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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日の福音書の日課は、ヘブライ語に由来する二つの言葉が重要な主題になっています。一つの言葉は、「イエス」。これは、ギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛが日本語に訳された形です。この「ィエースース」Ἰησοῦϛですが、これのもとになっている言葉はヘブライ語の「ユホーシュアッ」יהושעです。この「ユホーシュアッ」יהושעというのは、日本語でいう「ヨシュア」、つまり旧約聖書ヨシュア記のヨシュアです。この「ユホーシュアッ」יהושעという言葉ですが、これは「主が救って下さる」という意味があります。「ヤーハ」יה主が、「ユーシャアッ」יושע救って下さる。つまり、イエス様の名前は、ヘブライ語のもとをたどると「主が救って下さる」という意味があるのです。それで天使はヨセフに、将来「自分の民を罪から救うことになる」(詩篇130篇8節)この子に、「ユホーシュアッ(ヨシュア)」יהושעでיהושעユと付けなさいと言ったわけで、この「ユホーシュアッ(ヨシュア)」יהושעは、やがてキリスト教が地中海世界に広がっていった時にギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛに置き換えられて、それが、後世「イエス」とか「ジーザス」とか「ィエーズス」とか「ィエースス」とかいろんな国の言い方に訳されて現在に至っているというのであります。
もう一つのヘブライ語に由来する言葉は、「インマヌエル」。これはもともとヘブライ語の言葉「インマーヌーエール」אל עמנוが発音をほとんどかえずにギリシャ文字に置き換えられて、「エンマヌエール」Εμμανουηλと記されています。この言葉は、本日の福音書の箇所にも説明されているように、「インマーヌー」私たちと共におられるのはעמנו、「エール」神であるאל、という意味です。つまり、「神が私たちと共におられる」ということです。この「おとめから生まれる子供の名がインマヌエル(神が私たちと共におられる)と呼ばれる」というのは、本日の旧約聖書の日課イザヤ書7章14節にあるように、預言者イザヤを通して言われた神の言葉です。
さて、ここで一つの疑問にぶつかります。将来「民を罪から救う」この子に「イエス」、「ユーホーシュアッ」יהושעという名前をつけることは、ぴったりであるとわかります。本日の福音書の箇所は、その名前をつけることが、「おとめから生まれる子供の名前がインマヌエルになる」という預言の成就になると言っています(マタイ1章22節)。どうして、「イエス」、「ユーホーシュアッ」יהושעという名前をつけることが、その預言の成就になるのでしょうか?イエス様の名前はずっと「イエス・キリスト」であって、「インマヌエル」という名前はつかなかったのではないでしょうか?この疑問は、「主が民を罪から救って下さる」ということと、「神がわたしたちと共におられる」ということの二つの事柄が深く結びついている、二つのことは同じことを意味しているとわかれば問題ではなくなります。そういうわけで、本説教では、この二つの事柄、「主が民を罪から救って下さる」ということと「神がわたしたちと共におられる」ということがどのように結びついているかをみながら、私たちに対する神の愛、神の恵みについて学んでいきたいと思います。
2.
まず、「おとめから生まれる子供の名がインマヌエルと呼ばれる」という預言について。これは、歴史的にみると、イエス様が誕生する700年以上も昔に、神が預言者イザヤを通して当時のユダ王国の王アハズに述べた言葉です。どんな歴史的状況の中で言われた言葉かというと、ダビデ・ソロモンの王国が南北に分裂し、お互い反目しあいながら200年近くがたちました。こともあろうに北のイスラエル王国が隣国のアラム王国と同盟して、兄弟国であるはずのユダ王国を攻撃しようと計画した。この同盟締結の知らせに、アハズ王も国民もパニック状態に陥ったことが、本日の旧約聖書の日課のすぐ前に述べられています。そこで神は預言者イザヤに命じて、イスラエルとアラムの共謀は実現しないから落ち着きなさいとアハズ王に伝えよ、と命じます。それから神はまだおびえているアハズ王に、信じられないならしるしをみせてやるからそれを求めてみよ、とさえ言います。王は、畏れ多くもそんな神を試すようなことはできないと躊躇します。そこで神は、お前たちの信頼不足には疲れ果てた、仕方がないから私の言うことが本当であるというしるしをこちらからみせてやる、ということで、「みよ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という言葉がでたのであります。その言葉に続けて神は、イスラエルとアラムの両王国は、東方の大帝国アッシリアに滅ぼされ、二王国の計画は実現しないと述べます。それらのことは、古代オリエントの歴史にも記されている通り、その通りになりました。
さて、このおとめから生まれるインヌマエルという子供は誰をさすのでしょうか?ユダヤ教の長い伝統のなかでは、それはアハズ王の子供ヒゼキヤ王をさすというのが有力な見解でした。その理由は、ヒゼキヤ王というのは、歴代の王たちが神に背を向けて生きていた生き方を改め、神のもとに立ち返る生き方を始め、それで神の預言者イザヤの言葉を神の託宣としてしっかり受け入れた王として知られていたことによります。さらに、アッシリア帝国が大軍を引き連れて、今度はユダ王国も攻め始め、最後に残った首都エルサレムも完全に包囲されて絶体絶命になったとき、ヒゼキヤ王は神にのみ依り頼む姿勢を貫きました。そしてアッシリアの大軍は突如神の御使いに撃たれ一夜にして18万5千の兵を失って総退却となる(列王記下19章35-36節、イザヤ書37章36-37節)というようにヒゼキヤ王はエルサレムを救った理想的な王様として描かれたことがあります。それで、このインヌマエルはヒズキヤ王をさすのだと。
ところが、それではヒズキヤ王はおとめから生まれたのかという疑問が起こります。もしそうだとすると、聖霊の力によって身ごもったのはイエス・キリストが最初ではなく、その700年前にすでに前例があるではないか、ということになってしまいます。そこで、イザヤ書7章14節のイザヤの預言の中にある「おとめ」という言葉、へブライ語の言葉「アルマーハ」עלמהをみてみましょう。この言葉は実は、「おとめ」の意味も「若い女性」の意味も両方ある言葉なのです。それで、ヒズキヤ王は、父のアハズ王と誰が若い妃の間に普通の人間の子供として生まれてきても何も問題はないのであります。
そうなると今度は、「聖霊によってやどりおとめマリアから生まれた」と、キリスト教の信仰告白で唱えられるイエス様の超自然的な誕生は、預言書の根拠を失ってしまうのでしょうか?
実は、ユダヤ教の伝統のなかで、この「インヌマエル預言」はヒズキヤ王で完結することはなかったのであります。神の民を苦境から救い出すインヌマエルはこれから出てくるのだ、ヒズキヤ王は実はまだ預言の成就ではなかったのだという見解が出てくるのであります。というのは、ヒズキヤ王はエルサレムを守った理想王ではあったけれども、その後で大きな失点を残してしまう。列王記下20章とイザヤ書39章に記されているように、アッシュリアの退却後、平穏を回復したユダ王国にバビロン王国からの使者が来ます。バビロンとは、約100年後にユダ王国を滅亡させ、その民を捕囚として連行して行った国です。ヒゼキヤ王は、使者たちに、ユダ王国の宝物、武器一切のものを見せてしまいますが、それはしてはならないことだったとイザヤに告げられます。さらに、ヒズキヤ王の次に即位したマナセ王は、完全に神に背を向ける生き方を始め、神の意志に背く宗教政策をとってしまいますが、それは、列王記下24章3-4節に記されているように、やがて起こるバビロン捕囚の運命を決定づけてしまったのであります。こうした歴史の変遷が起きたために、インマヌエル預言は本当は後の世に成就されるものだと理解されるようになったのであります。イザヤ書も終わりのほうになると、神がご自分の民を最終的かつ完全に救う日は、新しい天と地が創造される日である(66章17節、22節)と記されていますが、このように救いの日と歴史や自然の大変動が一緒に起こると理解されるようになりっていきます。そういう流れの中で、救いの担い手が普通の人間ではないと理解されるようになっていきます。こういう時に、先ほど二つの意味があると申しましたヘブライ語の言葉「アルマーハ」עלמהの意味も、「若い女性」から「おとめ」に理解されるようになったのであります。こうした理解の変化が起きたことを端的に示すのが、紀元前3世紀頃からヘブライ語の旧約聖書がギリシャ語に翻訳された時に、問題となっている言葉「アルマーハ」עלמהが、はっきり「おとめ」だけを意味する言葉「パルテノス」παρθένοϛに翻訳されたのであります。本日の福音書の日課にあるイザヤ書の引用ですが、それは、ギリシャ語訳の旧約聖書をそのまま用いており、それは当然のことなのであります。
以上に加えて、おとめから子供が生まれる時、聖霊の力によって宿るということについてみてみますと、神の霊というものは、預言者に託宣を伝えるだけが仕事ではありません。創世記1章2節やエゼキエル書39章9節等からも明らかなように、無から命を創り出すという働きもあるのであります。それで、おとめから子供が生まれるという通常起こりえないことが、天地創造の神の業としてありえることなのだと理解されたのであります。
以上、インヌマエル預言の歴史的変遷を大ざっぱにみてまいりました。旧約聖書を理解するには、単に歴史的事実に即した理解では不十分で、神の人間救済計画という広大な観点を併せもって理解する必要があることが明らかになったと思います。(聖書の現代語の訳の中には、イザヤ書のこの箇所で「おとめ」と訳するのをやめて「若い女性」に置き換えたものもあります。そういう訳者は、おとめから生まれるなどとは歴史的事実になりえない、と主張します。)
3.
さて、本日の説教の中心課題であります二つの事柄、「神が私たちと共におられる」ということと、「主が御自分の民を罪から救って下さる」ということが、どのように結びついているか、ということをみてまいりましょう。
まず、「主が御自分の民を罪から救って下さる」ということについて。これは、詩篇130篇8節にある預言の言葉であります。ユダヤ教の伝統的な考え方では、「神が民を救う」というのは、神がイスラエルを外敵から守るとか、侵略者から解放するという理解がよくされます。ここでは、何から救われるということについて、相手が外敵や侵略者ではなく、罪であるということに注意する必要があります。「罪から救って下さる」というのは、「罪がもたらす神の怒りや神の裁きから救って下さる」ということです。神の怒り、神の裁きというものは、それを受けるならば、人間はこの世の人生の段階では自分の造り主であるはずの神との関係が断ちきれたままの状態になってしまい、この世から死んだ後も造り主のもとに永遠に戻れなくなってしまう、ということです。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になったことがきっかけで、罪が世界に入り込み、人間は死する存在になってしまいました。何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのか、と疑問をもたれるかもしれません。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた(もちろんそれらも含みますが)、すべての人間に当てはまる根本的なものをさします。全てを創造された神に背を向けて生きようとする性向がそれであります。もちろん、世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっており、そこから抜け出られないということの証なのであります。
それでは、神は、預言の言葉のように、どのようにして人間を罪から救い出すのでしょうか?それを知るために、神が私たちのために御自分のひとり子イエスを通して行ったことをみる必要があります。人間は一人ひとり罪と不従順のために神との結びつき断ちきれていて、この世から死んだ後も永遠に神のもとに戻れないようになってしまった。イエス様は、こうした人間に張り付いている罪の呪いを全て自ら請け負って、私たちの身代わりとして十字架の上で、私たちが死ぬべき死を受けられた。そこで神は、イエス様が私たちのかわりに全てを償ったと見なして、イエス様の身代わりの死に免じて、私たち人間の罪を赦すという道を採られたのであります。
別の言い方をすると、私たちが身にまとっている罪という汚れた衣をとって御自分にまとい、御自分の汚れなき白い衣はそれを取って私たちに被せてくれたということであります。神はその汚れた衣を着たイエス様を死に引き渡し、白い衣を着せられた私たちの罪は問わないと宣されたのです。普通、聖書や教会で「神の恵み」と言っているのは、このように法律で言う恩赦の意味合いが強くあります。実際、北欧のルター派教会では、「恵み」を言い表す言葉は「恩赦」を言い表す言葉の類義語であります(スウェーデン語のnåd-benåda、フィンランド語のarmo-armahtaa)。さらに、御自分の一人子の尊い血、命を代価として、私たちを罪の人質状態から解放したとか、買い戻したと言ってもいいと思います。私たちの新しい命はそれ位に高価なものなのです!それだけではありません。神は、今度はイエス様を三日後に死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る扉を私たち人間のために開かれたのです。このようにして神は、イエス様を用いて人間の救済を全部整えてしまったのであります。救済は神の方で完成させてしまったのであります。
