

 神に対して遠慮しないで、絶対的信頼をもって祈るように、とすすめておられます。

 これがルターが、小教理問答で解説している言葉です。

 すなわち、神を信頼しきって拝むこと、を強調しています。信仰生活とは、神を神として、拝むことであります。

 ところが毎日の生活の中には、神を神と思わない、別に関心を持たないですむんだと考えてしまいます。或いは、神でないものをいつのまにか最も大事にして、神のように拝んでいる、そういう誘惑がいっぱいあるのです。

 それで、パウロは、くどいように「偶像礼拝は避けなさい。」と言っています。

 ここでの「避けなさい」という言葉は、いかにも弱いような気がします。

 なぜ、偶像礼拝と戦いなさい、とか、偶像礼拝を攻撃しなさい、と言わないのか。と思う程であります。もとの字は、逃げるという字であります。偶像礼拝から逃げなさい、と言うのであります。

 「逃げなさい」と言う中には「偶像礼拝に参加するな」或は、「警戒せよ」、或は、「逃げ出せ」といった意味等、いろいろ訳するものもあります。

 しかし、偶像礼拝というのは、ある意味では、人間に生れついたようなものであります。

 偶像礼拝は、結局、自分が大事、自分中心、自分を神のようにしてしまうのです。

 人間はみな罪ある者である、と聖書は言います。罪があるというのは、神を神としない、神でないものを神とすることでしょう。

 それなら、偶像と戦うということは、どういうことになるのでしょう。

 それは、偶像を敵として戦うよりは、真の神を、神として礼拝する、ということの方が大切なことになって来るでありましょう。

 神を神として拝む生活を励む事であります。

 それができれば、どこにでもある偶像礼拝の危険から、まぬがれる事が出来るのであります。

 偶像礼拝にはかかわらぬように、逃げることが最も大切なことなのであります。

 この重要な問題について、パウロは決して、押しつけがましいことを言うつもりはありませんでした。

そのためわざわざ一言、つけ加えているのであります。「賢明なあなた方に訴える。わたしの言うことを自ら判断してみるがよい」というのであります。彼らの理解を求めていくことから、すすめていくのであります。

 真の神を拝む生活で、何を食べ、何を飲むことがよいのか。そこでパウロは、話を一転して、キリストの血を飲み、キリストのからだを食べるという、聖餐の話へとすすめるのであります。

 聖餐にあずかることが、真の礼拝になる、ということであります。

 パウロは自分たちにも飲むべき杯がある、と申しました。それを、私たちが祝福する「祝福の杯」と申しました。

 聖餐というものがどういうものか、もうわかっているということです。

 パウロはここで、これは祝福の杯で、私たちが祝福するものである、と言いました。この杯は、神が、私たちを祝福するためにお与え下さったもので、私たちもそれをいただくことで、それを祝福する、というのであります。

 複雑な言い方ですけれども、これは、実際には、その杯をいただく事にちがいありません。しかし、それをただ、いただくと言わないで祝福する、というのであります。

 それは、つまり、祝福にあずかるということです。

 このように、杯を受けることは、キリストの血にあずかるということです。キリストの血にあずかって与えられた救いを、一層確かなものにするということであります。同じことが、私たちのさくパンについても言えるのです。

 このパンも、祝福のパンであり、私たちはそれを祝福するのであります。このようにして、キリストのからだにあずかるのであります。

 そうであれば、杯を飲み、パンをさく聖餐は、それによって私たちがキリストに救われ、キリストと結びつく者となることであります。

 そのようにして、偶像への供え物とちがって、同じように飲むもの、食べるものでありますが、全くちがった神礼拝をすることになるのであります。

 礼拝とは何か、ということから、ここでは、まことに具体的に、聖餐こそは、礼拝の中心であり、正しく聖餐が行われるところにのみ、礼拝があることを示しているのであります。

 17節になりますと、分かりにくいようですが大切なことが語られていきます。

 17節の前に<なぜならば>という字があって、その理由を17節でのべているわけです。

 分かりにくいのは、「偶像礼拝を避けなさい」と、強調していることと、キリスト者が聖餐式にあずかることを持ってきている。それがどうつながるのか、よくわからない。

 ここには、まず、パンは1つであると言っています。そのパンは言うまでもなく、私たちのさくパンであり、キリストのからだであります。それに対して、私たち信仰者は大勢です。それなら、ここで示される事は、ひとりのキリストと、多くの信者という事です。

 しかも、多くの信者が、パンをさくことによって、このひとりのキリストとひとつになる、ということなのであります。

 私たちは、多くいてもキリストのからだにあずかることによって、ひとつになるのであります。

 しかもそれは、ただ1つにまとまるということではなくて、キリストのからだにあずかるということなのであります。それが<なぜならば>と言われていることで示されている理由なのであります。

 そうすると、これが理由としてあげられているのは、私たちが、キリストのからだにあずかることの意味をはっきりさせたいということにちがいありません。

 キリストのからだにあずかることは、キリストの血にあずかることと共に、それによって、私たちが救われている保証を得ることであります。聖餐式のたび毎に、キリストに救われていることを、確信する。これが信仰生活の中心でありましょう。

 しかし、ここには、もう1つの意味が書いてあるのです。

 それは、私たちは大勢だが、キリストのからだはひとつである、ということが示していることであります。キリストのからだにあずかる者は、キリストのからだの一部になるのであります。

 ここに、信仰のまことに不思議な面がある、ということを忘れてはならないと思います。

 私たちはこうして教会生活をしているのですから、大勢いても、ひとつにまとまる必要があると考えています。そのため、いろいろな工夫をする教会もありましょう。しかし本当は、もし聖餐によってキリストのからだにあずかっていれば、それだけで、私たちはもう1つになっているのであります。お互いに名前は知らなくても、話をしたこともなくても、私たちはもうひとつなのであります。それは、キリストのからだによることであり、それに基づく信仰によることであります。

 キリストのからだにあずかることによって、ひとつにせられていることを信じるのであります。

 これは、偶像への供え物の話から始まっているのであります。

 そこでは、偶像への供え物を食べるということと、聖餐において、キリストのからだであるパンと、血である杯にあずかることとでは、ここに決定的なちがいがあることが分かってくるのです。

 偶像への供え物は、ただの供え物に過ぎない。

 しかし、キリストという食物は、私たちをキリストの体である教会にするのであります。

 そういう形において、偶像礼拝を避けるのであります。

 そうしてみると、偶像について議論したり、何らかの意味で戦うよりも、実は、キリストに救われて、そのからだである教会に連らなることで、すでに「偶像礼拝を避けている」ことになるのであります。

 誰れが、このような戦いを予想したでありましょうか。それは戦いというよりは、信仰者の生き方なのであります。

 教会がこのような意味と力とを持つものであること。

 聖餐がどういう力を持っているのか知れば知るほど、神様からの恵みはすばらしいものであります。                <アーメン・ ハレルヤ>

 

 

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