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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
福音書には、徴税人と呼ばれる人たちがよく登場します。どんな人たちかと言うと、名前が示すごとく、税金を取り立てる人たちです。福音書に出てくる徴税人とは、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人です。なぜ占領されている国民の中に、占領国に仕えようとする人が出てくるかというと、徴税の仕事は金持ちになれる道だったからです。福音書をよく読んでみると、徴税人たちが決められた徴収額以上に取り立てていたことがわかります。ルカ福音書3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けようと集まってきた徴税人を叱責する場面があります。そこでヨハネは彼らに次のように警告します。「規定以上のものは取り立てるな」(13節)。ルカ19章では、ザアカイという名の徴税人がイエス様に次のような改心の言葉を述べます。「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)。そういうわけで、占領国の権力に取り入って不正を働いていた徴税人が自分の利益しか考えない裏切り者とみなされて、同胞から憎まれていたことは驚きに値しません。
ところが、こうした背景知識をもって福音書を読んでみると、一つ驚くべきことに気づかされます。それは、福音書に登場する徴税人たちは、以上述べたような実際に存在していた徴税人とは様子が違うのです。福音書に登場する徴税人には、邪悪なところがみられないのです。もう一度ルカ福音書の3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが、神の裁きが来ることを人々に告げ知らせています。ヨハネの告知を信じた大勢の人たちが、神への悔い改めを確かなものにしようと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループもいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねました。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは、これまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのでした。本日の福音書の箇所の徴税人も同じです。彼も神のもとに立ち返る必要性を感じていた人です。もちろん、本日の箇所の徴税人はイエス様のたとえに登場する架空の人物です。しかし、それでもこのような徴税人が実際にいたことは、先ほども見たように、洗礼者ヨハネのもとに徴税人のグループも行ったという歴史的事実から明らかです。ルカ19章の徴税人ザアカイですが、イエス様が彼の家を訪問すると決めるや否や、これまで不正を働いて貯めた富を捨てるという大きな決心をしました。マルコ福音書2章にレビという名の徴税人が登場します。イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てた、ということであります。
以上から、福音書に登場する徴税人は、神に背を向けていた人生を改めなければならない、そのためには神のもとに立ち返らなければならないと感じていた人たちなのであります。そして、実際には、感じるだけでなく、イエス様の力で本当に神のもとに立ち返ることになった人たちもいたのです。
聖書を読む人の中には、このような神のもとに立ち返った徴税人というものを信じない人もいます。福音書が伝える徴税人と全く正反対な像を主張する人の一人に、E. P. サンダースSandersという著名な新約学者がいます。1986年に出版されて世界的に注目された彼の研究書Jesus and Judaism(「イエスと第二神殿期ユダヤ教世界」とでも名付けてよいと思います)の中に、イエス様が十字架刑に処せられるに至った要因について考察する部分があります。一つの要因としてサンダースがあげるのは、イエス様が徴税人その他の罪びとたちと食事を共にしていたことです。つまり、イエス様は罪びとたちを神への立ち返りがない状態で受け入れた、罪びとの罪を公に承認した、とサンダースは考えるのです。これが、当時のユダヤ教社会の宗教指導者たちの反感を買い、イエス様に対して敵意を抱かせることになったと言うのです。もし、イエス様と食事を共にした罪びとたちが神への立ち返りを行って「元罪びと」になっていたら、それは宗教指導者たちにとってはおめでたいことになるのだから、その場合には反感も敵意も生まれなかっただろう。しかし、実際はその反対だったのだ、とサンダースは考えるわけです。
しかしながら、それではイエス様という方は、支配者たちの目にショッキングなことをやってみせて体制を引っ掻き回す、なにか注目集めの騒がし屋のようになってしまいます。私は、サンダースはもっと福音書に記述されている出来事、つまり、徴税人のグループが洗礼者ヨハネのもとに行って洗礼を求めたこと、レビが全てを捨ててイエス様に付き従ったこと、イエス様に受け入れられたザアカイが不正で築いた富になんの価値も見出さなくなったこと、こうした出来事をもっと重要視すべきではなかったかと思う者です。私としては、イエス様と食事を共にした罪びとたちはイエス様の招きがきっかけとなって神のもとに立ち返った人たちであったと考えるべきだと思います。
それならば、なぜユダヤ教社会の宗教指導者たちは、イエス様と元罪びとたちの食事の宴をみて満足しなかったのでしょうか?もちろん、指導者たちは満足できるはずがありません。なぜなら、神への立ち返りということが、彼らの権威を素通りして、完全にイエス様の招きの力で実現したからです。人間はどうしたら神の意思に従う生き方をすることができるかという問題について、イエス様と宗教指導層の間には深い見解の溝がありました。マルコ福音書2章に、イエス様が全身麻痺の男の人を癒す奇跡を行った出来事が記されていますが、その時イエス様は自分が罪を赦すことが出来る者であると人々に示されました。罪を赦す立場にあるということは、神と同等の地位にあるということです。このような、人々に罪の赦しを与え、神のもとへ立ち返らせることができる人物は、宗教指導層にとっては自分たちの権威に対する重大な挑戦と受け取られたのであります。
以上から、次のことが明らかになります。もし人が自分の造り主である神に背を向けていた生き方を変えなければならない、神のもとに立ち返らなければならない、と感じて、イエス様の招きを受け入れると、その人の人生は神の意思に従うものに変わり始める、ということです。キリスト信仰者の間でよく聞かれる言葉に「イエス様はあなたをあるがままの状態で愛される」というものがあります。しかし、これが意味するところは、イエス様は、あなたの神の意思に反する生き方を続けてもよいと認めているということではありません。そうではなくて、その言葉が意味しているのは、「イエス様は、神のもとへ立ち返る必要性を感じているあなたをあるがままの状態で愛される」ということです。どんな罪にまみれた人でも、神に背を向けていた生き方をやめよう、神のもとに立ち返らなければならないと感じている時に、イエス様の招きを受け入れると、その人の人生は神の意思に従うものに変わり始めます。神のもとへの立ち返りの必要性を感じていない人は誰もイエス様の招きを受け入れません。仮に、立ち返りの必要性を感じないでイエス様の招きを受け入れたとしても、その人の人生には神の意思に沿った変化は何も生まれません。
2.
本日の福音書の箇所で、イエス様は祈りについて何かを教えています。そのことをみてみましょう。先週の主日の福音書の箇所も祈ることについての教えでした。それは、執拗に願い求める未亡人と神をも畏れない裁判官のたとえでした。そこで、イエス様は、神を信頼して気を落とさずに絶えず祈ることの大切さを教えました。それに続く本日の福音書の箇所で、イエス様は、自分を低くするような仕方で祈らなければならないと教えます。自分を低くするような仕方で祈るとは、まさに、神のもとへ立ち返る必要性を感じながら祈るということであります。
イエス様の祈りについての二つの教えがどう結びついているかを見てみましょう。結びつきを理解するカギは、イエス様は誰にこれらの教えを述べているかということです。「やもめと裁判官」のたとえは、先週申しましたように、弟子たちに述べられています。本日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(18章9節)述べられます。ギリシャ語に忠実に訳すと「自分は神の目の前で義なる者であると自信を持つような自信過剰にあり、かつ他人を見下している何人かの者たち」です。誰がその「何人かの者たち」でしょうか?
「やもめと裁判官」のたとえの最後のところで、イエス様は尋ねます。自分が地上に再臨する日、果たして、やもめが示したような執拗さをもって祈りを絶やさない信仰はこの世に残っているだろうか?イエス様は、この質問を、たとえを聞いていた弟子たちにしました。この質問の後でイエス様は、自信過剰に陥っていた何人かの者たちに本日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえを話しました。つまり、このたとえが向けられた相手とは、弟子たちの中で、自分は大丈夫だ、死ぬまで神を信頼して祈りを絶やさずに生き抜くことが出来ると信じていた者たちだったのです。自分が再臨する日に祈りを絶やさない信仰を見いだすことができるであろうか、というイエス様の問いに対して、「はい、わたしはそのような信仰を持っています」と自信を持って答えられる者を相手に述べられたのです。
そういうわけで、本日の福音書の箇所は、神を信頼して祈りを絶やしてはならないという先週の箇所の教えを、さらに一歩踏み込んだ教えなのであります。たとえ、信仰ある人が最後まで気を落とさずに絶えず祈り続けたとしても、もしその人が本日の箇所のファリサイ派の人のように祈ったら、せっかくの絶えざる祈りといえども何の意味もなくなってしまいます。ファリサイ派というのは、当時のユダヤ教社会の中にあった熱心な信徒を中心とする信仰浄化運動です。神の意思に従った生き方を実践しようと、モーセ律法を重んじ、さらに口伝えの宗教的規定を厳密に守ることも主張してしました。様々な規定を守ることを通して、神の目に相応しい者になろうとしていたのです。
本日の説教の最初の部分で、どんな罪にまみれた人でも、神に背を向けていた生き方をやめよう、神のもとに立ち返らなければならない、と感じている時に、イエス様の招きを受け入れると、その人の人生は神の意思に従うものに変わり始める、と申しました。本日の福音書の箇所の徴税人は、まさにそうした必要性を感じて神に祈りを捧げました。彼が祈ったこと「神様、罪びとのわたしを憐れんでください」というのは、「神様、罪びとのわたしを罰しないで下さい」と憐れみを乞うているのであります。神から罰せられるというのは、この世の人生を終えた後で自分の造り主である神のもとに永遠に戻れなくなるということであります。その彼が、神の目に義なる者とされたのであります。他方で、ファリサイ派の人の場合は、神に背を向けた生き方をやめよう、神のもとに立ち返らなければならない、とは感じていませんでした。宗教的な規定をしっかり守っているので、自分では神に背を向けた生き方をしているとは思いもよらないし、神のもとに十分立ち返っていると思っていたでしょう。しかし、その彼が、祈った後で、神の目に義なる者とはされなかったのです。なぜでしょうか?