このように神がイエス様を通して行われたことは、最初の人間のときに損なわれてしまった神と人間との結びつきをもとにもどすことそのものでありました。しかしながら、イエス様が十字架にかかり、死から復活したことで全てが解決したかというと、それはまだ解決の一歩 - 決定的な一歩ではありますが - なのであります。今度は人間のほうが、そうした神が全部整えられた救済を自分のものにしないと、この完成済み救済は人間の外側によそよそしくとどまるだけです。ではどうしたら救済を自分のものにできるのか?そのためには、各自まず、「あの、2000年前に神がイエス様を通して行われたことは、実は今を生きる自分にかかわっていたのだ、あれはこの私のためにもなされたのだ」と気づき、それを信じて洗礼を受けることです。洗礼を受けることで、イエス様の白い衣を頭から着せられ(ガラテア3章27節、ローマ13章14節、さらにエフェソ4章23-24節とコロサイ3章9-10節では着せられるのは霊に結びつく新しい人)、天地創造の神の霊を受けられることになります。使徒パウロの言葉を借りれば、聖霊を受けるというのは、完成済み救済の所有者になったことの証明印を押してもらうようなことだということになります(エフェソ1章13-14節)。
それでは、信じて洗礼を受け、神の完成された救済を所有するようになったら、それで終わりかというと、必ずしもそうならない。ルターがよく強調することですが、キリスト信仰者の人生とは、洗礼を通して私たちに植えつけられた内なる新しい人を日々育て、前々から存在する内なる古い人を日々死に引き渡す長いプロセスだということがあります。イエス様の白い衣を上からかぶせられたといっても、この世に生きている間、私たちはまだ肉をまとっています。私たちの内なる新しい人は、神に従順です。神を全身全霊で愛し、また隣人を自分を愛するが如く愛するのが当然であり、喜びであると考えます。しかし、内なる古い人はそんなことは当然でもないし、喜びは別のところにあると教えます。このような神への不従順は、実に私たちキリスト信仰者も共有している、ということは誰しも認めざるを得ないでしょう。そういうわけで、洗礼で始まる新しい人生のプロセスは、実に、聖霊に結びつく新しい人と肉に結びつく古い人との間の内的な戦いのプロセスということになります。ルターによれば、私たちが死ぬときに、古い人間も肉とともに滅び、私たちは完全に復活の命をもつことになります。その意味で、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになった者にとっては、死は完全な終わりではなく、現世の命と永遠の命をあわせた長い命の中にある一つの通過点のようなものになります。
4.
最後に、キリスト信仰者のこの世の人生のプロセスでは、今神の右に座すイエス様は、私たちの目に見えない形で絶えずともにおられるということに注意を喚起したく思います。2000年前のユダの地でイエス様の教えを聞き、癒しを受け、十字架と復活の出来事を目撃した人たちと違って、私たちにはイエス様が身近にはおられません。しかし、聖書を通してイエス様や神の考えや意思を2000年前の人たちと同じように知ることができます。イエス様の声は聞こえませんが、聖書を読めば読むほど、聖書に聞けば聞くほど、イエス様の弟子たちと同じくらいに私たちはイエス様のそばにいることになります。
それから、聖書の言葉は力に満ちた神の言葉ですから、ルター派の教理問答書が教えるように、この言葉を語りかけることで洗礼式の水はただの水でなくなり、聖餐式のぶどう酒とパンはただのぶどう酒とパンでなくなって、それらはイエス様がその場に臨在することを保証するものにかわります。そうした水をかけられることでイエス様の義という白い衣をきせられ、そうしたパンとぶどう酒を口にすることで、イエス様の義を栄養として体内に摂取します。私たちが内なる古い人の傲慢さに疲れ、悲しむとき、聖餐式で摂取したものは、目に見えない形で栄養を発揮します。私たちの内に宿る罪と不従順は私たちを神から引き離す力を既に失っており、罪と不従順が力を揮ったように見えても、それは見かけ倒しで実際は何の実力も効力もないということを確かなものにする、それが聖餐のパンとぶどう酒です。内なる戦いを戦っていない人、自分はもう完全に新しい人になったと思いこんでいる人には、聖餐は意味がありません。そのような人は、自分はキリストはいらないと言っているのと同じです。内なる戦いを真摯に戦っている人にこそ主はともにおられるのです。このように、私たちを罪から救って下さる主「ユホーシュアッ」יהושעは、私たちと共におられる「インマーヌーエル」אל עמנו のです。 「ユホーシュアッ」יהושע、「インマーヌーエル」אל עמנו!
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン