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主日礼拝説教2020年3月8日 四旬節第二主日
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答の一部です。ニコデモについて、私たちの用いている新共同訳聖書では「ユダヤ人たちの議員」と訳されていますが、間違いなく当時のユダヤ民族の最高意思決定機関である最高法院のメンバーだったのでしょう。つまり、身分の高い人です。そのニコデモが属していたファリサイ派とは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということにとてもこだわったグループでした。他にサドカイ派と呼ばれる神殿祭司を中心とするグループが別にありますが、ファリサイ派はむしろ熱心な信徒のグループでした。彼らは旧約聖書に記されたモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則を厳格に守ることを唱え、自らそれを実践していました。何しろ、自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。
イエス様が歴史の舞台に登場して、数多くの奇跡の業と権威ある教えをもって人々を集め始めると、ファリサイ派の人たちもつきまとうようになります。一体、あの男は群衆に何を吹き込もうとしているのか?彼が律法や預言に依拠しているのは明らかなのだが、でも何かが違う。一体あいつの教えは何なんだ、という具合でした。イエス様に言わせれば、神の前での清さ、神聖さというのは外面的な行いのレベルに留まるものではない。内面的な心の有り様も含めた全人的な清さ、神聖さでなければなりませんでした。つまり、「殺すな」というモーセ十戒の第五の掟は、実際に殺人を犯さなくても、心の中で他人を憎んだり見下したりしたら、もう破ったことになる(マタイ5章22節)というのです。「姦淫するな」という第六の掟も、実際に不倫をしなくても、心の中で思っただけで破ったことになるとイエス様は教えたのです(同5章28節)。こうした教えは、イエス様が私たちに無理難題を押し付けて追い詰めているというのではありません。十戒を人間に与えた神の本来の意図はまさにそこにあるのだと、神の子として父の意図を人々に知らせていたのです。
全人的に神の掟を守っているかどうかが基準になると、人間はもはやどうあがいても神の前で清い存在になるのは不可能です。それなのに、人間の方が自分で規則を作って、それを守ったり修行をすれば清くなれるんだぞ、と自分にも他人にも課すのは滑稽なことです。イエス様は、ファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。
ところで、ファリサイ派のもともとの動機は純粋なものでしたから、グループの中には、このようなやり方で神の前の清さ神聖さは保証されるのだろうか、そもそもそういうやり方で創造主の神の目に適う者になれるのだろうか、と疑問に思った人もいたでしょう。本日の箇所に登場するニコデモは、まさにそのような自省するファリサイ派だったと言えます。3章2節にあるように、彼は「夜に」イエス様のところに出かけます。ファリサイ派の人たちが日中にイエス様と向き合うと、たいてい批判や非難を浴びせかけるだけでしたので、夜こっそり一人で出かけるというのは意味深です。案の定、ニコデモはイエス様から、人間が肉的な存在から霊的な存在に変わることについて、また神の愛や人間の救いとは何かについて教えられます。
この対話をきっかけにニコデモはイエス様を救い主と信じ始めたようです。例えば、最高法院でイエス様を逮捕するかどうか話し合われた時、ニコデモは弁護するような発言をします(ヨハネ7章50ー52節)。さらに、イエス様が十字架にかけられて死んだ後、アリマタヤのヨセフと一緒にローマ帝国総督のピラトの許可を得てイエス様の遺体を引き取り、それを丁重に墓に葬ることもしています(19章39ー42節)。
さて、本日の箇所にあるイエス様とニコデモの対話で重要なテーマは、「新たに生まれる」ということです。「新たに生まれる」というのは、どういうことでしょうか?「生まれ変わる」という言葉はよく聞きます。例えば、貧乏な人が、今度生まれ変わったらお金持ちになりたいとか、人から注目されないことに不満な人が生まれ変わったら有名になりたいとか、そういうことを言うことがあると思います。また、赤ちゃんが生まれた時、表情がおじいちゃんかおばあちゃんに似ている、この子は亡くなったおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うこともあります。このように「生まれ変わる」という言葉は、現在の不幸な境遇から脱出を願う気持ちや、何かを喪失した空虚感を埋め合わそうとする気持ちを表現する言葉と言うことができます。しかし、時として、自分は前の世には別の人物だったが、今の自分はその人物の生まれ変わりだとかいうような輪廻転生の考えを述べる人もいます。ただ、輪廻転生の考えを持ったら、生まれ変わり先は人間とは限りません。動物や昆虫にもなってしまいます。
聖書の信仰には輪廻転生はありません。私、この吉村博明は、この世から死んだ後、何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。ルターの教えによれば、この世から死んだ後は、「復活の日」が来るまでは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わりを告げて天と地が新しく創造される時に来る日です。運よくその日に朽ちない復活の体と永遠の命を与えられることになったら、それも吉村博明です。
それでは、本日の福音書の箇所でイエス様が教える「新たに生まれる」とは、「生まれ変わり」ではないとすると、どういうことなのでしょうか?イエス様が教えます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。ニコデモが聞き返します。「年をとった者がどうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。ここで明らかなのは、ニコデモも輪廻転生の考えを持っていないと言うことです。もし持っていたら、「新たに生まれる」と聞いて、それを「生まれ変わる」と理解したでしょう。しかし、イエス様も「イスラエルの教師」と呼んだニコデモ(10節)です。ファリサイ派とは言え、旧約聖書もしっかり勉強しているので輪廻転生の考えは持っていません。「生まれる」というのは、文字通り母親の胎内を通って起きることなので、一度生まれてしまったら、もう同じことは起こりえません。ニコデモが「新たに生まれよ」と言われた時、年とった自分が母親の胎内に入ってもう一度そこから出てこなければならない、と聞こえても無理はありません。
ところが、イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」は、母親の胎内を通って起こる誕生ではありませんでした。それでは、どんな誕生だったのでしょうか?次のイエス様の教えをみてみましょう。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは洗礼を受けて、そこで神からの霊、聖霊を注がれることを意味します。人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてくるのであるが、それは単なる肉の塊である。その肉の塊は、創世記2章6節やエゼキエル書37章9~10節で言われるように、神から霊を吹き込まれてから生きものとして動き始める。しかしながら、それはまだ肉的な存在で「肉から生まれたもの」に留まります。それが、その上に神自身の特別な霊、つまり聖霊を注がれると「霊から生まれたもの」に変わるのです。「水と霊による生まれ変わり」の「水」は洗礼を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は最初母の胎内から生まれた時は肉的な存在であるが、洗礼を通して聖霊が注がれることで霊的な存在になり、これが人間が新しく生まれるということになります。
ところで、旧約聖書が書かれているヘブライ語と新約聖書が書かれているギリシャ語では、「霊」と「風」を意味する単語は同じです。それぞれ、ルーァハרוח、プネウマπνευμαと言います。肉の塊が神から霊を吹き込まれて「肉から生まれたもの」になります。さらに、その肉的な生きものが神自身の特別な霊、つまり聖霊を注がれて「新しく生まれ」ます。聖霊にしろ、そうでない霊にしろ、どちらにしても風のように吹き込まれるということがルーァハ、プネウマという言葉からわかります(後注1)。
それでは、霊的な存在になるというのは、どういう存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえるるかもしれませんが、そうではありません。ここで言っている「霊」は、先ほどから言っている神の霊、聖霊のことです。洗礼を通して聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、内面的に大きな変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)
風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。聖霊を注がれた人も目には見えない動きがその人の内にあるのです。それはどんな動きなのでしょうか?ここでニコデモの理解力は限界に達してしまいました。水と霊から新しく生まれるだとか、それが風の動きのように起こるだとか、そのようなことは、どのようにして起こり得るのか?彼の問い方には、途方に暮れた様子がうかがえます(後注2)。
これに対してイエス様は最初、厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、その無知さ加減はなんだ!清めの規定とかそういう地上に属することについて私が教えてもお前たちは信じないのに、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのだろうか?厳しい口調は、相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があると思います。ニコデモは真剣な眼差しになったでしょう。イエス様が核心部分に入ります。
「天から一度この地上に下ってから天に上ったという者は誰もいない。それをするのは『人の子』である。」(13節)」つまり自分がそれをするのである、と。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。ここでイエス様は、それはまさに自分のことであると言い、さらに自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということも言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。
「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。」(14節)」これは一体どういう意味でしょうか?モーセが掲げた蛇というのは、民数記21章にある出来事のことです。イスラエルの民が毒蛇にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅の蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起きると言うのですが、これは何のことでしょうか?
イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられて死ななければならなかったのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。人間は神聖な神の意思に反するという性向を最初の人間の時から持ってしまっている。そのために人間は神との結びつきがない状態でこの世を生きなければならなくなってしまった。しかし、この状態を正すために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき神罰を彼に受けさせた。それによって、罪が償われて赦されるという状況を生み出した。あとは人間の方が、神は本当にこれらのことを成し遂げて下さり、イエス様は本当に救い主だとわかって洗礼を受けると、この償いと赦しの状況に入ることになる。それからは、神との結びつきを持ってこの世を生きることになる。
さらに神は、一度死なれたイエス様を復活させて、死を超える永遠の命と復活の体があるということを示された。それで、神との結びつきを持って生きる者は、その永遠の命と復活の体が待つ神の国を目指して歩むことになる。まさにイエス様が言われたこと、すなわち、水と霊を通して新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。
ところで、新たに生まれて霊的な者になったとは言っても、最初に生まれた時の肉を持っていますので、まだ肉的な存在でもあります。そのため聖霊が、神さまの御心はこうなんですよ、と聖書の御言葉を指して示してくれているのに、それに反することを考えてしまったり、果ては行ってしまうことすらあります。もっとひどい場合には御言葉を曲解したりぼやかしたりしてしまうこともします。このように、人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。
この内的な戦いは、苦しい戦いです。使徒パウロも認めているように、「むさぼってはならない」と十戒の中では命じられていて、それが神の意思だとわかっているのに、すぐむさぼってしまう自分に、つまり、神の意思に反する自分に気づかされてしまうのです。心の奥底まで、神の意思に完全に沿える人はいないのです。それではどうしたらよいのか?どうせ、沿えないのなら、神の意思なんか捨てて生きることだなどと言ってしまったら、神のひとり子の犠牲を踏みにじることになります。しかし、心の奥底まで完全に沿えるようしようしようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていないところが見えてきてしまう。
ここで大事なことは、まさにこの自分の真実を曝け出されてがっくりした瞬間、心の目をすかさずゴルゴタの十字架の上で息を引き取られたイエス様に向けるのです。聖霊が目をそこに向けさせてくれます。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神が送られたひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神の罰を受けられたのではなかったか?あの方がお前のために犠牲の生け贄となって下さったおかげと、お前があの方を真の救い主と信じた信仰のゆえに、神はお前の罪を赦して下さったのだ。お前が神の意思に完全に沿えることができたから赦されたのではない。そもそもそんなことは不可能なのだ。そうではなくて、神はそのひとり子を犠牲に供することで、至らぬお前をさっさと赦して受け入れて下さることにしたのだ。あの夜、イエス様がニコデモに言っていたではないか。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3章16節)
こうして聖霊の働きで再び心の目を開けてもらった信仰者は、神の深い憐れみと愛の中で生かされていることを確認し、神の意思に沿うようにしなければと心を新たにします。このように信仰者は、聖霊のおかげで、神との結びつきを絶えず持てて、順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを与えられて、万が一、この世から死ぬことになっても、復活の日に永遠に神のもとに戻ることができるようになったのです。
ところで、イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「新たに」という言葉ですが、ギリシャ語のアノーテンανωθενは「新たに」の他に「天から」という意味もあります。「天から生まれる」というのは、まさに天の御国を出身地とする者になるということです。聖霊を注がれた者は天国が出身地になり、天国に帰るように導かれるのです。
このように心の目をイエス様の十字架に向けることができた時、私たちの洗礼の時に植えつけられた新しい人は一段と重みを増して、肉に結びつく古い人を押し潰していきます。ルターの言葉を借りれば、信仰者というものはこのようにして古い人を日々死に引き渡し、かわりに日々新しい人が育てられていくのに任せるのです。
以上からもわかるように、洗礼を通して聖霊を注がれた人は、聖霊がその人の内に働くようになっていて、聖書を繙く時、御言葉を聞く時、それを心でかみしめる時に本当に風のようにその人の内面を駆け巡っているのです。私たちは、外見上はそう見えなくても、本当に霊的な存在なのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
(後注1)エゼキエル書37章9~10節で言われる「霊」は肉の塊を生きものにします。14節を見ると今度は、神が「私の霊」と言う霊が出て来きます。神の霊です。神はその霊をバビロン捕囚で絶望状態に陥っているイスラエルの民に注ぐ、そうすると民は捕囚から解放されて祖国に帰還できる民になって、神を知る民になる、と言われます。そうした絶望状態にある民が復興を遂げる民に変わることが、死骸が生身の人間に変身することとパラレルに言われています。前者では「神の霊」、後者ではそうではない「霊」がカギになっています。新共同訳では14節の霊が原語通りの「私の霊」と特定する訳になっておらず、単なる「霊」なので、復興を遂げる民が「霊的な存在」のプロトタイプになっていることが見えなくなってしまっています。
あと、ローマ8章15~16節を見ると、キリスト信仰者が受けた霊と、もとからある「わたしたちの霊」が出てきます。前者は聖霊、後者は生きものにする霊と考えられます。
(後注2)ニコデモの問いは新共同訳では「どうして、そんなことがありえましょうか」という、そんなことはありえないということを意味する修辞疑問に聞こえます。また、「どうして」などと聞くと、「なぜ」と理由を聞く疑問文にも聞こえます。ギリシャ語原文はどちらでもありません。πως δυναται ταυτα γενεσθαι; は素直に「どのようにして、そんなこと(=水と霊から新しく生まれること、それが風の動きのように起こること)が起こることが可能でしょうか?」と訳して全然問題ありません。むしろ、その方が後に続くイエス様の十字架の教えがまさに「どのようにして起こるか」の答えになっていることがわかるのではないでしょうか?