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主日礼拝説教 2020年4月12日 復活祭
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の偉大な力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。ところで、クリスマスは誰でも知っています。イエス様が天のみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから生身の人間として生まれたことを記念してお祝いする日です。復活祭は、キリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。それは何をお祝いするのでしょうか?十字架刑という惨い殺され方をしたイエス様が死から復活して本当に良かったというハッピーエンドでしょうか?実はそうではありません。復活祭の何がおめでたいのか、それがわかるためには、イエス様はなぜ十字架の死を遂げなければならなかったかがわからないといけません。
イエス様の十字架の死というのは、神に対して人間の罪の償いを人間に代わって果たしたことでした。罪とは、人間が神の意思に反することをするように仕向けたり、また神の意思に沿うことをさせないようにしたりして、人間を造り主の神から遠ざけようとする悪いものです。このような罪は創世記に記されているように、一番最初に造られた人間の時から備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。造り主の神との結びつきが切れてしまったらそうなるしかないのです。そこで神は人間をこの罪の恐るべき力から解放して神との結びつきを回復してあげよう、その結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、そして、この世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、そういうことを実現する計画を立てたのです。それでは、この人間を救うという神の壮大な計画とイエス様の十字架と復活とはどう関係するのでしょうか?
イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を彼が全部代わりに受けてくれたことになり、そのようにして彼が私たちの罪の償いを神に対して果たして下さいました。それからは罪は以前のように人間を神の前で有罪者・失格者にしようとしても、神のひとり子が果たした償いはあまりにも完璧すぎて思うようにできません。はっきり言って罪は破綻してしまったのです。加えて、神がその偉大な力でイエス様を死から復活させたことで、死を超える永遠の命があることが示されて、その扉が人間に開かれました。そこで人間は、これらのことが全て自分のために起こった、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たした罪の償いが自分の中に入ってきて自分のものにすることができます。自分が償ったのではなく他人が償ってくれたというのは虫がよすぎる話ですが、償う先が創造主の神であれば人間には償いなど無理な話です。しかも償いをした方がその神のひとり子であれば、この償いはかけがえのないもの決して軽んじてはならないものだとわかります。なにしろ罪が償われたということは、神がお前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さっているのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。
罪の償いを果たしてもらったということは、神から罪を赦されたと見なしてもらえることです。その時、神との結びつきは回復しています。そうなると人生は神が立てた計画に沿って進むことになります。どんな人生かと言うと、順境の時も逆境の時も神との結びつきはいつもあり、いつも神の守りと導きを得ながら進んでいきます。そして、この世を去った後も復活の日に目覚めさせられて神のもとに永遠に迎え入れられるという人生です。まさに罪と死の支配から解放された人生です。
このように罪と死の支配から人間を解放する神の計画がイエス様の十字架と復活を通して実現しました。罪の償いと赦しを受け取った私たちは、自分たちもイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしました。旧約聖書のダニエル書12章で、この世が終わり新しい世が始まる時に死者の復活が起こることが預言されていますが、それがイエス様の十字架と復活の出来事で一挙に現実味を帯びたのです。そういうわけで復活祭とは、イエス様が復活させられたことで実は私たち人間の将来の復活の可能性が開かれたことを喜び祝う日です。さらに自分自身が復活させられるという希望に加えて、復活の日にはやはり復活させられた懐かしい人たちと再会できるという希望も持てるようになりました。復活祭は、この二つを希望を与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったことを忘れてはいけません。イエス様の復活は彼自身のためでもなく、悲しんでいた弟子たちを喜ばせるためでもなく、実はイエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちにとって大きな喜びの日になるのです。
次に、復活というのはどういう状態のことなのかを考えてみます。超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることだけを手掛かりにするしかありません。本日の福音書の箇所も手掛かりになります。復活したイエス様とマグダラのマリアの再会が記されていました。実を言うと、これは想像を絶する出来事です。というのは、この地上の体を持つマリアが「復活の体」を持つイエス様にすがりついているからです。復活したイエス様が有する「復活の体」とはどんな体なのか?それについては使徒パウロが第一コリント15章の中で詳しく記しています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、ずばり「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言われます(マルコ12章25節)。
復活というのは、ただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば、遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。復活というのは、肉体が消滅しても復活の日に新しい「復活の体」を着せられて復活することです。その体はもう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる全く清い体です。この地上は、そのような体の者がいる場所ではありません。その意味でイエス様は本当なら復活の後、吸い取られるよう天に昇らなければならなかったのですが、40日間も地上にとどまりました。なぜか?その期間があったおかげで弟子たちをはじめ大勢の人たちに自分が復活したことを目撃させることが出来ました。きっと、それが目的だったのでしょう。
復活したイエス様が、私たちがこの地上で有する体と異なる体を持っていたことは、福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事が記されています。弟子たちは亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。
復活したイエス様の体について、もう一つ不思議な現象は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったことです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事が記されています。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経った後のことでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初わかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。
さて、天の御国の神聖な神の御前に相応しい「復活の体」を持つイエス様と、それにすがりつく地上の体を持つマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。「すがりつく」とはどういうことでしょうか?マリアはイエス様だと気がつく前ずっと泣いていました。イエス様が死んでしまった上に遺体までなくなってしまって、喪失感と言ったらありません。そこでイエス様に気づいた時はどうだったでしょうか?私たちの経験でも例えば、最愛の人が何か事故に巻き込まれて、もう死んでしまったとあきらめたか、まだあきらめきれないという時、突然その人が無事に戻ってきて目の前に現れたらどうなるでしょうか?たいていの人は感極まって泣き出して抱きしめるでしょう。イエス様に気づいたマリアもおそらくそうしたでしょう。ただ、相手が崇拝の対象である場合は、「すがりつく」というのはひれ伏して相手の両足を抱きしめることだったかもしれません。
イエス様が「すがりつくな」と言ったということについて、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」(μη μου απτου)です。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。さて、イエス様はマリアに「触れるな」と言っているのか「すがりつくな」と言っているのか、どっちでしょうか?以前の説教でもお教えしたことがありますが、少しおさらいしておきましょう。
私は、イエス様が復活した体、まさに天の御国の神のもとにいることができる体でいることを考えると、ここは原文通りに「触れてはならない」の方がよいと思います。加えてイエス様は、この言葉の後に触れてはならない理由も述べています。「私はまだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は、自分に触れるな、と言われる。その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが有している肉体の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上のものなので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。
このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているではありませんか。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(後注)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです(後注)。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。
神聖な復活の体を持って立っているイエス様。それを地上の体のまますがりつくマリア。本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。とても奇妙な光景です。そこには、かつて旧約の時代にモーセやイザヤが神聖な神を目前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだ、と言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。この場面を思い浮かべただけでも何かこの世離れした大きな感動が沸き起こるのではないでしょうか?イエス様も、今マリアは地上の体ではいるが、自分を救い主として信じている以上は復活の日に復活の体を持つ者になる、とわかっていたのでしょう。そのことは、イエス様の次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。
ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられる道が開かれたのである。
(余談ですが、新しい聖書の日本語訳「聖書協会訳」では、イエス様は「触れてはいけない」と訳していると聞きました。まだ確認していませんが、本当ならば喜ばしいことです。)
イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、復活に至る道に置かれてその道を歩み始めます。この世ではまだ復活の体を着ていないし永遠の命も持っていないのですが、聖書はなんと、この道を歩む者は既に復活しているという言い方をします。本日の使徒書の日課コロサイ3章もそう教えます。使徒パウロの教えです。
「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれるて現れるでしょう。」
まだこの世の段階にいるのに「復活させられた」と言うのはパウロらしいです。彼は「ローマの信徒への手紙」6章の中で洗礼を受けるとイエス様の死と復活に結びつけられると言います。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪がその人に対して支配者でなくなってしまい無関係になってしまう、それでその人は罪に対して死んだことになり、それからは生きることは神に対して生きることになると言います。その時、復活の体と永遠の命は今もう見えない形で手にしていることになり、将来の復活の日に目に見える形で手にしていることになります。それで「あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されている」というのです。
この「命」は地上の命ではなく永遠の命です。今見えない形で手にしているものです。見えない形なので「隠されている」のです。「隠す」と言うと「隠してしまう」みたいで何か困らせる意図があるみたいなので「秘められている」と言った方がいいと思います。復活の体も永遠の命も性質上、この世では秘められたものになってしまうのです。どこに秘められるのか?「神の内に」というのはわかりにくいです。ギリシャ語の言い方(εν τω θεω)を直訳したからですが、私なら「神のみが知る仕方で秘められている」とします。キリスト信仰者の真の命は今のこの世の段階では神のみが知る仕方で秘められているが、復活の日には再臨するイエス様と共に現れる、神の栄光に輝いて現れます。だから、今は見えない形でも確実にあるのです。
今は秘められて見えなくとも確実にあって、将来栄光に輝いて現れて見える形になって持てる復活の体と永遠の命。それを地上の命とは違う真の命としてそれを見えない形で持って今を生きるとどうなるか?そのことを考えさせることがありました。2月でしたかフィンランドの知り合いの牧師がA Hidden Lifeという映画を観てコメントをフェイスブックに書いていたのを読みました。ナチスドイツの時代にキリスト信仰の立場からヒトラーに忠誠を誓うのは間違っていると徴兵拒否して最後は処刑されてしまった農夫についての物語です。実話に基づいているそうです。フィンランドの牧師のコメントはこうでした。「キリスト信仰のメッセージが強く発せらえている映画です。多くの人たちが間違ったことをしていることに組しないようにしようとして自分の身に苦難や困難が降りかかる。どうしてこんなことが許されるのかと理解しがたいが、全てのことは私に代わって神が知っておられる。だから暗闇がどんなに深くとも、神の守りの手の中にいることにはかわりない。全てのことがこの世で満たされることはない。しかし、永遠の命があり、そこでは全てがよくなっている。キリスト信仰者は罪の赦しの恵みという守りの中でそこに到達できる。」主人公の農夫は秘められた真の命を持って生きたことは明らかでしょう。だから、映画のタイトルはHidden Lifeになったのではないでしょうか?
牧師のコメントを読んで私も観に行きたいと思ったのですが、コロナウイルス感染問題が出てきたので果たせませんでした。いつか機会があればと思います。そう言えば教会に来ていた郵便物の中にその映画のポスターや割引券の案内がありまして、見てみると映画の題名が「秘められた真の命」ではなく、「名もなき生涯」でした。これではなぜ主人公が地上の命を捨ててまで独裁者に忠誠を誓わなかったかがわからなくなるのでは思ったりしました。
今、この地上はコロナウイルス感染で苦難と困難が満ち溢れています。そんな時に復活祭をお祝いするなどとお祝いムードを掲げるのは不謹慎と思う向きがあるかもしれません。しかし、この世のどんな希望よりも強い、真の命の希望を与えてくれるイエス様の復活を覚えることはこの危機を乗り越えるために意味があります。それなので、それはやはり喜ばしい祝うべきものです。教会では出来ませんが、皆様が置かれた場所でお祝いください。
イエス様の既に起きた復活と私たちの既に始まった復活を覚えるこの日が豊かに祝福されますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
後注
ルカ20章39節の「触りなさい」とヨハネ20章27節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατε、βαλε)であることに注意。
ヨハネ20章17節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)であることに注意。