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わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
これまでガリラヤ地方を主な活動舞台にしてきたイエス様が、ついに運命的なエルサレム訪問を決意し、そこを目指して歩み始める。本日の福音書の箇所の冒頭は、このことを記しています。イエス様は、既に弟子たちに前もって告げ知らせていたように(ルカ9章22節、44節)、エルサレムでどんな運命が待ち受けているか、自分でもよく知っていました。行けば、苦しみを受け殺される、しかも普通の人間が被る死とは異なる、もっと重い死を被ることになる。それを知っていて向かうのであります。しかし、それは、神の人間救済計画の実現のためには背負わなければならない十字架でした。まさにそのために、イエス様は、父なる神からこの世に送られたのですから。
さて、ガリラヤ地方からエルサレムのあるユダヤ地方に行こうとすると、その間にサマリア地方があります。サマリア地方と言えば、そこに住むサマリア人たちとユダヤ人たちは、歴史的宗教的な理由からお互いに反目し合っていました。古くは、サマリア地方は、ダビデの王国が南北に分裂した後は北王国の中心でした。しかし、北王国は次第に、天と地と人間を造られた神そしてイスラエルの民を奴隷の国エジプトから導き出した神への信仰から離れ、カナンの地の土着の霊であるバアル信仰に染まっていきます。この辺の事情は、神の預言者エリアの孤独な戦いとともに列王記上の中に記されています。真の神から離れた北王国は、紀元前700年代にアッシリア帝国に滅ぼされます。そして、主だった人たちは占領国に連行され、代わりに異民族が移住させられます。そうして、サマリア地方は宗教的だけでなく民族的な純粋さを失いました。サマリア人たちは、イスラエルの宗教的な伝統としては、モーセ五書を大切にはしましたが、預言書は無視し、また神に生け贄を捧げる場所としてゲリシムという山を選び、エルサレムの神殿も無視していました。そういうわけで、ユダヤ人たちはサマリア人を毛嫌いし、接触を避けていました。そうしたユダヤ人のサマリア人に対する態度は、福音書の中の随所に出てきます。本日の福音書の箇所で、イエス様一行がサマリアの村に宿と食事の提供を願い出て拒否されますが、その理由として、イエス様がエルサレムを目指して進んでいたから、と記されています。サマリア人としては、誤った礼拝場所に巡礼に行く者たちをどうして世話しなければならないのか、ということだったのでしょう。この拒否に怒った弟子たちが、イエス様に、こんな村は神の力で焼き尽くされるべきだといきり立ちました。これに対して、イエス様は、そのようなことは言ったり考えたりするものではない、とたしなめ、その村のことはそのままにして、別の場所を経由して行きました。
このサマリア地方での出来事に加えて、本日の福音書の箇所では、イエス様に付き従うこととはどういうことかについての教えが続きます。三人の男の人が登場します。そのうち二人は付き従いを自ら志願します。別の一人はイエス様の方が付き従いなさいと声をかけます。しかし、いずれの場合においても、イエス様は、付き従うことに二の足を踏ませるような厳しい教えを述べます。特に、イエス様自身が付き従いなさいと声をかけた人に対しては、その人がまず死んだ父親を埋葬してからついて来ます、と言ったのに、イエス様は、埋葬は他人に任せて、あなたはただ神の国を言い広めなさい、と命じます。これは、日本のように祖先の霊を崇拝する伝統が強いところでは、キリスト教はなんとひどい宗教だという反感を生み出すことになるでしょう。このイエス様の教えについては、本説教の後の方で見てまいることにします。
いずれにしても、本日の福音書の箇所に出てくる二つの出来事、つまりサマリア地方での出来事とイエス様に付き従うことについての教えの二つは、一見して関連がないように見えます。しかし、実はこれらは、深く結びついているのです。この二つの出来事が結びついているということがわかると、本日の福音書の箇所がよくわかります。それでは、それらはどう関連し合っているのかというと、この二つの出来事は双方とも、神の国の一員になるということはどんなことか、ということを明らかにします。神の国の一員になるということはどんなことか?この問いに対する答えを求めつつ、本日の箇所の解き明しを進めてまいりたいと思います。
2.
最初に、「神の国」について見てまいりしょう。神の国とは、福音書の中でイエス様がよく口にする言葉です。それは、一体どんな国で、どこにあるのでしょうか?誰がその一員になるのでしょうか?また、神の国とは、これもキリスト教でよく言われる天国と同じことなのでしょうか?それでは、天国とはそもそもなんなのでしょうか?
