説教「キリスト信仰者はため息をつきながら希望に燃える」 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書13章24-30、36-43節、ローマ8章12-25節

主日礼拝説教 2020年7月19日(聖霊降臨後第七主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.「良い種と毒麦」のたとえ

本日の福音書の日課は先週に続いてイエス様のたとえの教えです。良い種と毒麦のたとえです。先週は「種まき人」のたとえでした。マタイのバージョンでは種は福音を聞いた人を意味しました。迫害や誘惑に遭っても信仰を保ち続け、神の意志に沿う生き方をすることで善を生み出す、そのことが良い土地に撒かれて実を結ぶということにたとえられているとお教えしました。ルカのバージョンでは種は神の御言葉であり、マルコのバージョンでは神の御言葉と人間の双方を意味するので、教えの内容も視点が変わってくるということも申しました。

本日のたとえも種は人間を指していますが、実る実は人間のままなので、「種まき人」で実が善であるのとは違います。加えて、種は二種類あります。つまり、二つの異なる人間のタイプがあるということです。一つは良い種でこれは麦に育つ。もう一つは毒麦になる種です。毒麦というのは、ちょっとネット情報を見ましたが、イネ科の植物で、写真を見ると、なるほど穂が出たばかりだと麦と見分けがつきにくいようです。麦がちゃんと黄金色に実ったら区別できるようです。毒麦という名前ですが、それ自体に毒性はないのだが、何か悪い菌が付きやすく、家畜が食べると中毒を起こすことからその名が付いたとのことでした。

 そこで、このたとえをもう一度見てみましょう。ある人が良い種を畑に撒いた。知らない時に敵が来て毒麦を撒いて行ってしまった。麦が育って穂が出始めた時、毒麦も一緒に育っていた。僕たちが主人に毒麦を抜きましょうかと聞くと、主人は今の段階では区別がはっきりしないから麦も一緒に抜いてしまうおそれがある、刈り入れ時まで待って区別がはっきりつくようになったら、まず毒麦を抜いて集めて燃やし、麦は刈り入れて倉に納めると言います。

 イエス様はこのたとえを群衆に聞かせた後で弟子たちに限ってその説明をします。それを見ますと、実にこのたとえは聖書の終末論の観点が結晶したものと言えます。まず、良い種を撒く者は「人の子」と言いますが、それはイエス様を意味します。ただし、イエス様はイエス様でも「人の子」のイエス様は、十字架と復活の出来事の前にこの世で活動されたイエス様というよりは、終末論的な存在です。どうしてかと言うと、ダニエル書7章に預言されている「人の子」とは、まさにこの世の終わりに現れる救世主だからです。イエス様は自分がそれであると言うのです。そこで終末論的なイエス様とは何かと言うと、復活された後、天に上げられて今は天の神の右に座しているが、将来この世に再臨して最後の審判を司ることになる救世主イエス・キリストということです。この方が再臨の日までずっとこの世で良い種を撒いているのです。種が撒かれる畑とは世界そのものと言われます。そして良い種とは御国の子、つまり将来、神の国に迎え入れられる者たちです。正確に言えば、迎え入れられるのは種が育った実ですので、種は候補者ということになります。つまり、天上のイエス様は、地上で行われる福音伝道や教会生活を通して将来の神の国に迎え入れられる人たちを増やし育てているのです。

 そこで、毒麦というのは、良い種と正反対のもので悪い者の子と言われます。正反対なので将来神の国に迎え入れられない者たちです。毒麦を撒いた敵は悪魔です。悪魔とは、創世記の初めに最初の人間に神の意思に反することをするように仕向けて神と人間の結びつきを失わせた張本人です。悪魔の目的は人間が造り主である神との結びつきを失ったままでこの世を生き、この世を去った後も永遠に神のもとに戻れなくすることにあります。それで、毒麦を撒いて、正しい麦と入り混じるようにして、正しい麦の成長を邪魔したり、また慌てた主人が急いで毒麦を刈り取ろうと正しい麦も一緒に刈り取ってしまい一緒に燃やされたら、悪魔にとって大成功なのです。しかし、そうはなりませんでした。主人は刈り入れの時を待つことにしました。正しい麦も毒麦も育つだけ育って、しっかり見分けがつくようになった時に、毒麦は毒麦で正しい麦は正しい麦で刈り取って、一方は燃やし一方は倉に納めることにしました。

 イエス様は、刈り入れの時は世の終わりを意味すると言います。つまり、今のこの世が終わって新しい天と地の創造が起こって、そのもとで神の国が唯一の国として現れる時です。世の終わりとは言いつつも、実は新しい世の始まりも意味します。聖書にはこのような今の世の終わりと新しい世の到来という観点があります。イエス様の再臨と最後の審判は、この二つの世の過渡期に起こることです。最後の審判の時にはまた、眠りについている者も起こされて、誰が新しい世の神の国に迎え入れられるかが明らかにされます。神の国に迎え入れられた者たちは倉に納められた麦ということになります。彼らは太陽のように輝き、毒麦は燃えるさかる炉の中に投げ込まれると言われます。これは明らかにダニエル書12章の預言を土台にしています。

以上のように、良い種と毒麦のたとえは聖書の終末論を凝縮したような教えです。そこで問題になるのが、それでは、良い種から育って倉に納められる麦、つまり神の国に迎え入れられる者たちとは具体的に誰のことを指すのか、ということです。そして、火の中に投げ込まれてしまう毒麦とは誰のことか?「人の子」イエス・キリストが地上の福音伝道と教会生活を通して、神の国に迎え入れられる人を増やし育てようとしているので、良い種や麦の実はキリスト教徒ということになります。そうすると、火に投げ込まれるのはそれ以外の者たちということになります。こういうのは他の宗教の人たちや無宗教の人たちは顔をしかめるでしょう。キリスト教会の中でも現代の宗教対話の思潮にそぐわないと思う人がいるでしょう。そのような人は、このたとえを現代の思潮にあうように解釈するかもしれません。しかし私としては、イエス様やイエス様のことを伝えた使徒たちが思いもよらないことを、イエス様が言ったことにしてしまうのはイエス様に気の毒というか申し訳ない気持ちになるのでしません。時代の要請はそれとして、それには耳栓をして聖書の御言葉の中に潜り込んでいくことをします。そしてまた水面に浮上した時に世の中や時代はどう見えて、御言葉はどんなインパクトを与えるかを考えたく思います。もちろん、御言葉の中に潜り込むなどというのは、いくらヘブライ語やギリシャ語やアラム語が出来てもそんなに簡単なことではありません。それはよくわかっています。しかし、このようなスタンスで私は聖書の説き明かしをしているということを申し上げておきたく思います。

話が脇道に逸れましたが、このたとえがキリスト教徒とそうでない人たちの二分法で言っているということに関して、一つ注意しなければならないことがあります。それは41節でイエス様が、「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものをすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませる」と言っているところです。つまづきとなるものとは、キリスト信仰を持つ人に対して持てなくなるようにしてやろうと躓かせることです。誘惑や迫害があります。不法とは、神の意志に反すること全てです。具体的には十戒の掟に反することです。天地創造の神を唯一の神、自分の造り主としてお祈りしないこと、神の名を汚すこと、安息日を無視すること、両親を敬わないこと、人を傷つけること、異性をふしだらな目で見たり不倫をすること、他人のものを奪うこと、偽証したり真実を曲げること、他人を妬んだり他人や他人のものに執着心を抱いてしまうこと等々です。

ここのイエス様の言葉をよく見ると、「自分の国から集めさせ」ると言います。つまり、神の国に迎え入れられる予定の者だったが、神の意思に反する不法を行う者だったので毒麦と一緒に燃やされるということです。つまり、キリスト教徒でも、自動的に神の国に迎え入れられるということではないのです。キリスト教徒でも、つまづきとなるものをことごとく踏みつぶし不法を行わない者が迎え入れられるのです。つまり、自分のキリスト信仰を保ち、他人のキリスト信仰も支え、神の意志に沿う生き方をする者です。そういうわけで、今の時点で自分はキリスト教徒だと言っていても、将来倉に納められる麦のように神の御国に迎え入れられるという保証はない。逆に、今の時点でキリスト信仰者でないからと言って、それでこれからも火に投げ込まれる毒麦のままだと言うことも出来ません。イエス様のことを救い主と信じるきっかけはいつ転がって来るかわからないからです。要は、最後の審判の時に「人の子」イエス様にどう判断されるかということです。それなので、問われているのは、これまでの時点でキリスト教徒だったかどうかではなく、これからどうするのか、例えばこの説教を聞いた後でどうするのか、ということです。

誰が倉に納められて、誰が炉に投げ込まれるかという問題については、ここではこれ以上のことはもう言えないので、ここでやめておきます。ここから先は、キリスト信仰者は本当につまづきとなるものをことごとく踏みつぶして神の意志に沿うような生き方が出来るのかどうかということを見ていこうと思います。これを考える際に、本日の使徒書の日課ローマ8章がよい手引きになります。

2.キリスト信仰者のため息と希望

3週間前から使徒書の日課はローマ章から章を追って見ています。6章で使徒パウロは、洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられる、それで罪に対して死に神に対して生きるようになると説きます。罪に対して死ぬと、罪が支配しようとしても出来ない位こっちは死んでしまっている。だから、罪に服従することはない。代わりに神に服従するようになった。しかしながら、自分はまだ肉の体を纏っており、それは罪が肉の思いをたきつける格好の道具になっている。そのためパウロは、キリスト信仰者は洗礼を受けた自分の立ち位置をよく自覚して体を罪のための道具とせず、意識して神の意思のための道具にせよと説きます。ところが、信仰者にとって一つ足枷になるのは、律法の掟が罪を罪として白日の下に晒してながら鏡のように自分の前に現れてくることです。キリスト信仰者は律法の掟を通して何が神の意志かわかっているのだが、その通りに行えない、語れない、思えないということばかりの自分にやはり律法の掟を通して気づかされてしまう。そのことをパウロは725節で自分を例にして、信仰者というのは意識や理解の面では神の命じることに従っているが、肉の面では罪の命じることに従っていると言います。

しかしながら、パウロは81節で断言します。洗礼を通してイエス様と結ばれている者には神の裁きはない、と。つまり、意識や理解の面で神の命じることに従っていることが大事なのです。もちろん肉の面でも従えれば言うことなしですが、それは復活の日に神の栄光に輝く復活の体を着せられる日まで待たなければなりません。今の肉の体の時は、意識や理解の面で神の意志に従うということが楔のように肉に打ち込まれているのです。まさに肉に対して聖霊が楔のように打ち込まれています。それでパウロは11節で次のように言います。キリスト信仰者には洗礼の時に注がれた聖霊が宿っており、神はその聖霊を通して信仰者の滅びの体を永遠に生きる体すなわち復活の体に変えて下さるのだ、と。キリスト信仰者にとってこの約束は絶対である、と先週の説教で申し上げた次第です。

今日はその続きの12節からです。今は肉の体を纏ってはいるが、そこに聖霊が楔のように打ち込まれました。それで肉の思いに相対立する神の意思を知っています。罪の命じることに真っ向から対立する聖霊の命じることに耳を傾けるようになりました。復活の日に肉も罪も消滅して復活の体を纏うことになるので、今は何か大きな過渡期を進んでいるようなものです。この過渡期では、先にも申し上げたように、キリスト信仰者は洗礼を受けた自分の立ち位置をよく自覚して体を罪のための道具とせず、意識して神の意思のための道具にしなければなりません。そこでパウロは13節で言います。聖霊によって体から生じてくる業を死なせるならば、あなたがたは永遠の命に入れます、と。新共同訳では「体の仕業を絶つならば」ですが、ギリシャ語の動詞タナトオ―は「殺す」「死なせる」とかなりどぎついです。しかも、「絶つ」と言ったら、エイ!ヤー!と罪を一気に断ち切ってしまうみたいですが、そんなことは無理です。そんなこと出来たら苦労はいりません。「ローマの信徒への手紙」の6章とと7章は要らなくなります。ギリシャ語の動詞の用法は死なせることが常態、日々繰り返し行われるという意味です(タナトゥーテは現在形の命令 アオリストの命令タナトーサテだったら「絶つ」の訳でいいでしょう)。罪との戦いは一気にケリがつくものではなく不断に続くものなのです。

体から生じてくる業を死なせるというのは具体的にはどういうことか?ルターが次のように教えています。まず、神の意思に反することをしてしまった、言ってしまった、思ってしまった、それは罪であると神の御前で認め、それを憎むこと。そして、イエス様を救い主と信じる信仰に留まって罪の赦しをゴルゴタの十字架にかけられた主に見出すこと。そこで神の手から罪の赦しを受け取ること。こうすることで、罪が私たちを支配下に置こうとするのを打ち破ることが出来るとルターは教えます。これが、体から生じる業を日々死なせていくことです。

この戦いは一人孤独に暗中模索で行うものではありません。パウロは、この戦いの真っただ中で聖霊が私たちキリスト信仰者を導いてくれていると言います。罪と戦っていること自体が聖霊に導かれていることの表れと言えます。パウロはこのように罪と戦って聖霊に導かれる者は「神の子であると言います。14節からあとはこの「神の子」のテーマが教えを深めていきます。聖霊がキリスト信仰者を神の子にしていることは、信仰者が祈る時に神のことを「アッバ!」と呼びかけることから明白だと言います。「アッバ」というのは、アラム語のアッバーという父親を呼び掛ける言葉です。お父さん、父ちゃん、パパです。罪と戦って聖霊に導かれる「神の子」は神に祈る時、神を父親呼ばわりするのは当然なのです。

16節を見ると、聖霊と私たちの霊が一緒になって私たちのことを神の子であると証言していると言います。「私たちの霊というのは何か?人間は神に造られる時、体と心という肉の部分に対して神から息を吹きかけられるようにして霊を吹き込まれて生きる者になります。こうした人間誰しもが持つ霊に加えて、洗礼を受けてキリスト信仰者になると聖霊が注がれます。それでキリスト信仰者には聖霊と各自の霊があって、それらが一緒になってキリスト信仰者のことを神の子と言うのです。

キリスト信仰者が神の子ならば、やはり神の子であるイエス様と兄弟ということになります。そうなると神の国もイエス様と一緒に相続することになります。このようにイエス様と同一の扱いを受ける者になると、今度はイエス様が苦しみを受けたことも一緒のものになると言います。イエス様と同一扱いでせっかくいい気になれたのに、苦しみも一緒だなどとは冷や水を浴びせらる感じがします。しかし、パウロはすかさず、イエス様の苦しみに与るのは、実はイエス様が受けた復活の栄光に与るためだと言います。さらにたたみかけるように、復活の栄光というのはこの世での苦しみなど色あせたものにしてしまうくらいのとてつもない価値があると言います(18節)。

19節からあとは話のスケールが急に壮大になります。神に創造されたこの世の被造物全てが、今この世で苦しむ神の子の復活の日の栄光を待っているというのです。復活の栄光が現れるのは、天と地が新しく創造し直される時ですので、その時は今ある被造物は全て消え去ってしまいます。その日を被造物が待っていると言うのです。一体どういうことでしょうか?そもそも今ある被造物は朽ち果てる運命に定められていると言います。それを定めたのは神だと言います。しかし、神がそれを定めたのは希望と抱き合わせだったと言います。どんな希望かと言うと、被造物が滅びという奴隷状態から解放されて、神の子たちが復活の栄光に変えられる解放に合流できるという希望です。神はこのような希望と抱き合わせで被造物を朽ち果てる運命に置いたのでした。

それなので、パウロはこの世の被造物は今、キリスト信仰者と一緒にため息をつき産みの苦しみにうめいていると言います。新共同訳では「共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」ですが、ギリシャ語原文では後者は「共に産みの苦しみを味わう」(シュノーディネイ)で同じですが、前者は「共にため息をつき」(シュステナツェイ)です。フィンランド語訳の聖書もその通りに「ため息をつき、産みの苦しみを味わう」と訳しています。

ところが、23節からあとを見ると、希望ということが神の子に関わることとして述べられていきます。そのため希望をもって生きるのは神の子たちの方で、被造物の方は希望を与えられているのにそれを持っていないようなのです。パウロは、神の子が現れるのは肉の体が復活の体に変えられる時で、今はそれをため息をつきながら待っている状態だと言います。また「ため息をつく」という言葉が出てきました(ステナツォメン)。ため息をつくというのは、キリスト信仰者は復活の栄光に変えられる日までは、神の意志は分かっていても肉の思いに遮られる現実にため息をつく日々なのです。復活の日に必ず栄光に変えられると知っていて、その希望は持ってはいるが、希望が叶えられる日までまだ待たなければならないので産みの苦しみにうめいているのです。先ほど見た、アッバ、お父さん、と叫ぶ神の子はまだこの世の肉の体を纏っている時のことです。23節で言う神の子は肉の体が復活の体に変えられた正真正銘の神の子になった時のことです。しかし、それはまだ起こっておらず、希望の中のことです。ここでパウロは重要なことを言います。24節です。キリスト信仰者は復活の体をまだ目で見ていない状態、それを希望している状態で救われたのだ、と。どうしてそんなことが可能でしょうか?

イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、肉の体を纏いながらも聖霊が楔のように打ち付けられて、神の意志に沿うように生きようとします。肉の思いに反抗しようとします。人生の中でこれまでなかった大きな決定的な変化です。あとは復活の日まで聖霊に導かれて行きます。その日、復活の体を目で見ることになります。そうなったらもう希望することはありません。希望したことを目にしたからです。しかし、その日までは希望して生きていきます。それで今は復活の体を目で見ないで希望で感触を得ているようなものです。「希望している状態で救われた」というのは、復活の体の希望を持ったことが肉の体に挑戦状を叩きつけたことになり、神の側に立ったことを宣言したことであると言えます。この希望を持って生きると沢山のため息をつくことになるでしょう。しかし、この希望を持っている限り、つくため息はいつも次から次へと過ぎ去っていき、私たちは前に進めるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

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