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今日は昨年からの続きで、コリント信徒への手紙11章2~16節です。これまでに8章から10章まで、パウロは何について語ってきたかと言いますと、「偶像礼拝」について、異常な程に、しつこく、長々と書いてきました。なぜ、それほど、この問題が重要だったのか、ということです。偶像を拝むうちは、まことの神を拝まない、ということになります。従って、それは、礼拝を正しくしていない、ことになります。それで、パウロは、11章から14章にわたって、「礼拝を中心にした話」を、語っていくことになります。 まず、今日の聖書で、2節から10節までを読みますと、私達の常識では考えられない様なことが書いてあって、全く、おどろかされます。パウロは、いったい、何を言おうとしているのだろうか。
3節を見ますとこうあります。「ここで、あなた方に知って欲しいのは、すべて、男の頭は、キリスト。女の頭は男、そしてキリストの頭は神である。ということです。4節には、男は誰でも、祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、その頭を侮辱することになります。」とあります。 どういうことでしょうかね。そうして、礼拝する時の服装に至るまで、こまかく、パウロは、教会の人々に、教えていることになります。 男と女の頭の上に物をかぶるのかどうかの当時の伝説にもとづいた習慣を 、少し、きびしく教訓として、示しているわけであります。とても、私たちの現代の習慣では、考えられないことであります「あなた方が何かにつけ、私を思い出し、わたしがあなた方に伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。」と、こう言っています。ここで言っている「伝えられた教え」というのは、少し難しく言えば、伝統であります。それは引き渡されたものであります。 教会の礼拝の根拠となっているものは、引き渡され、受けついだものなのであります。それは、今日も、今、御霊の導きによって、行われるものであります。それと同時に、過去の遺産でもあります。例えば、私たちは、ルター派の教会の遺産の流れの中にあります。しかし、それは、ただ歴史上の1つの流れによっているのではなく、そのもとは、主イエス・キリストにあります。
23節では、「わたしは、主から受けた」と言っています。それは、聖餐式のことであります。聖餐は礼拝の中心でもありますし、礼拝そのものが、主から、言伝えに基づいたものである、と言っているのです。そして、パウロは又、こう書いています。礼拝について知っていてもらいたいものは、礼拝者たちの秩序であります。神の前に、すべての人が、神に造られたものであり、又、罪人であります。人間の間に、ちがいというものはなくなってしまい、平等です。そして神の前に立つ者は、等しく、罪人なのであります。或は、神に愛されているということです。しかし、その他の意味では、人はそれぞれ顔、形のちがいをもっています。その人の持って生まれた才能もそれぞれちがいがありその運命もちがっています。それらは神によって、定められた秩序をあらわすものです。
ここにパウロは書いています。「あなた方に知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。」ちょっと分かりにくい感じです。特に女のかしらは男であるというのは何でしょう。男女の不平等を言っているのではないかとも考えられます。しかし、ここで、男女が等しいかどうかを言っているのでなくて、神の前に於て、礼拝する人間の秩序を語っているのでありましょう。
7節を見ますと、「女は男の栄光である」と記されていますし、11節では「主にあっては、男なしに女はないし、女なしに男はない」と書いてあります。つまり、ここでは、男女が平等であるかどうかを言っているのではなくて、礼拝に於てどういう秩序が必要であるかが語られている、と言うべきでありましょう。ですから、男と女の問題だけでなく、神と、キリストと、男と女ということについて、語っていることが分るのであります。
礼拝に出る者は、しばしば、自分の好き勝手な気持が支配するものであります。つまり、気分しだいで行動する場合があるものです。日曜日に教会へ行こうか、イヤ、他にやる事や行事がいっぱいある。イヤ、余り行く気もしない。等々あります。しかし礼拝が神に対して行なわれるものであるなら、それは、最も秩序だった、整えられたものであるはずであります。神と人間の関係は言うまでもないことですが、人と人とについても、神の前にあるものにふさわしくなければならないはずであります。
この手紙においては、パウロの時代に、教会に実際にあった事が書かれています。かぶるものを、かぶるのがいいか、髪の毛は切る方がいいのか、長い方がいいのか、ということまで、やはり問題であったのでしょう。現代でもこうした影響を多少なりとも受けている教会もありましょう。大事なことは、その風習を、どうとりいれるかということではなくて、この当時の教会が、このようなことをした理由であり、その背景にある信仰であります。ここに男と女についていくつかの事が記されています。しかし、それらのことの、大切なことは、創世記に記されている、神が人をお造りになった、ということであります。このことは、礼拝そのものの基になることであります。人間は造られたものとして、造り主を礼拝するものであります。それが礼拝の基本であります。それと共に、礼拝の秩序もそこから出て来ると、言えるのであります。
礼拝というのは、人間が神に対して、わたしはあなたに造られました、わたしはあなたに救われました、と告白して、神を賛美することである、と言ってもいいのであります。
ちょっと、ここで、どうしてもわからないのは、「男が女のかしらである、女が男から造られた」というややこしいことが言われている。これは旧約の創世記の記事によっていることです。男が1人でいるのは適当でないと言って、共に生きるものとして女が造られた、従って、男が女から出たのではなく、女が男から出たのである、と8節に言われるのであります。これは明らかに自然の生活とはちがっています。ほんとうは、自然の生活で、男は女から生まれるにちがいないのであります。創世記を書いた人が、そんな事を知らないはずはありません。それは誰でも知っている事だからです。では、しかも、あえて、この事を書いたのは、むしろ、女なしに生きることのできない男の生活を書いた、とも言えるのではないでしょうか。従って、それは、男と女とがどのように生まれるのかということではなくて、むしろ、男を生かすために、神が女を与えられたということではないでしょうか。
かぶるものをかぶる事についても、その背景には、神が人をご自分に似せて造られた、ということがあります。男は神に似せているものであるから、かぶりものの必要はないと考えられるので、男の
特別な優越を語るのではなくて、神の創造の御業から考えたことであります。ですから、女は男の栄光とも言われるわけであります。6節には、「もし、女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったり、そったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。」とあります。ある人は、これは、婦人の髪の魅力が、ある人たちを引きつけて、礼拝の妨げになったためではないかと言っています。しかし、それも1つの説明に過ぎないでありましょう。礼拝においては、神以外のものに心ひかれてはならないはずであります。
又、10節には、9節の、女は男のために造られたという事を受けて、それだから、女はかしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは、「天使のためである」と書いてあります。ここに、権威と言っているのは、守りのことである、と言われています。人の自然的な弱さを守るための守りであるから、ということになります。それが天使のためである、というのは、天使がいつでもいい天使ばかりを考えると分かりにくくなります。天使は、良くない天使もあるのです。ここでは、そういう天使に対して身を守るため、ということでありましょう。
礼拝を正しく守るために、教会員のこまかい服装に至るまで問題としていた、当時の教会が苦労していたということを覚え、現代の私たちも礼拝に対して改めて考えていくべきでありましょう。
<アーメン・ハレルヤ>