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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日のマタイ福音書の箇所は、旧約聖書の預言が3つ成就したことについて述べています。
初めに、2章15節にある言葉「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」。これはホセア書11章1節にある神の言葉です。イエス様親子はヘロデ王の追っ手を逃れてエジプトに避難したが、王が死んだのでイスラエルの地に帰還できました。マタイはこの出来事がホセア書の預言の実現とみました。あるいは、初期のキリスト教徒たちがそう見て、マタイもそれに倣って記したのかもしれません。
二つ目は、2章18節にある言葉「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。これはエレミア書31章15節の引用です。ヘロデ王が赤ちゃんのイエス様を殺そうとして、どこにいるかわからないのでベツレヘム周辺の2歳以下の子供を皆殺しにするという残虐な事件が起こりました。マタイあるいは初期のキリスト教徒たちがエレミア書の預言はこの事件を指しているとみました。
三つ目は、2章23節にある言葉「彼はナザレの人と呼ばれる」。実は、旧約聖書の中にこれと同じ預言の言葉は見当たりません。ただ、明らかなことは、ナザレという言葉は、「若枝」を意味するヘブライ語の言葉ネーツェル(נצר)と繋がっています。「若枝」というのはイザヤ書11章1節にでてくる有名なメシア預言「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち」のそれです。そして、同じイザヤ書の53章には人間が受けるべき神の罰をかわりに受けて苦しむ神の僕についての預言があります。イエス様の十字架の死はその預言の成就であったと理解した人たちは、彼が「ナザレの人」と呼ばれていたことを覚えていれば、エッサイの若枝ネーツェルはイエス様のことを指すと分かったでしょう。(「ナザレ」については、民数記6章1ー21節や士師記13章5、7節にある「ナジル人」との関係を考えることも可能です。ただ、これらは預言の言葉ではないので本説教では立ち入りません。)
ところで、本日の福音書の中で最も難しいことは、ベツレヘムの幼児虐殺の事件と思います。どうしてかというと、一人の赤子を救うために大勢の子供たちが犠牲になったことに納得しがたいものがあるからです。その赤子は将来救世主になる人だから、多少の犠牲はやむを得ないと言ったら、それは身勝手な論理でなはないか、救世主になる人だったら逆に自分が犠牲になって大勢の子供たちに危害が及ばないようにするのが筋ではないか、という反論がでるでしょう。ここでひとつ勘違いしてはならないことは、幼児虐殺の責任者は神ではなくヘロデ王ということです。神はイエス様をヘロデ王の手から守るために天使を遣わして、東方の学者たちがヘロデに報告しないように導きました。神はまた、イエス様親子をエジプトに避難させました。学者たちが戻ってこないのに気づいたヘロデ王は、さては赤子を守るためだったなと悟って、ベツレヘム一帯の幼児虐殺の暴挙にでたのでした。天使がヨセフに警告したことは「ヘロデがイエスを殺すために捜索にくる」というものでした。それなのに、ヘロデは捜索どころか大量無差別殺人の挙にでたのでした。神の予想を超える暴挙に出たのです。
そう言うと今度は、神の予想を超えるとは何事か!神は天と地と人間の造り主で全知全能と言っているのに、ヘロデの暴挙も予想できなかったのか?大勢の幼子を犠牲にしないで済むようなひとり子の救出方法は考えられなかったのか?そういう反論がでるかもしれません。この種の反論はどんどんエスカレートしていきます。神はなぜヘロデ王のみならず歴史上の多くの暴君や独裁者の存在を許してきたのか、なぜ戦争や災害や疫病が起こるのを許してきたのか、なぜ人間が不幸に陥ることを許してきたのか、もし神が本当に全知全能で力ある方であれば、人間には何も不幸も苦しみもなく、ただただ至福の状態にとどまることができるはずではないか等々の反論がでてくるでしょう。
そういうわけで、本説教では、神は悪に対して力はないのか?もしあるのなら、どうして悪はなくならないのか?そうしたことを本日の日課をもとに考えていきたいと思います。
もし神が本当に悪に対して力ある方ならば、人間は悪から守られて不幸も苦しみもなく、至福の状態にとどまることができるではないかという見解に対して、次のような指摘をすることが出来ます。
聖書によれば、天地創造当初の最初の人間はまさに至福の中にいた。そして、それは創造主の神の御心に沿うものだった。ところが、神の意図に反して人間は自分の仕業でこの至福を失うことになってしまった。この辺の経緯は創世記の1章から3章まで詳しく記されています。何が起きたかというと、「これを食べたら神のようになれる」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は禁じられていた知識の実を食べ、善いことと悪いことがわかるようになる。つまり善いことだけでなく悪いこともできる存在になってしまう。そして、その実を食べた結果、神が前もって警告したように人間は死ぬ存在になってしまう。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」のなかで明らかにしているように、最初の人間が神に不従順だったことがきっかけで罪が世界に入り込み、人間は死ぬ者になってしまったのです。
何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのかと疑問をもたれるかもしれません。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた、全ての人に当てはまる根本的なものを指します。創造主の神への不従順がそれです。世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっており、そこから抜け出られないということの証なのです。
このように人間は神の意図に反して自ら滅びの道を採ってしまいました。それで、人間から不従順をつきつけられた神はどう思ったでしょうか?自分で蒔いた種だ、自分で刈り取るがよいと冷たく突き放したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。最初の人間が壊してしまった神と人間の結びつきを元に戻すために、神は計画を、人間救済の計画を用意されたのです。人間の歴史はこの計画に結びつけられて進むことになりました。神の人間救済の計画は旧約聖書の預言を通して少しずつ明らかにされていきますが、イエス様の十字架の死と死からの復活をもって実現します。そのことは新約聖書で明らかにされていきます。
どのようにして神と人間の結びつきは回復したでしょうか?人間は皆、罪の呪いのために死の滅びに定められている。その呪いをイエス様は全部自分で引き受けて、私たちの身代わりに十字架にかけられて神罰を受けて死なれた。神のひとり子の十字架の上での死が人間にとってとてつもなく大きな意味を持っていることは、本日の使徒書の日課ヘブライ2章でも言われています。神聖な神のひとり子が人間と同じように血と肉を備えた者になったのはなぜか?それは、人間を死の滅びに陥れる力を持つ悪魔を無力化するためであった。そのためには、神のひとり子が犠牲になって人間が陥る死を代わりに死んでもらわなければならない。そこで、その神のひとり子が死ねるためには、神の姿形では無理なので人間の姿形を取らなければならない。こうして人間が陥る運命にあった死をイエス様が代わりに死んで下さり、基本的にはもう済んでしまった。それなので、悪魔としてもこれから人間を陥れようとしても、もう陥れることが出来なくなる状況が生まれました。
そういうわけで、イエス様が人間と同じようになったのは、ヘブライ2章15節で言われるように、生きている間ずっと死に対する恐怖の中にいてその奴隷になっていた者たちを解放するためだったのです。もしイエス様が人間の形をとらず神のままでいたら、神罰を受けたとしても、それは見かけ上のことで痛くも痒くもありません。人間として受けたので本当の罰受けになって、人間の罪を償うことが出来ました(17節)。ヘブライ2章18節で言われるように、イエス様は神のひとり子でありながら自分自身人間として試練を受けて苦しみました。それがあるので、彼は試練を受けている人たちを助けることが出来るのです。痛くも痒くもなかったら、試練を受けることがどんなことかわからず、何をどう助けてよいかわからないでしょう。イエス様は神のひとり子でありながら、わかるのです。
イエス様の十字架の死が起きたことで、罪の呪いから解放された、悪魔の力が働かない状況が生み出されました。さらに、父なるみ神にとって、ひとり子を陰府の中に留めておくことは認めがたいことでした。それで彼を3日後に復活させました。これにより、死を超えた永遠の命が打ち立てられ、その扉が人間に開かれました。ただし、悪魔は人間を死に陥れる力を失ったとは言え、人間の側で死を超えた行先が決まっていないとまた引きずり込まれる危険があります。しかし、行先も確立しました。それで、悪魔にとっては二重の打撃となりました。
しかしながら、今度は人間のほうが、そうした死に至らない状況、永遠の命に導かれる状況、そうした状況に人間が入り込まなければなりません。そうしないと、神がイエス様を用いて完成した救いは人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたらその確立した状況の中に入れるのか?それは、「2000年前に神がイエス様を用いてなさったことは、実は今を生きる自分のためでもあったのだ」とわかって、イエス様を自分の救い主と受け入れて洗礼を受けることです。洗礼を通してイエス様がして下さった罪の償いを純白な衣のように被せられる。そうするとと、もう呪いは近寄れません。罪の償いを纏っているので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。罪を赦されたのだから、神との結びつきが回復しています。もちろん自分の内には罪が残存しているが、被せられた罪の償いがどれだけ高価で貴重なものであるかがわかれば、もう軽々しいことは出来なくなります。あとは、この高価な衣をしっかり纏って罪を押しつぶしていきます。この世を去って神の御前に立たされた時、そのしっかり纏っていたことを認めてもらえて、今度は神の栄光に輝く復活の体を与えられます。
このようにキリスト信仰者は、永遠の命に向かう道に置かれてそこを歩んでいきます。神との結びつきがあるので、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと導きを得られます。順境と逆境の両方があるので、苦難や困難もあります。それは詩篇23篇でも言われています。「我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」と。イエス様を救い主と信じていても「死の陰の谷」進まなくてはならない時がある。しかし、イエス様が御言葉を通して、聖餐を通して、祈りを通して私たちと共におられるので災いを恐れる必要はない。イエス様の衣をしっかり纏って進む道は復活と永遠の命に向かっていることに変更はない。
以上申し上げたことから見えてくるのは、世界に悪と不幸がはびこるのは神が力不足だからというのは、キリスト信仰の観点では本質的ではないということです。悪と不幸がはびこる世界に対して神が人間の救済計画を用意しそれを実現した、そして人間一人一人がこの救済に与れるようにと手を差し伸べている、これが真理です。このことがわかれば、神が何々をしてくれなかったとか、何々ができなかったということは悩む問題ではなくなります。神がこの私にこんなにも大きなことを成し遂げて下さったということの方に目が向いて、自分が永遠の命に向かう道に置かれていることに気づきます。悩むよりその道を歩むようになります。
終わりに、キリスト信仰にあっては、不正義がなんの償いもなしにそのまま見過ごされることはありえない、正義は必ず実現される、ということを強調したく思います。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、遅くとも必ず次の世で償いがなされる。黙示録20章4節に「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。続いて12節には、その次に復活させられる者たちについて述べられており、彼らの場合は、神の書物に記された前世の行いに基づいて、神の御国に入れるか炎の海に落とされるかの裁きを受けることになっています。特に、「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海となっています(15節)。天地創造の神が造り上げたものや与えて下さるものに対して、またそれらを受け取った人たちに対して酷い仕打ちをする者たちの運命は火を見るよりも明らかでしょう。ヘロデ王の行いもこの観点から判断されます。
人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを示しています。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならないという現実があります。それなのに、来世で全てが償われると言ってしまったら、来世まかせになってしまい、この世での解決努力を軽視することにならないかと言う人もいるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うようにと、つまり神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。それなので、たとえ解決が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合であっても、この世にいる間は、神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければなりません。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決をもたらすことが出来ない時もある。しかし、その解決努力をした事実を神はちゃんと把握していて下さる。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さいます。そして、神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は後で何百倍にして埋め合わせて下さいます。それゆえ、およそ人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に遠くても、無意味だったというものは神の目から見て何ひとつないのです。神がそういう目で私たちのことを見守って下さっていることを忘れないようにしましょう。
ところで、キリスト信仰に炎の地獄とか裁きや罰の考えが強くあるのは、多くの人にとって意外に思われるかもしれません。「あれっ、キリスト教ってたしか赦しの宗教じゃなかったの?」と言われるかもしれません。その通り、キリスト信仰は先ほどもお話ししましたように、罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとはどういうことかと言うと、まず、この私にかわって命を捨ててまで神に対して罪の償いをしてくれたイエス様にひれ伏すことがあります。これと併せて、神に背を向けて生きていたことを認めて、これからは神のもとへ立ち返る生き方をしようと方向転換の悔い改めをすることがあります。方向転換もなしイエス様にひれ伏すこともなしでは赦しはありません。そういうわけで、どんな極悪非道の悪人でも、まさにこのような神への立ち返りをすれば、神は赦して受け入れて下さいます。たとえ世間が赦せないと言っても、神はそうして下さるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン