お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
ピアノと歌 ミルヤム・ハルユSLEY宣教師
主日礼拝説教 2020年5月24日 昇天主日
使徒言行録1章1-11節、エフェソ1章15-23節、ルカ24章44-53節
説教題 「この世でのねじれは承知の上。復活の日に解消されればよいのだ。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は天地創造の神の力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天のみ神のもとに上げられたという出来事です。復活から40日後というのは実はこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。近年、国民の教会離れ聖書離れが急速に進んでいるフィンランドですが、それでもカレンダーを教会の伝統に合わせることがまだ残っているのは興味深いです。今日は昇天日に近い主日ということで、「昇天主日」とも呼ばれています。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。次主日にそれを記念します。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。
日本のルター派教会の昇天主日に定められた聖書の日課は毎年同じで使徒言行録1章とエフェソ書1章とルカ福音書24章の個所です。
さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、今を生きる私たちに何の関係があるのかということを毎年礼拝の説教でお教えしているところです。昨年はエフェソ1章の中に以前あまり気に留めなかったことに目が留まり、それを結びつけて説き明かしをしました。何かと言うと、エフェソ1章の特に19節から21節にかけてです。一度死んだ人間を復活させて復活の体を纏わせることと、その者を創造主である神の御許に引き上げるということ、このことがイエス様に起こったわけですが、その実現には想像を絶するエネルギーが必要である。そのようなエネルギーを表現するのにパウロはこの短い文章の中に神の「力」を意味するギリシャ語の言葉を3つ違うものを用いています(δυναμις,、κρατος、ισχυς)。エネルギーという言葉も2回(ενεργεια、2回目は関係代名詞ですが)、エネルギーを働かせるという動詞(ενεργεω)も用いたりしています。なんとかこの想像を絶する莫大なエネルギーを描写しようとしていることが伺えます。創造主である神はそのエネルギーを働かせる力がある方である。だからイエス様の復活と昇天を起こせたというわけです。ところがそれだけにとどまりません。神はこれと同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者にも働かせると言うのです。つまり、キリスト信仰者も将来イエス様と同じように神の力を及ぼされて復活できて天の父なるみ神のもとに上げられるのです。それで、神がこのような力を持っていて、それをこの自分にも及ぼして下さる、と信じられるかどうかが信仰にとって一つの鍵になるということを昨年申し上げた次第です。
今年はさらにエフェソ1章の終わりの22節と23節に目が留まりました。教会は「キリストの体」であるとパウロは言います。この「教会」は、スオミ教会のような個別の教会ではなく、また複数の教会から構成される教団でもなく、ルター派とかカトリックというような教派のことでもありません。それは、永遠の命と復活の体が待っている天の御国に至る道に置かれて、今それを進んでいるキリスト信仰者の集合体です。個々の教会、教団、教派を超えた人的組織を離れた見えない教会です。それが「キリストの体」であると。そしてそのキリストはと言えば、今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立って、それらを足蹴にしていると。ここで言う「支配、権威、勢力、主権」とは現実世界にある国の権力だけでなく、見えない霊的な力も全部含みます。そうすると、キリストの体の部分部分である信仰者もキリストにあってこの世の権力や霊的な力の上に立つ者になっていることになるはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。そういったものの上に聳え立って足蹴にしているイエス様はそうかもしれないが、信仰者は正直なところいろんな力の足蹴にされている方ではないか?「キリストの体」だなんて、パウロはちょっとはったりを効かせすぎではないか?でもこれはやっぱり本当のことと言わざるを得ないのです。このことを後ほど見ていこうと思います。その前に毎年お教えしていることですが、イエス様の昇天とは何だったのかということについておさらいをしておこうと思います。
私たちの新共同訳聖書では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみると空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書いてあります(1章9節)。なんだか、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわきます。しかし、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけで、その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します(後注)。
そういうわけで、新共同訳の「雲」は空に浮かぶ普通の雲にしかすぎなくなります。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろあることを忘れてはなりません。モーセが神から掟を授かったシナイ山を覆った雲しかり、イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様が高い山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)再臨すると預言されました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言ったではありませんか。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、と。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」ということになります。イエス様の昇天はとても聖書的な出来事なのです。
それにしても、イエス様を運び去ったのが神の雲だとしても、昇天は奇想天外な出来事です。大方のキリスト信仰者だったら、ああ、そのような普通では考えられないことが起こったんだな、とすんなり受け入れるでしょうが、信仰者でない人はきっと、馬鹿馬鹿しい、こんなのを本当だと信じるのはハリーポッターか何かの映画の特殊な撮影を本当のことと信じるのと同じだと一笑に付すでしょう。キリスト教徒の中にも最近は、そういうふうに考える人が増えているかもしれません。
ここで、忘れてはならない大事なことがあります。それは、天に上げられたイエス様の体というのは、これは普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが多くありました。例えば弟子たちに現れても、すぐにはイエス様と気がつかないことがありました。また、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て、弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同じ次元の方なので、被造物にすぎない天使と同じではありません。いずれにしても、イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。
天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で毎週、信仰告白の部で唱えられます。果たしてそんな天空の国が存在するのか?毎年お教えしていることですを振り返ってみます。
地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏等々、いろんな圏があって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天の御国とか天国は恐らく見つからないのではと思います。
というのは、ロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは、信仰というものと全く別世界だからです。成層圏とか大気圏というようなものは人間の目や耳や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?
信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものと言ってよいでしょう。ここで、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点では、天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。
もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などない、と考えることも可能です。ただ、その場合、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界・人間界の物事に創造主の意図が働くなどということも考えられません。自然も人間も、無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場ですので、魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった方が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す側の脳神経の作用という言い方になるのでしょう。
キリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。そして、人間の命と人生は実は、この現実の世界だけでなく創造主の神がおられる天の御国にもまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだ、という人生観を持っています。そういう人生観があると、神がどうしてひとり子を私たちに贈って下さったのか、それは私たちの人間の人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということが見えてきます。つまり、人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。
それでは、イエス様を贈ることでどうやって人間がそのような大きな人生を持てるようになるのかと言うと、次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てない。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神に対して不従順になって罪を持つようになってしまって、人間は神との結びつきを失ってしまったからです。人間の内に宿る罪、それは行為に現れる罪も現れない罪も全部含めて、そうした神の意思に反するようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまっている。そこで神は、失われてしまった結びつきを回復するために、人間の罪の問題を人間に代わって解決して下さったのです。
どのようにして解決して下さったかと言うと、神は人間に宿る罪を全部ひとり子のイエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。こうして罪の償いがイエス様によってなされました。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることを示し、それまで閉ざされていた天の御国への扉を開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると罪の償いがその人に覆いかぶさります。神の目から見て償いが済んだ者、つまり罪が赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の御国に至る道に置かれて、神との結びつきの中でその守りと導きを得ながらその道を進んでいきます。この世を去ることになっても、復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を生きることになるのです。
キリスト信仰者は、永遠の命と復活の体が待っている神の御国に至る道を進んでいます。その彼らが集まって見えない教会を形作っています。それが「キリストの体」ということなのですが、キリストご自身は天の父なるみ神の右に座していて、この世のあらゆる目に見える権力、目に見えない霊的な力全ての上に聳え立ってそれらを足蹴にしています。それらの力は聳え立つキリストに何もなしえない、歯向かえない、完全に負けている。それなのに、キリストの体であるはずの我々はキリストみたいに全ての力の上に立てていないではないか?神の意思に反させようとする力は周りで猛威を振るっている。神に背を向けさせようとする力、人を傷つけようとする力、偽証したり改ざんさせようとする力、妬んだり憎ませようとする力、不倫させようとする力、そうした力の被害者になってしまうだけでなく、それらに加担するようなことも起きてしまう。実は我々はキリストの体なんかではなく、全ての上に聳え立つ力あるキリストから遠く切り離されてしまった者たちではないのか?
ところが、そうではないのです。キリスト信仰者はキリスト信仰者である以上はキリストの体なのです。それならば、どうしていろんな力にいいように攻められなければならないのか?これは、キリストが天の父なるみ神のもとにいるのに対して、私たちがまだこの世に漬かっていることから生じる一種のねじれ現象なのです。キリストが天で我々が下、と言ったら、それはやはり我々がキリストに結びついた体ではなく切り離されているということではないのか?いや、それはやはり結びついているのです。凄まじいねじれがあるのです。
イエス様と私たちの結びつきについて言うと、パウロが教えるように洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられます(ローマ6章1~11節)。イエス様の死に結びつけられるというのは罪に対して死ぬことです。イエス様の復活に結びつけられるというのは神に対して生きることです。罪に対して死ぬというのは、罪が信仰者と神との結びつきを引き裂こうとしてもその力がない、空振りに終わるということです。どうしてかと言うと、キリスト信仰者が神の意思に反することを思ったり考える罪を犯す時、また不運にも考えに留まらず言葉や行為に出してしまう時、いずれの場合でも、すぐ神に赦しを願い祈ればいいからです。その時、神はすかさず私たちの心の目をゴルゴタの十字架にかかる主に向けさせて言われます。「あの、わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。もう犯さないように。」十字架が歴史上打ち立てられた以上は罪の赦しはそのまま微動だにせずある。それで私たちと神との結びつきは失われていないことがわかります。この時、私たちは主の犠牲のゆえに恥じる心と感謝の気持ちで一杯になり、そこから謙虚になって落ち着いた者に変えられていきます。いろんな力に攻められ煽られますが、イエス様の死と復活に結びついていれば、全てをかわせてはねのけられます。全てはキリストが全てに勝っていることによるのです。
やがて、戦いに明け暮れた歩みが終わる日が来ます。イエス様が再臨する日です。それは今のこの世が終わりを告げて天と地が新しく創造され直す日です。この世と一緒にこの世のあらゆる力も消滅します。復活の体を着せられて神の御許に迎え入れられる者を攻めたてるものはもうありません。復活者は天のキリストが持っていたのと同じ安泰さを得るのです。ねじれは解消したのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン
(後注)フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルターのドイツ語訳の聖書を見ても、雲がイエス様を運び去るという訳をしています。英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず空高く舞い上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような印象を与えてしまうと思います。