説教「神からいただくものを何にどう役立てるか?」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書 19章11-27節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日は、子供祝福式を伴う礼拝ということで、先ほど、子供向けに聖書のお話をしてもらいました。内容は、4つの土地のたとえでした。イエス・キリストの福音を聞いて信じた人たちが、種を蒔かれた4つの異なる土地にたとえられて、福音が種のようにそれぞれに蒔かれました。良い土地のように種がしっかり育って実を結ばせるような土地は、どんな人たちを指すのだろうか、ということを考えました。

今お読みいただいた福音書の箇所は、王様になる人から1ムナという単位のお金を与えられて、王様の留守中に商売をして、どれだけ儲けを得るか試された家来たちの話です。たくさん儲けを得た家来と少ししか得なかった家来、全然儲けを得なかった家来と結果が三つに別れました。王様がそれぞれにどんな態度をとったかは、先ほど読んでいただいた通りの結果でした。最初は同じことが始まるが、終わりに異なる結果が出る、ということで、4つの土地のたとえに似ています。4つの土地の結果はどうして違ってしまったのかは、先ほど見ました。この説教では、どうして儲けを得た家来と得なかった家来の違いがでてしまったのかを見てみましょう。

2.

本日の箇所のイエス様のたとえは、少しわかりにくい教えです。登場する王様は、儲けを得なかった家来のお金を取り上げて、一番儲けた家来にあげてしまいます。儲けを得なかった家来は、王様が不在中、お金をずっと布に包んでしまっていたのですが、それはお金を大切に保管していたことになります。お金は減りもせず、なくなりもしませんでした。でも、王様は大不満足でした。さらに、王様は、自分が王になることを反対する者たちを連れ出して「打ち殺せ」とも命じます。とても残酷な王様にみえます。イエス様は、このたとえで一体何を教えたいのでしょうか?

イエス様がこのたとえを話された理由が、11節に記されています。イエス様が「エルサレムに近づいておられ、人々はすぐにでも神の国が現れると思っていたからである。」どういうことでしょうか?イエス様は、大勢の人たちを伴って、ユダヤ民族にとって首都であるエルサレムに向かっています。人々はイエス様に大きな期待を賭けていました。この方は、無数の奇跡の業を行い、ユダヤ民族の宗教指導者なんかよりも真の神の意思を権威をもって教える方である。昔の偉大な預言者級の方で、この方がエルサレムに入城すれば、神の天使の軍勢が加勢し、イスラエルを占領しているローマ帝国軍を追い払い、占領者と結託している支配層も叩き出して、真の神の国が実現する。そういう期待です。しかし、天と地と人間を造られた神が全人類のために実現しようとしていた計画は、そんな一民族の解放を超えたもっとスケールの大きなものだったのです。

実際に起こったことをみてみましょう。エルサレム入城後、イエス様は宗教指導者と激しく対立し、最後は一弟子に裏切られ、他の弟子にも見捨てられて逮捕され、裁判にかけられて十字架刑に処せされました。それまで付き従っていた人たちも、期待外れだったとイエス様に背を向けました。ところが、死んで墓に葬られたイエス様が、神の力によって三日目に死から復活させられて大勢の人の目の前で神の栄光を現されました。このようにして、神の人間救済計画が実現されたのです。神は、御自分と人間の結びつきを崩していた罪の汚れを全部イエス様に貼り付けて、罪の罰を全部イエス様に負わせて十字架の上で死なせたのです。それで、神はイエス様の身代わりの死に免じて人間を赦すことにしたのです。人間は、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ければ、この罪の赦しが効力を持つ者となって、神との関係が回復するのです。そして、洗礼によって復活したイエス様にも結び付けられて、永遠の命、復活の命に至る道に置かれて、その道を歩むようになりました。そして、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から守りと良い導きを得て、この世の人生を歩むこととなり、万が一この世から死ぬことになっても、父なる神、自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることができるようになったのであります。これが、一民族の解放を超えた全人類に及ぶ神の人間救済計画であり、神はそれをイエス様を用いて実現されたのでした。

イエス様は復活されてから40日後に天に上げられ、いつの日か天使の軍勢を従えて地上に再臨するその日まで、天の父なる御神の右に座すこととなりました。そういうわけで、神の国が見える形をとって現われるのは、実はこの主の再臨の日なのであります。イエス様のエルサレム入城の時ではなかったのです。こうしたことは、当時、民族解放の希望に燃えていた人たちにとっては想像もつかないものでした。イエス様が本日のたとえを話されたのは、まさに、神の国の到来は彼らの期待した形をとらない、ということと、神の国の到来まで私たちは何をしなければならないか、ということを教えるために述べたのであります。

3.

少し脇道にそれますが、イエス様のこのたとえは、現実に起きた事件が下地にあります。赤ちゃんのイエス様を殺害しようとしたヘロデという王がいたことは、皆様もご存知の通りです。ヘロデ王が死んだ後、息子の一人アルケラオが父親の領土の一部を受け継いで王となるために、ローマに出かけました。なぜかと言うと、当時ユダヤ民族はローマ帝国に占領されていたので、特定の民族の王になるためにはもっと上の支配者であるローマ皇帝の承認を得なければならなかったからです。アルケラオは「王」ではなく一ランク下の「領主」になって、ユダヤの地に戻ってきました。しかし、話はそこで終わりませんでした。マタイ2章22節にも登場するアルケラオは、残忍な性格だったため人々の反感を買います。そこで、ユダヤ人たちは実際、本日のたとえに出てくる反対者のように、ローマに使い送って皇帝に訴え出て、それが功を奏して、アルケラオは領主の位を失うに至ったのです。

イエス様が、本日のたとえを話されている場所は、エリコというエルサレム近郊の町です(19章1節)。そこにはアルケラオの建てた宮殿も残っていました。それで、出来事から20年以上たったとは言え、イエス様のたとえを聞いた人たちは、アルケラオのことをすぐに思い出したでしょう。しかし、たとえに出てくる王様な失脚しません。帰国すると、反対者を全滅させます。これは何を意味するのか?それは、イエス様が再臨する日までに、イエス様に敵対することをやめなかった者たち、イエス様を救い主と信じる人たちを迫害した者たちが裁かれて、永遠の滅びに落とされることを意味します。つまり、最後の審判のことです。このように、このたとえは、人々がよく知っている出来事に結びつけることで、イエス様の再臨と最後の審判に現実味を帯びさせる効果があるのです。それがイエス様の狙いでありました。

最後の審判の日に、イエス様に敵対することをやめなかった者たちやイエス様を救い主と信じる人々を迫害する者たちが裁かれる、と申しました。私たち信仰者は、そのような敵対に遭遇しても恐れてはいけないし、また、そのような者たちの心が変わるように祈りの力をもって働きかけなければいけません。さらに、まだイエス様のことを何も知らない人たちに対しては福音を宣べ伝えて、神がイエス様を用いて実現した救いを一人でも多くの人が受け取ることができるようにしていかなければなりません。

4.

次に、多く儲けた家来、少なく儲けた家来、全然儲けなかった家来と王様のやりとりが何を意味しているのかを見てまいりましょう。

最初の家来は、王様にもらった1ムナ、それは当時の肉体労働者の100日分の賃金に相当する金額ですが、それが商売をした結果、10ムナの儲けを得ましたと報告する。初めの1ムナは資本ですから、それは商売を起こすために消費されたでしょうから、その人は今現在10ムナを持っていることになります。次に同じ1ムナのお金で5ムナの儲けを得た人が出てきます。二人に対する王様の処遇ですが、日本語訳の聖書では「10の町の支配権を授けよう」と褒美が与えられたように書かれています。しかし、ギリシャ語の原文を見ると、「十の町の支配権を持て/支配権を持つ者となれ」と命令文になっていて、これは褒美をあげることではなく、責任を与えたことになるのです。5ムナの儲けを得た人も同様です。ギリシャ語原文では「5つの町の上に立つ者になれ」で、これは日本語でも「5つの町を治めよ」と命令文に訳されているので大丈夫です。こういうわけで、10の町、5つの町の支配権とは、得た儲けの大きさに比例して褒美を与えたというのではなく、10倍の儲けを得た者にはその実力相応の責任を与える、5倍の儲けを得た者にはそれ相応の責任を与える、ということであります。5倍の儲けの人には10の町の支配権を任せるというような無理は押し付けない。そのかわりに、10倍の儲けの人には5つの町の支配権で済ませるということもしない。このようにイエス様は、私たち一人一人がどれだけの力を持っているかをよく吟味して、それに相応しい課題や任務をお与えになるのです。王様が1ムナを与えた家来は全部で10人いました。他の人たちの成果は触れられていませんが、いずれの人も同じ処遇を受けたでしょう。7ムナを儲けた人には7つの町、3ムナを儲けた人には3つの町という具合に。

ここで大変なことが起こりました。家来の中に儲けが全然なかった人がいたのです。その人は、1ムナをずっと布に包んでしまっておいていました。なぜか?商売に失敗して1ムナを失ってしまった時の王様の対応を恐れたのです。家来は王様に言います。「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」あなたは、自分では預けなくとも、それがあるかのごとく取り立てをする、自分では種を蒔かなくとも、蒔かれたかのごとく刈り入れすることを要求する、そういうお方だ、と。つまり、何も取り立てするものがなくても、また刈り入れするものがなくても、取り立てたり刈り入れたりしようとする方だ、と。こうなると、商売に失敗して持ち金ゼロになった場合、それでも取り立てを要求されてしまってはかなわない。それなら、リスクは避けて、1ムナは保管して、後でそのまま返してしまえば無難なのだ、という結論になったのであります。

これに対する王様の処遇はとても厳しいものでした。たとえ勇気ないし知識がなくて商売はできなくとも、銀行に預ければ利子がつくではないか、と。利子ですから、5倍、10倍の儲けは出ることはないでしょう。恐らく、5%とか10%の儲けとかという程度だったでしょう。しかし、王様にはそれでよかったのです。その小さな儲けに相当する責任を負わせることは出来たのです。しかし、儲けゼロではなんの責任も負わせられません。家来が王様のことを、取り立てたり刈り入れたりするものが何もなくてもそうする方だと言ったことに対して、王様は、そう思っているのなら、そうしてやろう、と言わんばかりに、家来の保管していた1ムナを取り上げて、10ムナ持っている家来にあげてしまいます。どうして、既に十分持っている者にさらにあげるのかというと、一番成功した者に対する偏愛ではなく、その者が一番大きな責任を担える能力を持っていると信頼しているからであります。

ここで注意しなければならないことが二つあります。一つは、王様が取り上げた1ムナを一番儲けた人に渡そうとする時、側近たちが「あの人は既に10ムナ持っています」と言います。つまり、王様は、儲けた人からは何も取り立てておらず、所有を許しているのであります。その上で能力相応の責任を与えているのであります。二つ目は、なんらかの理由で商売をしなくとも、預金利子のように必ずや儲けを得る方法はあるということ。すなわち、王様からすれば、家来に与えたお金は、保管さえしないで、何がしかのことをすれば、必ず、責任を担ってもらうような成果は生まれる。たとえどんな小さなものでも成果は生まれるのであり、失われることはない、そのように王様は確信していると言うことができます。

5.

ここで、たとえに出てくる王様、家来そして1ムナというお金は何を意味しているのかを見てみましょう。王様は、紛れもなく、復活後天に上げられて、今、父なる御神の右に座し、最後の審判の日に再臨する主イエス・キリストであります。家来と言うのは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者であります。ムナという単位のお金についてですが、これは神がキリスト信仰者一人一人に与えられる賜物です。賜物とは、「ローマの信徒への手紙」12章で使徒パウロが、預言をする賜物、奉仕をする賜物、教える賜物、勧めを行う賜物、施しをする賜物、指導をする賜物、慈善を行う賜物などをあげています。どれも教会を作り上げ成長させるためのものですが、この他にも教会の成長に役立つ賜物はいろいろあるでしょう。よく言われるのは、音楽の才能がありますが、例えば、笑顔を絶やさない人がいて、それが教会の雰囲気を明るくするのに資すれば、それも音楽の才能と並ぶ賜物と言えます。とにかく、全ての人には教会の成長に資する賜物が神から与えられているのであります。たとえの中でも、三人の家来はみな、初めの1ムナのことを、商売に自由に使えるものの、「あなたの1ムナ」とはっきり出所を述べています。

たとえの中で王様は、10ムナの儲けを得た家来に対して、「お前はごく小さな事に忠実だった」と言います。小さな事とは最初に与えた1ムナのことですが、神が私たちに与える賜物も小さな事とはどういうことでしょうか?この同じ言葉は、ルカ16章の「不正な管理人」のたとえのところでも出てきました(10節)。そこで教えましたことをおさらいします。「小さな事」ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςとは、別に大きさの大小のことだけでなく、価値のあるなしにも使われます。つまり、1ムナというお金が金額が少ないということではなく、お金自体が「ささいなこと、取るに足らない事」であると言っているのです。お金というものは、人の心を神から引き離す力を持っているので、それでささいなもの、取るに足らないものということになるのであります。ところが、そのようなお金に対して、心を奪われ仕えてしまうのではなく、逆にお金に対して主人になれる者は、それを神の意思に沿って使うことができる。これが、「取るに足らないものの扱いに際して忠実でいる」ということの意味です。神の意思に沿ってお金を使うというのは、神を全身全霊で愛するということ、そして隣人を自分を愛するが如く愛するということ、これらの愛のために使うということでした。

同じことが賜物にもあてはまります。人は、神から賜物を与えられると、それを自分の繁栄や名声のために使ってしまう場合があります。その時は、お金に心を奪われてそれに仕えてしまう人と同じです。それが、神の意思に沿って用いようとすると、賜物に対しても主人として立ち振る舞うことになります。そのように賜物を用いると教会は成長するのです。1ムナを流動させることで得られた儲けは、まさに教会の成長を意味するのです。

そういうわけですから兄弟姉妹の皆様、私たち一人一人は何がしかの賜物を神から与えられているのですから、それを眠らせてしまわないで、教会の成長のために役立ててまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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