神の国というものがわかるためには、まず神が準備し実行した人間救済計画なる計画と、そこで果たしたイエス様の役割を知らなければなりません。
天と地を創造した神が人間をも造り、これに命と人生を与えました。ところが最初の人間アダムとエヴァは、この自分たちを造ってくれた神に対して不従順に陥り罪を犯し、それが原因で人間は死ぬ存在となってしまいました。そうして、人間は造り主である神聖な神と切り離されて生きなければならなくなってしまいました。その結果、この世の人生では造り主の神から守りも導きも得られず、この世から死んだ後は、造り主のもとにも戻れず、永遠の滅びに陥ってしまうだけとなってしまいました。これに対して、神は、人間が再び自分との結びつきをもって生きられるようにしよう、この世から死んでも自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、と、まさにそのためにひとり子をこの世に送られました。そして、この神のひとり子イエス様に、神聖な神と人間を切り離している原因である人間の罪を全部彼におわせて、罪からくる罰を全てイエス様に課して、人間にかわって彼を十字架の上で断罪し、人間に対しては、イエス様の身代わりの死に免じて赦すことにしたのです。それで、人間は、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この「罪の赦しの救い」を得ることができ、しかも、自分の罪の汚れをイエス様に引き取ってもらうかわりに、イエス様の神聖さと神の義を頭から被せられるに至ったのです。さらに、神は一度死に引き渡したイエス様を今度は死から蘇らせて、死の力を無力にし、永遠の命、復活の命の扉を人間に開かれました。こうして、イエス様を救い主と信じる者は、神との結びつきが回復した者として、永遠の命に至る道の上に置かれ、この世の人生の歩みでは絶えず神から守りと良い導きを得られるようになりました。たとえこの世から死ぬことになっても、その時は神が御手をもってその人を御許に引き上げて下さり、永遠に造り主のもとにいられるようにして下さるのであります。
そういうわけで、神の国とは、イエス様を救い主と信じ、神との結びつきのなかで生きられるようになった者たちを構成員とする共同体であります。国とはいいながら、特定の国土も国境もなく国会も政府もありません。私たちの目で見ることのできない神が力を及ばせる領域で、そこでは人間を死と永遠の滅ぶに陥れる罪が、イエス様のおかげで、そうする力を失っている領域であります。死が絶対的な力を失っている領域です。神の国は、私たちの目には見えない国ですが、ただ、聖書の御言葉に基づいてイエス様を救い主と信じ、神との結びつきをもって生きている人たちは世界の各地にいます。お互いを知っている場合もありますが、大半はお互い顔も名前も知らず会ったこともどこにいるのかも知らないのがほとんどでしょう。しかしながら、神の方では全員を把握しています。世界のあそこに、聖書の御言葉をもとにして我がひとり子イエスを唯一の救い主と信じるに至って、創造主との結びつきを回復してこの世を生きている者があそこにいる、と把握しているのであります。私たちの目には見えませんが、神の目には見えているのであります。
私たちの目には見えない神の国ですが、これが実は将来目に見える形で現れてきます。イザヤ書の終わりの方で(65章17節、66章22節)、今ある天と地が新しい天と地に取って代わる日が来ると預言されています。「ヘブライ人への手紙」の12章には、今ある天と地が全ての被造物と共に激しく揺さぶられて崩壊していくなかで、ただ一つ揺さぶられずに堅個に残り、立ち現われてくるものがある、それが神の国であると預言されています。黙示録によれば、そこでは、「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙示録21章3‐4節)。また、この神の国は、盛大な結婚式の披露宴にもたとえられます(19章7-9節)。つまり、この世の労苦がすべて報われて労われるのであります。今の世で受けた不当な扱いで、不運にも今の世で補償も謝罪もなされず済んでしまったものは、すべて最終的に償われるところであります。それだから、イエス・キリストを救い主と信じる信仰に生きる者にとっては、この世で流す涙、味わう苦痛、背負う重荷で報われないものは何もなく、無意味、無駄に終わるものは何もないのであります。この世で不正義が見過ごされてしまったなら、それは不正義を行った者たちにとってとてつもない不都合になるのです。なぜなら、彼らは、人の前ではうまくやり過ごすことができていても、最後の審判の日には万軍の主である神の御前で無駄な申し開きをしなければならなくなるからです。
以上のように、神の国とは、罪の赦しの救いが力を発揮し、それゆえ死の力が寄りつけない領域です。その国の構成員は神との結びつきをもってこの世を生き、復活が起きる日には復活の体を得て永遠に神との結びつきに生きることになる者です。加えて、神の国は、神の正義が少なくとも潜在的に実現している国で、最後の審判の日には顕在的に実現することになります。それで、神の国の構成員はいくら遅くても最後の審判の日に原告席につくことになります。このように「神の国」というのは、今のこの世と次の世の二つの世にまたがる事象と言うことができます。「天国」と言うと、あの世的な意味が強くなるので、それは神の国の次の世の段階をさすものと言うことができます。
3.
本日の福音書の箇所に戻りましょう。イエス様は、エルサレムを目指し始めました。それは、受難と十字架の死と死からの復活を全てこなして神の人間救済計画を実現するためでした。それを実現すれば、人間はたとえ罪の汚れを持っていても、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに、神聖な神の国に迎え入れることができるようになります。
このような全人類史的な意義を持つ任務を負ったイエス様をサマリア人の村が受け入れを拒否しました。憤慨した12弟子の二人、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは天から火を送って焼き払ってしまったらどうですか、イエス様に聞きます。彼らの言葉づかいは、列王記下の1章で預言者エリアがバアル崇拝に走る国王の使者を天からの火で焼き殺した時の言葉を思い出させます。実際、弟子たちは、この出来事が脳裏にあったのでしょう。しかし、イエス様は、拒否したサマリア人の村はそのままにしておきなさい、と言われる。なぜでしょうか?
それはイエス様が優しい心の持ち主で憐れみに満ちた方だから、という答えではまだ核心を捉えられていません。どういうことかと言うと、イエス様は、父なる御神同様、全ての人間が神との結びつきを回復して永遠の命を持って生きられるようにしたい、そのようにして神の国の一員に迎え入れたい、と考えていました。それで、もし反対者をいちいち焼き滅ぼしてしまったら、せっかく罪びとが神の国の一員になれるようお膳立てをしに来たのに、それでは受難を受ける意味がなくなってしまいます。マタイ福音書5章45節で、イエス様は、神が悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせる、と言っていたことを思い出しましょう。なぜ、イエス様はそのように言ったのでしょうか?神は、悪人が悪行をさせるままにまかせる気前の良い方だということなのでしょうか?いいえ、そうではありません。悪人に対しても、善人同様に太陽を昇らせ、雨を降らせる、というのは、悪人がいつか悔い改めて神の国の一員になれるよう、猶予期間を与えているということなのであります。もし太陽の光も与えず水分も与えないで悪人を滅ぼしてしまったら、悔い改めの可能性を与えないことになってしまいます。それだから、悪人の方も、いい気になって、いつまでも悔い改めをしないで済ませていいはずがない、と気づかなければならないのであります。もし、この世の人生の段階で悔い改めがなければ、それはもう手遅れで、あとは最後の審判の日に神から、お前はこうだったと監査済みの収支報告を言い渡されるだけです。もし、悔い改めて、イエス様を救い主と信じる信仰に入っていたならば、そのような収支報告は言い渡されなくて済んだのに。
それでは、このサマリア人の村はどうだったのでしょうか?猶予期間を与えられて悔い改めたでしょうか?それが悔い改めたのです。使徒言行録の8章を見て下さい。ステファノが殉教の死を遂げた後、エルサレムにおいてキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起きました。多くの信仰者がエルサレムから脱出して、近隣諸国に福音を宣べ伝え始めます。その時、まっさきにキリスト信仰を受け入れた地域の一つがサマリア地方だったのです。あの、エルサレム途上のイエス様を拒否した人たちが、イエス様を救い主として信じる信仰に入ったのです。これで、なぜイエス様が、村を焼き滅ぼすことを受け入れなかったのかが理解できます。イエス様の考えには、人間が神の国の一員として迎えられるということが全てに優先される、ということがありました。そのことが受け入れを拒否したサマリア人にも適用されました。イエス様は、まさにこれから、人間が神との結びつきを回復させて、神の国の一員に迎え入れられるようにするお膳立てをしに行くところだったのです。
4.
次に、イエス様への付き従いというものも、神の国の一員として迎え入れられることに関係するということを見てみましょう。
三人の男の人が登場します。最初の人は、イエス様に付き従うことを志願します。それに対するイエス様の答えは、付き従いの生活はそんなに甘くはない、というものです。エルサレムまで一緒に上っていく途上で、いつもマリアやマルタの二姉妹のような支持者から食事と床を提供される保証はない、場合によっては食べるものもなく、雨風にさらされて寝ることにもなる、そのようにしてエルサレムまで行って、イエス様の十字架と復活につきあって目撃者となったら、あとはどうなるのか?復活後のイエス様は天に上げられてしまう。そうなると、もう付き従うイエス様はいらっしゃらない。イエス様への付き従いもそれで終わってしまうのか?実は、イエス様の発言は、昇天以後も視野に入っていたのです。つまり、神の国の一員として迎え入れられた後は、今度は他の人をその一員として迎え入れられるように働きをしなければならないのであります。なぜなら、全ての人が神との結びつきを回復して生きられるようになることが神の御心だからです。そうすると、この働きも、イエス様と共にエルサレムに上っていくことと同じように、安逸の保証がないものであります。いつも支持者や賛同者に囲まれるとは限らず、いつも寝食が満足に得られる保証もないのであります。
このことが、二番目の男の人のところで明確に出てきます。父親の埋葬には行かず、神の国を言い広めよ。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言うのは、死者を死者のところにほおっておけという、死体遺棄のことではありません。葬らせよと言っている「死んでいる者たち」とは、神との結びつきを回復していない人たちを指します。永遠の命に至る道を歩んでおらず、この世から死んだら、新しい復活の命も体も持てずに永遠の滅びに陥ってしまうだけの人、これを「死んでいる者たち」と言っているのです。つまり、神の国に迎え入れられていない人を指します。父親の埋葬はそのような人たちに任せて、あなたのなすべきことは、神の国を言い広めることだ、とイエス様は命じます。つまり、人々が神の国の一員に迎え入れられるように働きなさい、ということなのです。人々が神との結びつきを持って生きられるように助けなさい、永遠の命に至る道に入って歩めるようにしなさい、つまり、「死んでいる者たち」を生きる者にしなさい、ということなのです。
こうして見ると、ここのイエス様の教えは、キリスト信仰者は親の葬儀をするな、軽んじろ、ということではないことが明らかになります。葬儀をするにしても、人々を神の国の一員となるようにしなさい、ということなのです。一般にキリスト教会の葬儀はこの任務に取り組んでいると思います。故人にゆかりのある人たちが集まって、亡くなった人の死を悲しみ、遺族の悲しみを共に悲しんで分かち合い、また遺族に慰めの言葉をかけて励まし合う、ここまではキリスト教に限らず他の宗教も同じでしょう。しかし、この先は大きく異なります。キリスト教では、死はこの世の命から永遠の命に移行する通過点となります。実際に復活が起きるのは、最後の審判の日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわる日ですが、それまでは、死んだ者は、造り主である神のみぞ知る場所に安置されます。ルターの言葉を借りれば、そこで健やかな眠りについて、復活の時を待ちます。さらにルターによれば、この世に残された私たちからすれば待ち時間は長いものになりそうですが、死んだ本人にとっては一瞬の出来事にしか過ぎない、この世の命が終わり目を閉じた瞬間、瞬きした瞬間にもう復活の出来事が始まっているというのです。これを読んだとき私は、それは、あたかも全身麻酔で手術を受けた人が、麻酔が効き始めたなと思った瞬間、手術はもう終わっていた、ということを連想しました。そしてキリスト教の死生観に強く出てくることとして、復活後の再会ということがあります。復活の体と命を持った者同士が合いまみえるということであります。キリスト教の葬儀では、悲しみの中でもこの再会の希望が確認されます。そのようにして、参列する人たちが、神の国の一員であることを再確認し合い、また参列者がキリスト信仰者でない場合は、神の国がどのようなものであるかを伝える宣教的な意味を持つ、これがキリスト教の葬儀です。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」という主の命令は、そこでも守られているのです。
ここで特に日本のキリスト信仰者にとって重い課題となるのは、参列する葬儀がキリスト教ではなかったらどうすべきか、ということです。これも、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」が原則になります。つまり、神の国の一員でない人たちに、自分がまさにその一員であることを証し、さらにその人たちを時間がかかってもなんらかの形で一員に導いていくことができれば、この原則に沿ったものとなります。しかし、それは具体的にどういう形をとるでしょうか?本説教では、こうしなさい、ああしなさい、ということは言わず、皆さんお一人お一人の心に問題の提起をすることにとどめておくことにします。
さて、三番目の男の人の場合です。「鋤に手をかけて後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と主は言われました。ここで早合点してはいけないことは、イエス様は家族を見捨てろ、と言っているのではないということです。イエス様の原則からすれば、家族ももちろん神の国の一員になるように働きかける対象になります。その意味で、家族のもとには戻れるのであります。この三番目の男の人のところで問題となっているのは、家族に対して、この神の国の一員になる働きかけをしようとしないで家族のもとに戻ると、神の国の一員でない生き方に戻ってしまう、家族の絆というのはそれ位強力なものであるということです。これをどうしたら、家族の方が神の国の一員になる方向で絆を保たせられるか、これもとても重い課題です。家族の人たちが、イエス様に関心があるとか、救い主として受け入れる心の準備があるとか、そういう理想的な事例はなかなかないでしょう。イエス・キリストの名を口にしただけで嫌な顔をされてしまうのが大半なのではないでしょうか?それなら、まず祈りから始めるべきです。私たちの愛する人たちが私たち同様に神の国の一員に迎えられるように、そして私たちが彼らとの絆を理由に神の国の一員になったことを諦めるような追い詰められが起こらないように、父なる御神に思いを打ち明け、助けと良い導きをお願いしていきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン