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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.
本日の福音書の箇所は、旧約聖書の預言が3つ成就したことについて述べています。そもそも、マタイ福音書の初めの部分というのは、預言の成就が多く記されていて、待降節第2主日に読まれた1章にはイザヤ7章のインマヌエル預言の成就がありました。来週の顕現主日に読まれる2章の初めには、マラキ5章のメシア到来の預言の成就があり、3章にはイザヤ40章の「荒野の叫び声」預言の成就など、旧約聖書の預言成就でひっきりなしです。
旧約聖書は難しい書物です。例えば、預言者の言葉を理解しようとする時、それが預言者の口から出た当時、どんな意図で述べられたのか、また当時の人々にどう理解されたのか、そういう歴史的理解をしようとすると、いろんな解釈や学説が出てきます。ところが、旧約聖書の神は実にイエス様をこの世に送られた同じ神であるということをしっかり踏まえて読めば、旧約聖書というのは、神がどんな方であるかを豊かに教えてくれる書物になります。それによれば、神とは御自分の意志を人間にはっきりお示しになられた方で、その意思にちゃんと聞き従うよう人間に求められる方である、それに反抗する者には容赦ない態度で臨む方であり、また、聞き従おうとするも外見上の見せかけはすぐ見抜ぬかれて忌み嫌われる方である、しかし、神の前で自分の非力さを認め悲しむ者には最大の憐れみをかけられる方である。そのような神が旧約聖書から浮かび上がってきます。天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えた神がどんな方であるかは、これからも説教等を通して学びを深めていきます。本説教では、まず、本日の福音書の箇所に出てくる3つの預言がどうイエス様にかかわっているのかを見ていきます。それから、これらの預言の成就が2000年後を生きる私たちにどんなかかわりがあるのかをみて、神の私たちに対する愛と恵みについて理解を深めていこうと思います。
2.
まず、マタイ2章15節にある「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」という預言書の言葉について。これは、ホセア書11章1節にある神の言葉です。赤子のイエス様の命を狙ったヘロデ王が死んでヨセフの家族は避難先のエジプトから帰還できるようになった。それで、この預言の言葉はそのまま当てはまるように見えます。しかし、もっと深い意味があることにも注意する必要があります。ホセアはイエス様が生まれる700年以上も前にイスラエル北王国で活躍した預言者ですが、問題の11章1節の言葉は、文字通りに読むと遥か昔に起きたイスラエルの民の出エジプトの出来事を指しています。つまり、神はイスラエルの民を一括して「わたしの子」と呼び、それを奴隷の国エジプトから連れ出したということです。しかしながら、その民は約束の地に入った後は神を忘れ、神の意志に背くことを繰り返して滅びの道に進んでしまう。実際に、イスラエル北王国は紀元前722年に滅んでしまいました。ところが神は、民を見捨てることはできないと言い、諸国に散り散りになった民を再び一つにして復興させ、そして民自身は神の意志に従って歩むようになると言います。
一度滅んだ民の復興は、ホセアの時代には実現しませんでした。そのため、この「エジプトから呼び出す」という神の言葉は将来に起こる出来事を意味する、と理解されるようになります。そうなると、エジプトから子を連れ出すということは、過去の出エジプトの出来事を指す必要はなくなり、イスラエルの民の復興に先立つ出来事を指すようになります。さて、ホセアの700年後、イエス様を救世主と信じた人たちは、彼の十字架の死と復活こそ、神の民イスラエルを全く新しい仕方で復興させる神の業であったと理解しました。その人たちが、誕生間もないイエス様がエジプトに避難していたことがあると聞いて、あのホセアの言葉はこのことを指していたのだと理解したのであります。神の民の復興に先立つ神のひとり子のエジプトからの召還。まさにホセアの預言の成就なのであります。
次に、マタイ2章18節にある言葉「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」について。これは、エレミア31章15節の引用ですが、この言葉とベツレヘムの幼児虐殺との結びつきははっきりしません。母親たちの嘆き声がするラマというのは、ベツレヘムよりずっと北に離れたところにあり、ベツレヘムではありません。ラケルというのはずっと昔の創世記にでてくるヤコブの妻で、ヨセフとベニヤミンの母です。彼女は難産がもとでベツレヘムで死にますが、子供を失って泣くということはありませんでした。ではエレミア書のこの言葉は何を指し、ベツレヘムで起きた虐殺とどう結びつくのか?エレミア書の言葉は字面通りには預言者エレミアの時代、つまりイエス様の誕生より約600年前に起きたユダ南王国のバビロン捕囚を指しています。ラマからベツレヘムに至る全地域で多くの人が戦火に倒れる。ラケルはイスラエルの民全体の母として描かれるシンボルでしたから、イスラエルの民の嘆き悲しみはラケルの嘆き悲しみであると象徴的に表現しているのであります。
ところでエレミア書31章をもっと広く前後を通して読むと、実は問題の言葉の前後にはイスラエルを復興させるという神の決意が述べられています。神に背を向けた罰として嘆きと悲しみと荒廃に満ちてしまったイスラエル。それを新しい契約をもって復興させ(31-34節)、「疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす」(24節)、と神自身が誓います。つまり、イスラエルの荒廃と嘆きの悲劇は新しい契約と復興にとってかわられるという預言なのであります。そういうわけで、600年後に、イエス様の十字架の死と復活こそが新しい神の民イスラエルを復興しようとする神の業であったと理解した人たちは、ベツレヘムの幼児虐殺を復興にとってかわられる前段階の出来事と理解したのであります。まさに、幼児虐殺の悲劇を預言の成就と理解したのです。
3つ目の預言「彼はナザレの人と呼ばれる」について。旧約聖書にはこれと同じ預言の言葉は見当たらないので、どの預言書を指すのか定かでありません。ただ、明らかなことはナザレという言葉は、「若枝」を意味するヘブライ語の言葉(נצר)と繋がっています。「若枝」というのはイザヤ書11章1節にでてくる有名なメシア預言「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち」のそれです。同じイザヤ書の53章には民が本来受けるべき神の裁きを自らかわりに引き受けて苦しみを受ける神の僕についての預言があります。イエス様の十字架の死はその預言の成就であったと理解した人たちは、彼が「ナザレの人」と呼ばれていたと聞いて、すぐ同じイザヤ書のエッサイの若枝(נצר)の預言を思い出さずにはいられなかったでしょう。(「ナザレ」については、民数記6章1-21節や士師記13章5、7節にある「ナジル人」との関係も考えることが可能ですが、これらは預言の言葉ではないので、本説教では立ち入りません。)
以上みてきたように、旧約聖書の預言の言葉は、語られた当時の時代を超えて生き続け、イエス様をもって最終的に成就したことが明らかになりました。その意味で、イエス様は預言の終着点なのであります。ところで、イエス様の時代の後にもベツレヘムないしイスラエルの地で虐殺は繰り返されたし、イエス様の後にもナザレ出身の人は沢山いたでしょう。エジプトに避難してイスラエルの地に戻ったような人たちもいたでしょう。しかし、旧約聖書の預言はもはや、そういった人たちにはあてはめることはできません。なぜなら、それらの場合、神の民イスラエルを復興させるという神の計画や業と無関係だからです。イエス様のエジプトからの召還、ベツレヘムの幼児虐殺、「ナザレの人」という呼び名はみな、預言書が表している神の計画や業と結びついています。旧約聖書の預言の成就は、イエス・キリストの前にも後にも存在しないのです。
3.
それでは今度は、イエス・キリストをもって旧約聖書の預言が2000年前に成就したということが、今を生きる私たちにどうかかわっているのか、を見てまいりましょう。この問いに答える取っ掛かりとして、本日の福音書の中で最も難しい箇所に的を絞ってみていきたいと思います。難しい箇所というのは、ベツレヘムの幼児虐殺です。なぜこれが難しいかというと、一人の赤子を救うために大勢の子供が犠牲になったことに納得しがたいものがあるからです。その赤子は将来救世主になる人だから、多少の犠牲はやむを得ないと言ったら、それは身勝手な論理ではないか、救世主になる人だったら逆に自分が犠牲になって大勢の子供たちに危害が及ばないようにするのが筋ではないか、という反論がでるでしょう。ここでひとつ勘違いしてはならないことは、幼児虐殺の責任者は神ではなくヘロデ王ということです。神は御子をヘロデ王の手から守るために天使を遣わして、東方の学者たちがヘロデのところに戻って報告しないように導きました。また、イエス様親子をエジプトに避難させました。学者たちが戻ってこなかったのをみて、さては赤子を守るためだったなと悟ったヘロデが、ベツレヘム一帯の幼児虐殺の暴挙にでたのでした。天使がヨセフに警告したことは「ヘロデがイエスを殺すために捜索にくる」というものでしたが、ヘロデは捜索どころか大量無差別殺人の挙にでたのでした。神の予想を超える暴挙に出たのであります。
そう言うと今度は、神の予想を超えるとはどういうことか、神は天地人間の造り主、全知全能と言っているのに、ヘロデの暴挙も予想できなかったのか、大勢の幼子を犠牲にしないで済むようなひとり子の救出方法は考えられなかったのか、と反論がでるかもしれません。この種の反論はどんどんエスカレートしていきます。神はなぜヘロデ王のみならず歴史上の多くの暴君や独裁者の存在を許してきたのか、なぜ戦争や災害や疫病が起きるのを許してきたのか、なぜ人間が不幸に陥ることを許してきたのか、もし神が本当に全知全能で力ある方であれば、人間には何も不幸も苦しみもなく、ただただ至福の状態にとどまることができるではないか等々の反論がでてくるでしょう。
ここでひとつ注意しなければならないことがあります。それは、天地創造当初の最初の人間はまさに至福の中にいたということです。そして、それは創造の神の御心に沿うものであったということです。ところが、神の意図に反して人間はこの至福を失うこととなってしまった。この辺の事情は創世記の1章から3章まで詳しく記されています。何が起きたかというと、「これを食べたら神のようになれる」という蛇の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は取ってはならないと禁じられていた知識の実を食べ、善いことと悪いことがわかるようになる。つまり善いことだけでなく悪いこともできる存在になってしまう。そして、その実を食べた結果、神が警告したように人間は死ぬ存在になってしまう。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」のなかで明らかにしているように、最初の人間が神に不従順だったことがきっかけで罪が世界に入り込み、人間は死する者になってしまったのです。何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのか、と疑問をもたれるかもしれません。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた、全ての人に当てはまる根本的なものを指します。天地創造の神への不従順がそれです。世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっており、そこから抜け出られないということの証なのであります。
このように人間は神の意図に反して自ら滅びの道を採ってしまった。それでは、人間から不従順をつきつけられた神は人間をどう思ったでしょうか?自分で蒔いた種だ、自分で刈り取るがよいと冷たく突き放したでしょうか。いいえ、そうではありません。最初の人間が壊してしまった神と人間の結びつきを元に戻すために、神は計画を、人間救済の計画を用意されたのです。人間の歴史はこの計画に結びつけられて進むことになりました。神の人間救済の計画は旧約聖書の預言を通して少しずつ明らかにされていきますが、イエス様の十字架の死と復活をもって成就し、そのことが新約聖書で明らかにされます。どんなことかというと、人間は皆、罪の呪いとしての死に定められている存在であるが、イエス様はその呪いを自ら請け負って、私たちの身代わりとして十字架にかけられて死なれた。普通、聖書や教会で「神の恵み」と言っているのは、神が私たちに何か償いを求めずに、神の方から一方的に、御自分のひとり子の尊い血を代償として、私たちを罪の人質状態から解放したとか、買い戻したことを指します。しかし、それだけでは終わらなかった。神は今度は、イエス様を三日後に死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る扉を私たちのために開かれたのです。このようにして、神はイエス様を用いて、人間の救済を全部整えてしまったのです。救済は神の方で完成させてしまったのであります。
しかしながら、イエスが十字架にかかり、死から復活したことで全てが解決したかというと、それはまだ解決の一歩 - 決定的な一歩ではありますが - なのであります。今度は人間のほうが、そうした神が全部整えられた救済を自分のものとしないと、この完成済み救済は人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたら自分のものにできるのか。そのためには、まず、「2000年前に神がイエス様を用いて行われたことは、実は今を生きる自分にかかわっていたのだ、あれはこの私のためにもなされたのだ」と気づき、イエス様を自分の救い主と信じることです。そして洗礼を受けることでイエス様の神聖な白い衣を着せられ、天と地と人間の造り主である神の霊を受けることです。使徒パウロの言葉を借りれば、聖霊を受けるというのは、完成済み救済の所有者になったことの証明印を押してもらうようなことです。私たちは肉をまとってこの世に生まれ、死ぬときにこの肉は滅び腐敗していきます。しかし、洗礼を受けた時点で、肉の上に霊をまとって生きることが始まり、たとえ死んで肉が滅んでも、霊の命は死を超えてそのまま永遠の命につながっている。このように、洗礼とは、私たちをイエス様のもたらした救いの所有者にすることであり、永遠の命につながる新しい命の出発点ということになります。
以上から明らかなように、世界に悪と不幸がはびこるのは神が力不足だからというのは、事の本質から目を背ける見方です。悪と不幸がはびこる世界に対して神が人間の救済計画を用意しそれを実現させた、そして人間一人一人が完成済み救済の所有者になるように手を差し伸べている、これが真理であります。このことがわかれば、神が何々をしてくれなかったとか、何々ができなかったということは悩む問題ではなくなり、神がこの私にこんなにも大きなことを成し遂げて下さった、ということの方に目が向くようになります。
4.
終わりに、キリスト信仰にあっては、不正義がなんの償いもなしにそのまま見過ごされることはありえない、正義は必ず実現される、ということを強調したく思います。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、遅くとも必ず次の世で償いが行われる。黙示録20章4節に「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。続いて12節には、その次に復活させられる者たちについて述べられており、彼らの場合は、神の書物に記された前世の行いに基づいて、神の御国に入れるか炎の海に落とされるかの裁きを受けることになっています。特に、「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海です(黙示録20章15節)。キリスト信仰を守る人たちを殺害したり、またキリストを阻止しようとして殺人を犯したヘロデ王のような者は間違いなくこちらの部類でしょう。
人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを示します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で数多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならないという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われると言ってしまったら、この世での解決努力を軽視していると見られてしまうかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うようにと、つまり神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。つまり、たとえ解決が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる間は、神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならないのであります。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決をもたらすことが出来ない時もある。しかし、その解決努力をした事実は神にとって無意味でもなんでもない。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さるからです。そして、神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は後で何百倍にして埋め合わせて下さるのです。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に程遠くても、無意味だったというものは何ひとつないのです。
ところで、キリスト教信仰に地獄のような裁きや罰の考えが強くあるのは、多くの人にとって意外に思われるかもしれません。「キリスト教って確か赦しの宗教じゃなかったの?」と思われるからです。その通り、キリスト信仰は罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはなりません。キリスト信仰の罪の赦しとはどういうことかと言うと、まず、神に背を向けて生きていたことを間違いと認め、これからは神のもとへ立ち返る生き方をしようと悔い改めること。そして、私にかわって神に対して償いをしてくれたイエス様にひれ伏す。そうすれば、神から罪の赦しが得られるということであります。そういうわけで、どんな極悪非道の悪人でも、まさにこのような神への立ち返りをすれば、たとえ世間が赦せないと言っても、神は赦し、受け入れて下さるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン