説教「復活の日に」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書20章27-40節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所は、復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについてしっかり理解しなさい、と私たちに注意を促すところです。この箇所の解き明しに入る前に、これに関連したお話をひとついたしたく思います。

去る11月2日土曜日にスオミ教会は10年振りくらいに修養会を行いまして、立川にある昭和記念公園に行ってきました。大空の下での聖書の学びのテーマは、「人間は死んだらどこに行くのか?聖書はどう教えているのか?」でした。そこで、私は、人間が死んだらどこに行くのかという問題を考える時、キリスト信仰にあっては、復活ということを離れてはありえない、と強調しました。復活と言えば、まず、主イエス様の復活の出来事が私たちの頭に浮かびます。それから、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者たちが与る復活があります。その復活について、使徒パウロは「コリント第一の手紙」の15章の中で詳細に教えています。「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する(43節)」という彼の言葉は、キリスト信仰者にとって希望とは死を超えるものを意味することを示しています。

ところで、復活を理解する際に忘れてはならないことの一つとして、復活は将来のある特定の時期に一括して起きるということがあります。つまり、復活とは、キリスト信仰者が一人死ぬたびに起きるのではなく、将来のある時にまとめて一緒に起きるということです。その将来の時とは、今ある天と地が消え去って新しい天と地にとってかわれる日(イザヤ65章17節、66章22節、黙示録20章11節、22章1節)であり、また、今ある全ての被造物が揺るがされて除去され、かわりに唯一揺るがされずに残る神の国が現れる日(「ヘブライ人への手紙」12章27-28節)でもあります。そういう天地大変動の日に、死んでいた者が復活させられて、神の王座を裁判官席とする裁判が行われます。黙示録20章11-15節に従えば、そこで下される判決によって、ある者は神の国に迎え入れられますが、別の者は永遠に燃えさかる火の海に投げ込まれます(注意 黙示録20章全体をみれば、これは第二の復活ということになり、第一の復活が起きてから千年後に起きることになっています)。

以上から、復活の日、天地大変動の日、最後の審判の日はみな同じ日を指すことが明らかになりました。そういうわけで、私たちが礼拝の信仰告白の時に、「信じます」と口で公にしている死者の復活とは、将来に一括して起きることであり、人間一人一人死ぬたびに起きることではないのであります。

それでは、既に死んだ人たちは、将来起きる復活の日まではどこで何をしているのか?例えば、復活の日が2073年に来ると仮定した場合、1873年に亡くなった人は、今年までの140年間をどこで過ごしていたのか?これからの60年間をどう過ごすのか?この疑問に対する申し分ない答えが、ルターの教えの中にあります。マタイ9章24節でイエス様が会堂長の娘を生き返らせる時に述べた言葉「娘は死んでいない。眠っているだけだ」について、ルターが次のように解き明しています。

「我々は、我々の死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるように、それを恐れてはならない。キリストとしっかり結びついている者にとっては、死とは、全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休憩用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪からも、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は、我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。

死が一時の睡眠である以上、我々は、そのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって、墓から飛び出し、天上の雲にいます我々の主、救い主に迎えられるのである。

我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、命を主に委ねるではないか。我々は、主に委ねた命は失われることがなく、眠っていた間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただいていたことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」

以上から明らかなことは、キリスト信仰者にあっては、死んだ時から復活の日までは神のみが知る場所にいて眠っているということであります。1873年に亡くなった人は、今年に至るまで140年間、神のみが知る場所で眠っていたのであり、2073年に復活の日が起きると仮定した場合、あと60年間そこで眠っているのであります。そうすると200年も眠っていて大丈夫か、途中で起きたらどうするんだ、というような余計な心配が起きるかもしれません。ルターによれば、地上に残った人たちにとっては長い年月でも、眠っている本人にとっては、目をつぶって次に開けるまではほんの一瞬の出来事にしかすぎないのであります。理解を超える話のようでありますが、このようなことは実は、皆様の中で全身麻酔の手術をお受けになったことのある人がいらっしゃいましたら、ありうることだと思われるのではないでしょうか?

以上のようなことを、スオミ教会の修養会でお話しした次第です。参加者の人たちとの間で興味深い話が始まりました。日本では一般的に、人間は死んだらすぐ、天国か何かわからないがどこか高いところに舞い上がって、今、そこから私たちを見守ってくれている、という考え方をする人が多いのではないかと思います。キリスト信仰者の中にもそういう言い方をする人がみられます。しかし、キリスト信仰においては、そんなことはありえないのであります。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っているのであります。高いところに行くのは、将来のことで、その日、その高いところから地上を見下ろしても、その時はもう天地大変動の後で、今ある地上はもう存在しないのであります。

死んだ人がただ眠ってしまうだけなら、誰があの世から見守ってくれるのかと心配する向きもあるかもしれません。おそらく仏教の方はそれが心配事になるのではないでしょうか。死んだ人が眠ってしまい、食べもせず飲みも歩きもしないのなら、お供えものをする必要がなくなってしまうからです。キリスト信仰では、見守って下さる方は、亡くなった者ではなく、それはもう、天と地と人間を造られた創造の神しかいないのであります。この私たちを見守って下さるのは私たちの造り主である神であり、この方が、私たちの仕えるべき相手なのです。

修養会では他にもいろいろなことを話しあったのですが、終わりに一つ興味深い質問が出されました。死んだ人たちは今、神のみぞ知るところで眠っているとすると、天国はまだ空っぽなのか?もちろん、神自身はおられるだろう。そして、イエス様も神の右に座しておられるだろう。では、本日の福音書の箇所で、神がアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼ばれ、神は生きている者の神である、と言われているのは、この三人に関しては、将来の復活の日を待たずして一足先に復活させられて既に天国にいる、ということなのか?その時、私は、そう考えるのが妥当なのではないかとお答えしたのですが、自分でも100%確かな気持ちではありませんでした。その質問の再考も視野にいれて、本日の福音書の箇所の解き明しに入っていこうと思います。

2.

まず、サドカイ派というユダヤ教社会のグループの人たちがイエス様を陥れようと議論を吹っかけてきます。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とする貴族階級のエリート・グループです。彼らは、旧約聖書のうちモーセ五書を重要視していました。イザヤ書とかダニエル書のような預言書をないがしろにしていれば、当然、そこに言われている復活ということにも目がいかなくなります。サドカイ派にとっては、神殿で犠牲の生け贄を捧げる礼拝を守っていれば、神と人間の関係はちゃんと保たれている、ということになります。彼らにとって、神と人間の関係はこの世限りのものですので、死を超えて関係が永遠に続くために復活があるということは考える必要も可能性もなかったのです。

そのサドカイ派の人たちが、イエス様の教えが間違っていることを人前で示そうとして復活をテーマに持ち出しました。同じ女性と結婚した7人兄弟の話です。申命記25章5節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという掟があります。7人兄弟はこの掟に従って順々に同じ女性を娶ったが、7人に続いてこの女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんながよみがえった時、女性は一体誰の妻なのだろうか?7人の男が同時に一人の女性と関係を結ぶとすれば、これは娼婦も同然であり、十戒の第六の掟に反することになります。このように、サドカイ派の人たちは自分たちが得意とするモーセ律法を用いて、復活は律法違反をもたらす思想だ、これでも復活はあると言うのか、とイエス様に迫ったのであります。実に巧妙な論法です。

これに対するイエス様の答えは、サドカイ派の論点も論法も見事に粉砕するものでした。イエス様の答えは、二つの部分からなっています。最初の部分をみてみます。人間は復活すると、この世での有り様と全く異なる有り様になる、それで、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない存在になる。つまり、サドカイ派は、人間は復活した後も今の世の有り様と同じだと考えているが、そこが根本的に間違っているということを指摘します。それでは、復活した者はどんな有り様になるのかと言うと、まず、いることになる場所が、今ある天と地が過ぎ去った後に来る新しい天と地の下にある次の世であるということ。そして、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような霊的な存在になるということ。一言で言い表せば、復活に与る者は「神の子」(36節)そのものなのである。そういうわけで、復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういう人間同士の事柄に心と身体と神経を費やす存在ではなくなって、神に対して、神のために生きる「神の子」なのであります。この、復活した者が「神に対して、神のために生きる」ということは、あとでとても大事なことになってきます。

以上が、イエス様の答えの第一のポイントでした。サドカイ派は復活と言うものを正しく理解していない。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などというとんちんかんな質問をするのだ。復活を正しく理解していれば、そんな質問は考えつかないものなのに、的を外しているのもはなはだしい、ということであります。

イエス様の答えの第二のポイントは、死者の復活があることは、サドカイ派の皆さんが大変よく知っているモーセ五書にも書いてありますよ、知らなかったんですか、と相手の盲点を突くものです。イエス様は、出エジプト記3章6節で、神がモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出るところを指摘します。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んで既にいなくなった人たちなのに、神は、彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神である、と言うのです。イエス様はここでたたみ掛けます。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ」(38節)。つまり、アブラハムたちは生きているのであり、それはこの世の有り様とは異なる存在をしているのだということであります。そういうわけで、「神は生きている者の神である」というのは、「神は死んだ後で永遠に生きる者の神」なのであります。

ここで、アブラハム、イサク、ヤコブがもう一足先に復活して天の御国にいるのかどうかという問題について。これは大変難しいです。そうともとれるし、また、彼らも今、神のみぞ知る場所で眠っているが、復活した後は神の御国に迎え入れられて永遠に生きることが保証されている。つまり、今はまだ永遠に生きてはいないが、永遠に生きることが確実視されている、そう考えることも可能でしょう。私は、個人的には、もう復活しているのではないかとの印象が拭えないのですが、ここでは無理に結論は出さず、いつか私たちが復活して神の御国に迎え入れられたら、直接アブラハムに聞いてみましょう。

イエス様の答えの最後の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」、これはまずい訳です。「神によって」と訳されている元の言葉は、ギリシャ語の文法で人称代名詞・三人称・男性・単数・与格のαυτωがありますが、これは「~によって」と訳さずに、素直に「~に対して」とか「~のために」と訳すべきです。そうすると、先ほど、イエス様の答えの第一のポイントのところで申し上げた、「復活した者は神に対して、神のために生きる」というイエス様の論点がここでも繰り返されて結論になるのです。「すべての人」というのは、もちろん復活した人、復活に与る人を指します。

これが、私の勝手な個人訳でないことは、例えば、英語訳のNIVを見てみますと、to him「彼に対して」と言っており、「神によって」とは言っていません。ドイツ語のルター訳ではihmと与格をとっており、Einheitsübersetzungではfür ihn「彼のために」です。皆様にはなじみが薄いかもしれませんが、スウェーデンのルター派教会で使っている聖書では「彼のために」(för honom)、フィンランドの国教会で使っている聖書は「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)です。このように少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありませんでした。

「すべての人は、神によって生きている」というのは、全ての人間は神によって造られ、神から食べ物や着る物や住む場所を与えられているという真理から見れば、それ自体は正しいことを言っています。しかし、それは、復活について教えている本日の箇所とかみ合いません。そういうわけで、このイエス様の結論は、「復活に与る者は全て、神に対して、神のために生きるのだ。だから、嫁を迎えたり、嫁いだりということが大事な今の世の有り様とは全く異なる有り様をもって、永遠に生きる者となるのだ」ということになります。

サドカイ派の人たちは、自分が得意とするモーセ律法を用いて、イエス様を論破しようとしましたが、逆に論破されてしまい、自分たちこそモーセ律法をちゃんと理解していなかったことを露呈してしまいました。イエス様とサドカイ派の論争を聞いていた律法学者が、「先生、立派なお応えです」と言ったのも無理はありません。

3.

神に対して、神のために生きるということは、復活した人つまり永遠の命を生きる段階に入った人だけがすることなのでしょうか?まだ復活に至っていない私たちは、神に対して、神のために生きるということはないのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。私たちは、いかに神の愛と恵みを受けているかがわかれば、私たちも神に対して、神のために生きる者であることがわかります。

キリスト信仰では、人間は誰もが神に造られ、神から命と人生を与えられたということを大前提にしています。この前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまっている、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥り、罪を犯したため、人間は死する存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。このように人間が死ぬということが、人間の造り主である神との関係が壊れている、ということの現れなのであります。

このため神は、人間との結びつきを回復させようと、また、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に造り主である自分のところに戻れるようにしようとしました。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪と不従順の汚れを除去しなければならない。しかし、それは不可能なことであります。マルコ7章の初めにイエス様とファリサイ派の有名な論争がありますが、それは、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。

人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、人間は自分の造り主との結びつきを失ったままで、この世から死んだ後も自分の造り主のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対して神がとった解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の呪いを全てこのイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、イエス様を犠牲に用いた神の解決がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのイエス様を自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪が残ったままイエス様の神聖さを頭から被せられます。人間はこのようにして、造り主である神との結びつきを回復し、順境の時にも逆境の時にも常に神から守りと良い導きを得てこの世の人生を歩めるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるようになったのであります。

これほどのことを、私たち人間のために成し遂げて下さった神に対して、私たちは賛美と感謝以外、捧げようがありません。兄弟姉妹の皆さん、このような計り知れない神の恵みと愛を忘れずに、この世の人生の道を歩んでまいりましょう。神への感謝と賛美を絶やさずに歩む時、私たちは既に、神に対して、神のために生きることを始めているのですから。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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