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主日礼拝説教 2020年4月26日 復活後第二主日
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の個所は、イエス様が復活された日の出来事の一つです。その日の朝、イエス様の墓に行った女性たちが墓の前に置かれた大きな石がどかされて中が空っぽなのを目撃しました。さらに天使が現れてイエス様が復活されたことを告げ知らせました。女性たちの報告を聞いたペテロたちが墓を見に行くと本当に空っぽでした。その後で復活されたイエス様が弟子たちの前に姿を現し始めます。本日の個所の出来事は同じ日の夕刻に起きたものです。
二人の弟子がエルサレムからエマオという村に向かっていました。そこに突然イエス様が合流しました。弟子たちはどういうわけかそれがイエス様と気づかず、一緒に歩き出します。道中イエス様に旧約聖書について教えられて、その晩滞在した家でイエス様だと気づいた時に姿が消えてしまったという話です。これは日本人の多くには怪談話に聞こえるのではないでしょうか?以前の説教でもお話ししましたが、この話はキリスト信仰者には全く怪談話に聞こえません。なぜかと言うと、信仰者はこの出来事を復活という視点を持って聞くからです。復活とは死に対する勝利です。怪談話には、復活の視点もなく死に対する勝利もありません。それは死に負けて死と死者とに支配されている世界の話です。キリスト信仰者というのは、死に支配された世界から死に打ち勝った世界に引っ越ししてしまったので、本日の個所をはじめ他の復活に関わる出来事を聞いても全然不気味に感じません。逆に大きな希望を抱かせる出来事に聞こえます。キリスト信仰者でない人でも、もしそのように聞こえてきたら、それは死に打ち勝った世界に引っ越しする見込みが出てきたということです。
それでは人間はどうしたら死に支配された世界から死に打ち勝った世界に引っ越しできるのでしょうか?これも以前お教えしたことですが、少しおさらいしておきます。
復活とは死に対する勝利です。死に対する勝利とはどういうことか?聖書は次のように教えます。たとえこの世から去ることになっても、将来、復活の日というのがあり、その時に復活の体を着せられて永遠の命を持てて、造り主の神のもとに永遠に迎え入れられる。そして、同じように復活させられた人たちと再会するということです。人間がこのように復活の日に復活できるために神はイエス様をこの世に贈って一つの使命を果たさせました。それは、イエス様が十字架にかけられて死を遂げたことで、私たち人間が持っている罪の神罰を全部代わりに受けてくれたということです。イエス様が私たちに代わって罪の償いを全部神に対して果たして下さったのです。そこで人間がこれは本当に自分のために起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たした罪の償いがその人の内になだれ込んできます。その人は罪を償ってもらったので、神から罪を赦された者として見てもらえます。それでその人は神との結びつきを持ってこの世を生きるようになります。その人は復活の日の永遠の命と再会が待っている神の国に向かう道に置かれて、その道を神との結びつきを持って進んでいきます。
人間が罪の償いと赦しを受けると、罪は以前のように人間を神の前で有罪者にしようとしても出来なくなりました。神のひとり子が果たしてくれた償いはそれくらい完璧なものだからです。罪は破綻してしまいました。それでも罪はまだ力があるかのように見せかけて、キリスト信仰者の隙や弱いところを突いてきます。不意を突かれてしまう信仰者もいます。しかし、神に罪の赦しを祈れば、神は私たちの心の目を十字架につけられたイエス様に向けさせ、罪の赦しは微動だにせずちゃんとあると気づかせて下さいます。その時、私たちは、これからはもう神のひとり子の犠牲を汚さないように生きよう、罪を犯さないようにしようと心を新たにします。このようにキリスト信仰者の人生は絶えず十字架の下に戻ることを繰り返しながら、洗礼の時に新しく生きることになった新しい命を大事にしていこうとする人生です。そして最後は、復活の日に神の栄光を受けて光り輝きます。
イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者に対して罪はこのように破綻しています。罪が破綻している人に対しては死も力を失っています。なにしろ、その人は死を超えた永遠の命に向かう道を神に守られて進んでいるのですから。人間が罪の償いと赦しの中に留っている限り、死はその人に何もなしえません。もう死に支配される世界にいません。死に打ち勝った世界に引っ越したのです!使徒パウロは第一コリント15章20節で「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言っています。実にキリスト信仰者にとってこの世を去る死とは、復活の日に目覚めさせられるまでの特別なひと眠りに変わってしまったのです!イエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡を行いました。それは復活ではなく蘇生だったのですが、彼が将来死者を復活させる力があることを前もって具体的に示す奇跡でした。その時彼が死んだ人のことを「眠っている」と言って生き返らせたのは象徴的です。
次に、復活して天に上げられたイエス様が今どのように臨在されるのかということについて。マタイ28章20節でイエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたのに、天に上げられてしまったらどうなるの?と心配になります。でも心配には及びません。「共にいる」というのは、体を伴った臨在ではなく、体を伴わない霊的な臨在です。イエス様からすれば霊的な臨在は現実にあるものですが、私たちからすればそれが現実にあるものか確かではありません。しかし、「お前がどう感じようが、それは確かな現実なのだ思い知れ」というものがあります。洗礼と聖餐です。これらを受けたら霊的な臨在はお前たちの目には確かでなくても神の目から見て確かなものになるのだ、というものです。洗礼や聖餐というのはそれ位すごいことなのです。だから神聖な儀式なのです。洗礼と聖餐に加えて、聖書の御言葉を読み聞くこともイエス様の霊的な臨在を現実のものにします。ただし、臨在を現実にする読み方聞き方があります。そうでない読み方聞き方もあります。そのことを本日の福音書の個所は教えています。それについて見ていきます。
イエス様の臨在を現実のものにする聖書の読み方聞き方とは一体どんな読み方聞き方なのか?このことも以前お教えしましたが、振り返ってみます。どうして二人の弟子はイエス様のことをすぐ気がつかなかったのか、それがどのようにして気づくようになったのか、このプロセスを見ていくとわかってきます。
二人の弟子の前にイエス様が現れた時、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(ルカ24章16節)とあります。「遮られて」というのはギリシャ語原文では受け身の形です。新約聖書のギリシャ語の特徴の一つですが、受け身の文で「~によって」という動作の主体がない場合は多くは神が隠れた主体になります。「神によって」が省略されているということです。そうすると神が二人の目を遮ったことになります。これは全く不可解なことです。なぜ神は、ただでさえ復活の体を纏うイエス様は気づきにくいのにわざわざ目を遮ってもっと確認しにくくする必要があるのか?マグダラのマリアの場合、最初気づかなくても、イエス様の「マリア」という呼び掛けで気がつきました。エマオの道では、話声をずっと聞いているのにそれでも気づかない。神はなんでそんな意地悪をするのか?
神が何らかの目的をもって人間の心を鈍らせて目を曇らせるというのは実は、旧約聖書、新約聖書を貫いてある難しいテーマの一つです。これを取り上げてお話しすると一回や二回の説教では足りないのでここでは立ち入りません。このエマオの道の出来事に焦点をあてて見ていくことにします。
神はなぜ二人の弟子の目を遮ったのでしょうか?ここで逆に考えてみましょう。もし、神が二人の目を遮らないで、二人はすぐにか、またはマリアのように声をかけられてイエス様とわかったとします。そうしたら、その後で起こったことは起こらなくなります。その後で起こったこととは何でしょうか?それは、弟子たちが旧約聖書を正確に理解していないことが暴露されて、それをイエス様に正されたということです。もしすぐイエス様とわかって再会を喜び合ってめでたしめでたしになってしまったら、弟子たちの旧約理解は訂正されずそのままだったでしょう。
それでは、弟子たちの旧約理解の何が問題だったのでしょうか?彼らは、イエス様のことを「預言者」だったと言い、「あの方こそイスラエルを解放して下さると望みをかけていた」と言います。つまり彼らにとって、イエス様というのは、奇跡の業と神の権威を感じさせる教えをした偉大な預言者で、イスラエルを占領者ローマ帝国から解放してくれる民族の英雄だったのです。それが十字架につけられて処刑されてしまったので民族の悲願は水泡に帰してしまったのでした。
十字架と復活の出来事が起きる前は、このようなイエス理解は一般的でした。弟子たちの間でもそうでした。ところが、旧約聖書にあるメシア預言はそういう一民族の独立・解放についてではなかったのです。天地創造の神の計画は人類全体にかかわるものだったのです。メシアとは民族の英雄ではなく文字通り全ての人間の救世主だったのです。預言がそのように理解されなかったのは、それはユダヤ民族の辿った歴史からすればやむを得ないことでした。イエス様が処刑されてしまい、弟子たちはこれで万事休すと思ってしまいました。ところが、その後で彼らにとって想定外のことが起こりました。処刑されて葬られたあの方の遺体が墓になかったのです。これは一体なんなのか?エマオの道で二人の弟子たちはこのことを話し合っていたのでした。
合流したイエス様は旧約聖書をもとにメシアの正しい意味を教えていきます。一民族の他民族支配からの解放物語ではない、人類を罪と死から解放する者である、と。それまでの旧約聖書の理解が塗り替えられていきます。同じ文章なのに違う意味が輝きだします。エルサレムからエマオまで約11㎞、話しながら歩いたら3時間位でしょうか、その間どんな教えが述べられたのかは本日の個所に記されていないのでわかりません。それでも、あのイザヤ書53章の、人間の罪を神に対して償うために自らを死の苦しみに委ねる「主の僕」の預言は間違いなくあったでしょう。ここで少し話がそれますが、フィンランドで7年ほど前に「旧約聖書におけるキリスト」という本が出されました(後注1)。20人近い神学者による共著で500ページ位あります。このように旧約聖書にイエス様を見出すというのは一ヵ所や二か所の聖句では済まないことなのです。かと思えばその本が出る2年前にはラートというフィンランドの世界的に著名な旧約釈義学の教授が「詩篇におけるキリスト」という本を出しています(後注2)。詩篇だけに限定しているのに400ページあります。宗教改革のルターは旧約聖書を読む時はキリストを見出すように読むべしと教えていますが、さすがルター派の国の神学者たちです(正確に言えば、これらの著者たちはルター派の中でも保守的な人たちです)。
話をもとに戻します。イエス様の説き明かしを聞いているうちに、弟子たちの絶望と失望が消えていきました。旧約聖書の新しい意味と空の墓と「復活された」という天使の言葉が結びつきました。二人の弟子が後で述懐しているように、イエス様の教えを聞いていた二人の心は燃えていました。この「心が燃える」ということについては後で見ていきます。
面白いことに、この段階でも彼らはまだイエス様と気づきません。神はまだ彼らの目を遮っているのです。どうしてなのでしょうか?イエス様がパンを裂いて渡した時に「二人の目が開け、」イエスだと分かりました(24章31節)。日本語訳で「目が開け」と言っているのはギリシャ語原文では「開かれた」と受け身の形です。つまり「神によって」開かれたのです。神はどうしてパンを裂く時になってやっと彼らの目を開いて気づくようにしてあげたのでしょうか?しかも気づいた瞬間イエス様の姿はありませんでした。意地悪をしているのでしょうか?いいえ、そうではありません。これは、聖書の御言葉を正しく聞くことと聖餐式を受けることがあれば体の臨在がなくても霊的な臨在があるということを言っているのです。体の臨在がなくても物足りないということにはならないのです。見て下さい、イエス様の姿が消えた時、弟子たちにはがっかりした様子は全くありませんでした。御言葉と聖餐でイエス様の臨在が現実のものなったのです。
最後に、二人の弟子が道中、イエス様の旧約聖書の説き明かしを聞いていた時、心が燃えていたというのはどういうことか見てみます。「心が燃える」と聞くと、何か、気分が高揚している状態、元気一杯でやる気に満ちた状態、または感動、感激している状態などが頭に浮かぶでしょう。本説教では、私たちが感じたり経験したことを出発点にして弟子たちの「心の燃え」に迫っていくことはしません。そうではなく、御言葉だけを手掛かりにして弟子たちの心の状態に迫ってみようと思います。私たちが感じたこと経験したことを聖書に注入して聖書が分かったと言うのではなく、聖書の方から私たちに語ってもらうことに徹します。
「燃える」と言うのはギリシャ語のカイオーκαιωという動詞です。意味は新約聖書の中では「明かりを灯す」という意味(マタイ5章15節、ルカ12章35節、ヨハネ5章35節)と「燃やす」という意味(ヨハネ15章6節、第一コリント13章3節)で使われています。これが「心」と結びつけて言われるのは本日の個所以外には今のところ確認できませんでした。日本語の「心が燃える」に比べたらあまり普通の言い方ではなさそうです。それなので、「明かりを灯す」と「燃やす」の意味を念頭において考えてみることにします(後注3)。その場合、「心が燃える」というのは、心を枯れ枝みたいに燃やしてしまうことではなく、心に明かりが灯った状態を言うのでしょう。それでも「燃える」意味も付随していると考えると、光と一緒に熱さ温かさがあるということでしょう。そうすると「心が燃える」というのは、それまで光が見えない、暗闇の中だったのが光が見える状態になったことと、冷え切って寒々とした状態だったのが熱さ温かさを感じるようになった両方の変化が含まれます。これが弟子たちの心に起きた変化だったということになります。
彼らはユダヤ民族の他の人たちのようにイエス様が民族をローマ帝国の支配から解放して神の国をこの地上に実現する王と信じて付き従っていました。ところが全ては見事に失敗しました。あれだけ熱狂と期待を持って付き従い、自分たちの人生をかけて付き従ったのに裏切られてしまいました。そればかりか、これからはローマ帝国当局やそれに取り入る支配層の目を逃れていかなければなりません。目の前は真っ暗になってしまいました。全ては無意味だった無駄だったとあざ笑う冷酷な宣告が重くのしかかっています。
それが、突然現れた男が旧約聖書の預言について、あれは民族の解放について言っているのではない、全ての人間の根本的な解放、罪と死からの解放について言っているのだ、神の送る僕が苦しんで死ぬことが言われていたのは、それが行われたのだ、しかも僕の死で全てが終わらないことも言われていたではないか、僕が死の中で朽ち果てることはないと言われていたではないか、だから墓は空だったのだ、まだわからないのか?
このようにして、弟子たちがイエス様と共にいた日々に見聞きしたこと全てが動かぬ証拠となって旧約聖書の理解が次々と塗り替えられていったのです。同じ文章なのに違う意味が輝きだします。失敗だったと思っていたものは失敗でも何でもなかった、期待外れと思っていたのもそもそも的外れな期待を抱いていただけなので期待外れなどない、無意味、無駄ということも、的外れなことに意味を求めていただけで、今となっては無意味、無駄ということは何もないということが分かってきました。全てが覆されて、暗闇しか見えなかったのが光を目の前にしています。「全ては無意味だった無駄だった」という冷酷な宣告は氷が融けるように消えました。これが弟子たちの「心が燃えた」ことです。目の前に光があり、冷酷な宣告から解放されたのです。
主にある兄弟姉妹の皆さん、私たちも同じように「心を燃え」させることができます。暗闇の中にいず光を見、「全ては無意味だった無駄だった」という冷酷な宣告を焼き尽くすことができるのです。なぜならキリスト信仰者は、およそ神の意思に沿うようにしようとして行ったものは、たとえ結果が思うようなものにならなくても、神の目から見たら無駄でも無意味でもなんでもないということを知っているからです。どうして知っているかと言うと、それが聖書の観点だからです。聖書の中で神は、復活の日に御許に迎え入れられた者たちの目から涙を全て拭われると約束しています。黙示録7章17節と21章4節です。旧約の預言書イザヤ書24章8節とエレミア書31章16節でも言われています。この涙は痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も全部含まれています。
弟子たちは、イエス様が救世主とわかって光を見、無意味・無駄だったことは何もないとわかりました。心が燃えました。そのイエス様を救い主と信じる私たちは、彼のおかげで神との結びつきを持てて今、復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かって進んでいます。この世で神の意思に沿おうと正しく立ち振る舞おうとしたら涙をこぼすことになるのは承知の上です。しかし、この道を行く以上は、それを全て拭ってもらえる日が来ることも知っています。だから、私たちは暗闇の中にいず光を見ています。無意味、無駄なことは何もないとわかっています。心が燃えているのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
(後注1)”Kristus Vanhassa Testamentissa”, eds., Vesa Ollilainen & Matti Väisänen.
(後注2)”Kristus Psalmeissa”, Antti Laato.
(後注3)テクスト・クリティシズム(日本語では「本文研究」と言うのですか?)の問題になりますが、この「燃える」は異なる写本では、心に「覆いが被せられていた」κεκαλυμμενηというのもあります。つまり、道中イエス様が旧約聖書の説き明かしをしていた時にまだ心に覆いが被せられていたので彼と気づくことが出来なかった、という意味です。これは筋が通る、合理的な読み方です。しかしながら、テクスト・クリティシズムの基準の一つに照らし合わせれば、合理的な読み方というのは難解だったから後でそのように直したということになるので、問題の写本はルカのオリジナルを反映していない、「心が燃えている」と言っている写本が信頼できると判断されます。そうなると、「心が燃える」というのは古代のギリシャ語圏の人たちにとってもわかりにくい表現だったということになります。
これを理解しようとすると、例えば古代のギリシャ文学を片っ端から調べてκαιωが「心」と結びつけて使われる例を見つけて、そこから理解しようとすることが考えられます。ただ、この場合、ルカのテキストの背景にあるアラム語の会話があることを無視してしまいます。
会話のアラム語はどうだったかはもう知りようがありません。近いヘブライ語から接近してみようとすると(アラム語とヘブライ語が「近い」と言うのは乱暴な言い方ですが)、בערが考えられます。「燃やす」、「火をつける」が中心的な意味です。中には「怒りが燃える」もあります。辞書の中には「心」と結びつけた使い方はありませんでした。