マルコ福音書7章にイエス様とファリサイ派の人たちの間の有名な論争があります。それは、何が人間を汚れたものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうかという問題でした。イエス様の論点は、人間を汚して神から切り離された状態にするのは、人間の内部に宿る無数の悪い思いである、従って、宗教的な儀式や規定を守っても内部の汚れを除去できないので意味がない、というものでした。それでは、どうしたら人間は自分を造られた神から切り離された状態に終止符を打てて、神との結びつきの中で生きることが出来るのでしょうか?
これを人間の力ではできないと知っていた神は、それを実現するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そして、本来は人間が背負うべき罪と不従順からくる罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、このイエス様の身代わりの死に免じて人間を赦すことにしたのです。さらに神はイエス様を死から復活させて、復活の命、永遠の命の扉を人間のために開きました。人間は、これらのことが全て自分のためになされたとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が実現した救いを受け取ることができます。救いを受け取った人というのは、イエス様の身代わりの死に免じて罪を赦された人なのであります。こうして人間はイエス様のおかげで神の目に相応しい者と映り、神との結びつきの中で生きることができるようになったのであります。
そして、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、今度は永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようになったのであります。
イエス様を救い主と信じて、神との結びつきの中で生きることになったとは言っても、肉をまとって生きる私たちには、まだ同じ内在する罪や汚れた悪い思いを抱えています。つまり、神に背を向ける生き方をやめよう、神のもとに立ち返らなければならないと感じるのは、キリスト信仰者になる時だけに限られません。信仰者となった後も、「神様、罪びとの私を憐れんでください」という祈りは終わることはありません。ただ、イエス様を救い主と信じてこの祈りを祈る人は、イエス様の身代わりの死に免じて神から罪を赦されます。イエス様を信じない人は、誰かの何かに免じて罪が赦されるということがなく、全て自分の力で神からの赦しを得なければならなくなります。しかし、それは不可能です。
以上、キリスト信仰者が祈る場合、気を落とさずに絶えず祈らなければならないということと、自分はまた神に背を向けてしまった、今こそ方向転換して神のもとに立ち返らなければならない、と日々悔い改めの心をもって祈らなければなりません。
3.
最後に、神のもとへの立ち返りの必要性を感じた時に、神の御言葉と聖餐式には大きな意味があるということについて申し上げたく思います。神の御言葉は聖書に収められていますが、そこから私たちは、自分たちがいかに神の意思に反する生き方をする存在で、この神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいるかが明らかになります。しかし、この同じ神の御言葉からさらに、神はどんなにか私たち人間が神との結びつきの中で生きられるようにと望んでおられたか、まさにそれを実現するためにひとり子イエス様をこの世に送られたのだということが明らかになります。
人は、イエス様を救い主として受け入れた時に新しい命と人生を得られます。この時、神の意思は、私たちにとってもはや忌み嫌うべきものではなくなって、喜ばしいことになります。なぜなら、私たちは、私たちをここまで愛して下さる神を愛するのが当然だという気持ちになり、そのような神の教えることには聞き従うのも当然となるからです。しかしながら、力弱い私たちは、いつも神の意思に背くようなこともしてしまいます。神の御言葉がそのことを示します。そして、同じ御言葉が、神の意思は私たちが神に背を向けてしまうのではなく、いつも神のもとに立ち返ることを望んでいらっしゃることを明らかにしています。そうでなければ、イエス様がこの世に送られることはなく、十字架で犠牲の死を遂げることもなく、そして死から復活させられたこともなかったでしょう。このように神の御言葉は、私たちの神との結びつきを強めてくれる大事な恵みの手段です。
それから、聖餐式でイエス様の血と肉を受け取る時、私たちは、私たちに確立された神との結びつきを口で味わって確認することができるのです。 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン